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季節物短編


 今の時代の風の噂とは、きっと電子の海に漂う顔の見えぬ文字なのだろう。誰が言いだしたかもわからないところは昔と同じでも、その拡散力、そして風化のしにくさは、昔とは大違いだ。
 私は今、その『風の噂』を“目にしている”。その引用されて貼り付けられた文章には、この深い深い電子の海では腐る程見る『死』という言葉が躍っていた。
 『死ね』『死にたい』『死んでくれないかな』
 こんな言葉、少しSNSを開けば皆書き込んでいる。きっとこの言葉達を見ない日なんてものはない。それが自分自身に対する中傷でも、自らの死を願うものだとしても。
 でも……
 見慣れた深緑のカバーに覆われたスマートフォンの液晶画面には、“見慣れない”その言葉が並んでいた。
 『中学時代の友人が難病にかかったらしい。死を考えたって言ってたけど、今すぐ死ぬんじゃないなら問題ないやんかまってちゃんかよ』
 誰かの死を望むのも、自らの死を願うのも見慣れた日常の景色だった。でも……
 自らの死を考えた友人がいる。
 それは私が今まで見てきたどんな現実よりも衝撃を与えた。大袈裟に言っているだけかもしれない、死を考えた『友人』の言葉を引用しただけの“友人”に、真偽を問うことすら忘れていた。
 私の指は反射的に、その『友人』にメッセージを送っていた。送らなければならないと思っていた。
「私達、まだ二十代やで? 死ぬなんて嘘やろ?」
 直接繋がってすらいない、そんな関係の友人だが、少なくとも電子の海にて悪意を零す『友人だと思っていた女』よりはよっぽど会いたいと思える人だった。





 病院での面会は叶わなかった。彼女はもう、退院していたからだ。その入院というのも検査入院だったらしく、近所のカフェにて合流した彼女の顔色は、とても病人には見えなかった。取り次ぐ際に連絡先を交換した時に仕事をしばらく休んで病院に行っていたと聞いていたので、それで少し痩せたようには見える。
「ごめんごめん、お待たせー。何飲んでんの?」
 先に着いていた私はホットコーヒーを飲んでいた。それを伝えると彼女は「苦いの飲めてええなぁ」と笑ってから、「私は……レモネードでも飲むかなぁ」とウェイトレスに注文をしていた。
「えっと、“あの子”が引用してたん見たんやけど……難病って何なん? 死んじゃったり、するん?」
 元から大の仲良しという関係でもなかったので、多少気まずくはあったが直球で本題に入ることにした。話を切り出した側なのに緊張する。それを少しでも緩和したくて、意味もなく手元のカップの中の黒と白を混ぜる。スプーンによってかき混ぜられた円状の白は、彼女が店に入って来た時と同じく混ざり切らずに渦を巻くのみ。
 逃げるように手元に落としていた視線を恐る恐る上げる。彼女からの返答はない。それがどうにも恐ろしくて、彼女の口元までしか視線を上げられない。ビジネスマナーの本には口元や首元まで視線を上げていたら相手は話を聞いているように感じますとか書かれていたが、絶対そんな肯定的には取られていないと断言出来る。
 小柄な身長と同じく小さな手が、レモネードの入ったカップを包んでいる。その指先がやけに儚げに見えて、思わず視線を上げてしまった。
「……っ」
 同性とは思えない程の、力強い瞳と目が合った。
 彼女は『友人だと思っていた女』の同級生で、私とは趣味の集まりで出会った先輩に当たる。『友人だと思っていた女』がよく顔を出している集まりに無理矢理連れていかれた私に、最初に声を掛けてくれたのは彼女だった。
 その集まりは少しばかりガラの悪い顔ぶれが多く、怯えていた私に彼女は気さくに話し掛けるだけでなく、周囲の男達への潤滑油のようにフォローをしてくれるような人だった。
 おかげでそこで『友人だと思っていた女』が異性関係でトラブルを起こして出禁になってからも、私は単独でもその集まりに顔を出せるぐらいにまではなっていた。そして今ではその集まりがきっかけで“良い感じ”の男性もいる。
 年齢では彼女の方が上だが、敬語なんて必要ないと当の本人が笑うので、私は遠慮なくタメ口を使わせてもらっている。でも……
 彼女は優しいし、強い。言動に自信が滲み出ていて、いつでも楽しそうに笑っている。そこに怯えや不安なんて見たこともなくて、だから、この強い視線はいつもの彼女だ。
「……すぐに死んだりはせんよ。難病は難病やけど、ちょっと腸の中が爛れとるだけや。薬飲んで療養しながら、これからは死ぬまでこいつと付き合っていかなあかん。そういう病気や。治らんから難病やし、十年も経てば癌のリスクにもなる。でもな、今すぐ死ぬもんじゃない。これから、生き方決めれるねん。だから、泣くなや」
 そう言われて初めて、自分の頬が濡れていることに気付いた。慌てて手で拭うと、その雫はとても暖かくて。恐怖でも絶望でもない、安心からの涙だった。
「……良かった……すぐに死んじゃうんじゃないかって不安で……」
 涙が止まらない私の手を握って、彼女はにこっと笑ってくれる。でも、その口元はどこか哀しげでもあった。
「確かにすぐには、この病気では死なんで。でもさ、人っていつどこで死ぬかわからんねん。病気が上手いこといっても、次の日交通事故で死ぬかもしれん。それか通り魔にあうかもしれん。そんなこと考えてたらさ、『生き方』考えようって、なるやろ?」
「生き方……?」
「あんた、涼太とはどないなってるん?」
 急にその男の名前が出て来て、私は握られた手を引っ込めてしまっていた。私の動揺なんてきっとお見通しだろう。彼女はいつも私のことを気にかけてくれていて、涼太が私を家まで送ると言った時も「いや、私が送る」と何度か断ってくれていた。
 彼女は、わかっているのだろう。私と涼太が、『心配される関係』だということを。
「ううん、大丈夫。全然あれから遊んでもないし、心配せんといて」
 ぎこちないながらも笑うことは出来た。強い視線は相変わらず刺さってはいたが、結局彼女はそのことについては深く聞いてくることもなかった。
 それからは趣味の集まりの近況等の話をして帰ることになった。
 カフェを出る時に彼女は言った。
「今日はありがとう。送ってかんで良い?」
「うん、ええよ。それより、やっぱり人に話せたら少しは楽になった?」
 軽い気持ちで言った言葉だった。だって、悩み事は人に話せば楽になる。だから、そこに他意はなかった。
「言葉って、口に出せば途端に重たくなるんやわ。頭の中で考えているだけなら、そこには何もないんやけど、口に出した途端『責任』が生まれる。私はな、悩みとか話して気持ちが軽くなるんは、『悩み話して、それとしっかり向き合って、腹くくる』から心が軽くなるんやと思ってるねん。だから、難病を告げられた時から、私はなんも変わらんかな」
「……そっか」
「あんたも悩んだ時はこう考え。自分がどうやったら責任ちゃんと取れるかって」
「……うん」
 きっと彼女は何もかも見通しているのだろう。だからそうやって……
 そうやって、私を突き放すんだ……







 深緑のカバーに包まれたスマートフォンが振動している。長い。これは着信の振動だ。いつもバイブレーションだけに設定しているために、私の通話に出る動作は基本的にワンテンポ遅れる。親しい間柄の者達はそれを承知なので、皆長めに鳴らしてくれる。
『おっそ、もう切ろか思た。お前いつになったらオレの電話はよ出れるようになるん?』
 通話開始の電子音からコンマ何秒だろうか。そう矢継ぎ早に私のことを責めるのは、先程彼女との話題にも上がった『涼太』だ。全く同じ名前を浮かべるディスプレイに指を滑らせて、少しだけ通話音量を下げる。彼はいつも車を走らせながら通話してくるので、車内で流れている音楽が煩いし声自体も大きい。
 まるで威嚇のようなその声は、私に対しての“特別”仕様だ。趣味の集まりの場での彼が、こんなに偉そうに話しているところは見たことがない。涼太は私の一つ年下なので、あの集まりの中でも立場が下だからだろう。彼よりもおっかない先輩は、彼女も含めてたくさんいる。
 そう、彼は彼女のことをおっかない先輩だと思っていた。そして面倒くさいとも言っていた。
「ごめん。今日仕事ちゃうの? どうしたん?」
 ディスプレイの表示には十六時の数字。今日は水曜日なので彼は仕事だと思っていたのに。またサボってしまったのだろうか。
『今日ははよ終わってん。お前はまだ大学?』
「もう帰るとこやけど」
『なら今から行くわ! 鍋でもしようや』
「え? 今から? 部屋なんも片付けてないし、それに今夜は違うもん作ろうと――」
『――今日の現場めっちゃ寒かったから鍋食いたいねん! 材料は買って行ったるから、ええやろ?』
 まるで悪いことなんて何もないという彼の言葉。強引で自分勝手で、いつも私の意見は無視する男。両想いの彼。
 付き合おうとも、好きとも言われたことはない。ただ、夜は何度か共にした。いつもは彼女に送ってもらっていたのに、その日に限って涼太に送られた。その日、私は彼に犯された。
 家まで送るという行為に、危険があることはわかっていた。強引そうな彼の言動もわかっていたし、多分そうなることすらも予感があった。
 でも、拒めなかった。恐怖ももちろんあったが、あの時の私は間抜けなことに、そんな彼のことをカッコイイと思っていたのだ。
――ううん、違う。今も……
「わかった。ええよ」
 彼の強引さが心地良いのだ。ヤンチャな見た目もカッコイイ。自分に自信がなくてうじうじしている自分とは違う。彼は私を引っ張ってくれるのだ。
『じゃ、今向かってるから後二十分くらいで着くわ』
 ご機嫌な涼太の声を聞いて、小さく息を吐いてから通話を終了する。






 涼太が買って来た鍋の具材は案の定肉が中心で、スープは見た目から辛そうな赤色だ。辛さの番号が五番なんて、私は正直白飯が無ければ食べることすらままならない。私の意思なんてそっちのけ。
 辛いモノ好きな涼太のチョイスは、本人からすれば最高で、『オレが選んだモノは全て最高。お前もそう思うやろ?』と知り合った頃に言っていた戯言と一致する。こんな自分勝手な人間を、私は彼以外に見たことがない。
 初めて“両想い”になれた相手だった。
 幼い頃から厳格な両親に育てられた私は、自分で言うのもなんだがお嬢様な育ちだ。高校からは女子高に通っていたし、男性とお付き合いしたことも“ない”。
 もちろん“手を繋いだこともない”し、遊園地にも映画館にもデートに行ったことは“ない”。
 ただ、キスはした。もちろんその後の交わりも。
 一人暮らしの自分の部屋で、相手は数週間前に知り合ったばかりの涼太だった。獣の気配を滲ませた彼に、愚かな私は部屋に入ることを許してしまった。
 男女が密室で何をするか。交際経験がなく奥手な私にも、それは理解出来ていた。少女漫画や恋愛ドラマで何度も見るくらいには、知っているつもりだった。
 しかし私の知っていると思っていたことは、随分と表面的なことばかりだったようだ。
 涼太は部屋にあがってすぐに、私をベッドに押し倒してきた。そのまま服を脱がされ、抵抗も出来ずに固まってしまった私に向かって、彼はまるで機嫌を取るかのように「可愛い」だの「ずっとこうしてやりたかった」だの「お前も気持ちイイやろ?」だとか言っていた。
 目の前の現実がどこか遠くでの出来事に思えた。この男はいったい何をしているのだろう。
 混乱する私の視線に気づいたのか、涼太の大きな骨ばった手が、ふいに私の頭を撫でた。穏やかそうに笑う彼の表情に、何が現実なのかわからなくなった。
「可愛い」
 ぐちゃぐちゃになった頭に向かって、彼は今と同じ言葉を投げたのだ。優しい、まるで愛されているかのような言葉に、私は騙されてしまったのだ。
 彼は私を可愛いと言ってくれる。好きでもない相手にそんなことを言うはずがない。彼はきっと、私のことを好きなのだ。
 今もあの初めての時と同じ。自宅のベッドの上で、私は彼に迫られている。胸元ははだけて、彼の手が私の肌を撫でてくる。
「なぁ、涼太?」
「ん?」
 彼の手は止まらない。それはもう、良い。彼は私を求めてくれている。
「私のこと、好き?」
 私はこれを聞きたかった。彼の気持ちを聞きたかった。聞かなければならなかった。
「……こういうことしてるん、それが答えちゃう?」
 涼太は少しうんざりしたような顔をして、それだけ言った。答えているようで答えていない、卑怯な言葉だ。
「好きって、言って」
「……」
 彼の手は――止まった。
 ピ、ピコン。
 二台分のスマートフォンの通知音が流れた。同じ通知音なところを見るに、メールや着信ではない。その音に小さく息を吐いて、涼太は私から離れてベッドからも腰を上げた。
 先程まで鍋が占領していたテーブルの上に置いてあった二台のスマートフォンの片方、自分の分の液晶をスワイプする。
「あー、先輩やん」
 彼はそう言いながらスマートフォンを操作する。ベッドから動いていない私からも画面は半分程見えている。特に本人に気にした様子は見えない。
「……先輩って?」
「昼にお前も会ってたやろ? 病気らしいな? なんか語ってるで」
 私が誰のメッセージを見ているのかと問うと、彼はそう言いながら画面をこちらからも見えるように翳してくる。
 液晶画面には見慣れたSNSの画面。やはりその通知音だったか。今度は人づてじゃない彼女の画面だ。
『言うだけならタダって言葉、私も仕事上よくわかるし悪いことじゃないと思う。その一言で幸せになる人はいるし、それだけ相手を想ってることでもあるから』
 彼の手がその投稿を反射的にタップしようとして、止まった。彼はいつもおっかない先輩達の投稿には出来るだけ早く『いいね』を送ろうとしている。当の先輩達は彼からのいいねなど気にも留めていないというのに。
 私のスマートフォンから通知音が続く。彼の分は既に開いているので通知は鳴らないようだ。液晶画面には新たに投稿された文章が、勝手に更新されていく。
『言葉の力って重い』
『頭に思ってるだけなら罪にならんことも、口に出したら罪になる。自分の思いに形を与えるって行為やから、重たくなるのは当然や。でも、その重さを伝えないと、それはその思いに責任を取ったことにはならん』
 ピコンピコンと私のスマートフォンだけが鳴る。まるで、私のために“通知”してくれているかのようだ。
『私は好きな思いは相手に伝えると決めた。病気でいつ死ぬかわからんって強く考えた時に、この気持ちを伝えないのは絶対に後悔すると悟ったから』
『好きな相手に好きって伝える。上手くいかんかった時のことは、考えない。確かにミスったら相手との関係を失うかもしれん』
『でも、それを言わんまま関係を続けても、相手がいなくなるかもしれん。自分が死ぬかもしれん。そうなった時、誰も責任は取ってくれん。自分の責任を取れるのは、自分だけなんや』
 涼太がスマートフォンの画面を閉じた。しばらくの間が空いて、二台分の通知音が響く。
 彼は暗転した液晶画面を見詰めたまま、開こうとしない。こんな時まで私の意思なんてそっちのけ。
 動こうとしない彼の横に腰を下ろして、私は自分のスマートフォンに手を伸ばした。青色の通知の光が光っている。スワイプ。タップ。
『私はちゃんと告白する。だからお前も、ちゃんと告白<い>いや』
 これが最後の投稿だった。連続で投稿されたその文章達は、私の心を叱咤する。私のための投稿ではないかもしれないなんて、私には思えなかった。
 これは彼女からのエールなのだ。だから、私は告白<いわ>ないといけない。これまで怖くて……関係が壊れることを恐れて、自分からは言い出せなかったその言葉を。
――自分で聞くことはしていたのに。私って、本当に意気地なしだ。
「私な……涼太のこと――」
「――オレ、言い忘れてたことがあってん」
 私の初めての告白は、彼の言葉によって掻き消された。本当に、私の意思なんてそっちのけだ。





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