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食罪人


 『これはお前の愛を受けた血肉』
 男の前に今宵の主役が並んでいる。欲望を捕らえて離さないその極上の香りが、龍の鼻に吸い込まれ、その口に極上の血肉が放り込まれていく。
 龍の口は既に、人ならざるカタチに歪んでいる。巨大で禍々しい牙が並んだその口ならば、いくら大皿に載った血肉と言えど、一口でぺろりと飲み込める。だが龍は、そうはしなかった。
 龍は酷く時間を掛けて、その血肉を貪っていく。睿の心に禍々しい渦をこさえるために。わざと見せつけ、そして味わう。柔らかく調理された肉を食み、パリパリの皮を堪能し、奥底に隠された骨をバリバリとその牙で断つ。
 愛おしい、愛おしい血肉。命の暖かみを失ってからも、睿の心をこれ程までに捕らえて離さない。愛おしい血肉。愛おしい身体。
 添えられていた彩と共に、足が消えて、腕が消えた。心の蔵にはまだ届かない。
 腸を抜き取った腹の表面を薄く、薄く削ぎ落す。皮と共に薄く血肉も引き摺って、その口が、舌が偽りの腸≪毒≫に辿り着くのを夢想する。
 『これはお前の愛を受けた血肉』
 肉を削ぎ落すその時だけは、睿の頭の霞が薄れた。
 出会いは物心ついたその時だった。言い換えれば幼馴染という、なんとも甘酸っぱいものだった。貧困層で生まれたために、睿の住んで≪潜んで≫いた家屋には、たくさんの貧しい人間が押し込められていた。
 睿は親に望まれた子供ではなかった。生きる希望も夢すらもなく、はした金と引き換えに労働力として放り出された。今では親の顔すらも思い出せない。睿にとっての人生において、常に近くにいたのは最愛の妻となるその女性だけだった。
 彼女もまた、親に望まれた子供ではなかった。同じ子供の労働力といっても男児と女児ではその用途が異なる。一部の顔立ちの良い男児はまた別だが、一般的には男児は単純なる肉体労働として、女児は、こちらも一部の顔立ちの良いものは行き先が異なるが、とにかく金と引き換えに売られるということには変わりない。
 彼女はこの家屋の下働きとして引き取られた。下働きと言ったらまだ希望はあるが、その本質は奴隷とも思えるような内容だった。自由となる時間も金もなく、ただ肉体労働のために駆り出される男児のお世話をする。糞尿の匂いの立ち込めるその空間で、彼女はそれでもとてもよく働いていた。
 ほとんど一目惚れのようなものだった。貧しく汚らしい恰好をした彼女は、それでも美しいと、そう睿には感じさせた。こんなところに売り飛ばされた娘だ。おそらく金持ち達には売れない程度だと、その時はそうだったのかもしれない。だが、煤や埃で薄汚れたその笑顔が、睿の心にはどんな陽の光よりも輝いて見えたのだった。
 二人はまだ幼かった。幼いながらもお互いに、魂の奥底から惹かれ合った。自由になる時間は睿にもほとんどなかった。それこそ二人が会える時間は、他の者と時を同じくしている。食事の時間と掃除の時間、そのすれ違うような僅かな時間に、二人は恋心を加速させ、その愛を本物にしていった。
 劣悪な環境はそれから十年程続き、二人の周りの人間達はその間に目まぐるしく変わっていた。とても人が生きる環境が整っているとは言えない家屋だった。周辺の――貧困層の住む≪潜む≫区画は総じて寄り集まっていることが多い。都の煌びやかな気配に背を向けるようにして、その仄暗い家屋達は陽の光を避けて立ち並ぶ。
 巷では伝染病が広まる時もあれば、恐ろしい人斬りが彷徨う時もあった。身の毛もよだつ怪異が囁かれた時には、睿は禁を破って彼女の寝床を守る番を行った。幼き頃からの付き合いの者達が、流行り病に倒れ、作業中の事故で亡くなり、怪我で済んだ者も傷口から広がった菌により立ち上がれなくなった。都であれば、薬があれば治るはずのそんな簡単な病にすら、睿達は命を脅かされていた。
 彼女の周りもそうであった。女児から女性へと成長を遂げた彼女達の周りで流行している病の種類は、睿の周りとは違う種類のものであったようだが。
 身体も心も成長し、睿は彼女を連れてここから抜け出すことを計画した。元よりこの家屋には、貧しい家々から売られてきた子供達が次から次へと放り込まれていた。それこそ替えの効く消耗品のように冷淡に簡単に。ここで二人逃げ出したところで、すぐに替えを補充するだけ。わざわざ逃げた人間を追うことに人手を裂く程、この家屋を牛耳る人間は暇でもなく、また執着もなかった。
 睿はボロボロになった紙の通りに、彼女を連れて“抜け穴”から家屋の外に出た。その紙は、睿の前に脱走した友人の置き土産であった。
『次は愛しい者と一緒に、お前が逃げろ』
 そう小声で言ってこの抜け穴の地図を押し付けた友人は、今ではもうどこか遠くに逃げていることだろう。どこかで定住でもして、楽しく幸せに生きてくれていたら嬉しい。彼の料理は本当に美味であった。男のくせにと最初は馬鹿にしていた睿だったが、いつしか彼が料理番をも兼任していたことを知った時には、思わず唸ってしまっていた。
 彼から料理を習ったという彼女の料理の腕前が、その時から向上したというのは秘密だ。彼女の最初の頃の手料理は、素材の劣悪さを抜きにしても、とても人間の食べられるものではなかった。
 抜け穴は郊外の荒れ地に続いていた。狭い坑道を越えるのはなかなか骨が折れた。終始中腰で、倒壊の危険を否定出来ない造りのままの坑道を迅速に進んだ。男の睿でも息が切れたのだ。女である彼女は本当によく頑張ったと思う。空気も悪く、パラパラと頭上から土が崩れてくるあの恐怖は、二度と味わいたくないものだ。簡素な木々を張っただけのその坑道は、後数回の使用すらも保つとは思えなかった。
 睿は坑道の出口から地面に這い出た。今更服や肌が汚れることは気にならない。これまで自分達が住んでいた所の方がよっぽど衛生的には問題があった。周りの人間が患っていた疾患の多くがその劣悪な環境のせいだということに、睿は気付いていた。彼女に手を貸しながら、辺りを見渡す。
 遥か彼方に都の明かりが見えた。それ以外は一面の荒れ地だ。人が住む家屋もなく、ただ荒れ果てた痩せた土地だった。まるでそれが自分達のように感じて、睿は密かに心が落ち着いたのを今でも覚えている。
 隣で彼女も同じ気持ちだったのだろう。小さく息を吐いた彼女の横顔は、それまで見たなかで一番美しかった。自由という輝きが、彼女の中で満たされるような光を放っていた。もう、二人がいれば、後はどうでも良かった。
 背後で煌めく都から遠ざかるように、真反対へと睿は足を向けた。彼女も無言でついてくる。あの地獄のような家屋での肉体労働の派遣先が、都であったことなど、きっと彼女も気付いていたのだろう。また、自らの周りの女達が、その都へと売られていく様も見ていたに違いない。
 ただただ方向だけで行く先を決めたために、睿の足を向けた先には険しい山しか見えなかった。それでも良かった。とにかく遠くへ、二人の知らない場所に行きたかった。
 食べる物もなく、着の身着のまま出てきた二人は、山をそれでもなんとか越えることが出来た。獣道を進み、密林を越えて、ようやく陽の光が降り注ぐ平野に出た。山の反対側に出ていたため、荒れ地からは見えなかったが、この麓にも都があるようだった。
 さすがにもう、限界だった。ほとんど獣のような生活をして、死に物狂いで山から出たのだ。あれだけ嫌だったあの家屋での生活が、いかに人間のものだったかを思い知った。決まった場所で寝食をし、他の人間と会話をする。それこそが人間であり、獣とは違うものだった。
 与えられた仕事はない。二人は自由だった。しかし、その自由は真の意味での自由を生み出さない。二人には金が必要だった。住む、帰ってくる家が必要だった。仕事が必要だった。人間の社会に入り込むことが必要だった。
 二人は汚らしい恰好のまま、遠くに見える都に向かって歩き出した。ここまでの道中を乗り越えた二人には、こんな距離は大したことはなかった。二人はもう、お互いにとっての最愛の存在であった。富も名声も睿は持っていないが、誰よりも幸せだと自信を持って言えた。何よりも大切なものを、睿は既に手に入れていた。
 都についても、二人の状況は変わりそうになかった。二人が育った家屋よりも酷い光景を取り巻きに、中央では煌びやかな世界が花を開く、そこはそんな都であった。統治も何もなく、ただ中央のためにその寄せ集め達が死に物狂いで働いている。そこに混ざることは容易いが、そこから逃げ出すことはもう不可能に見えた。少なくとも外からでは、そう見えた。きっとあの頃の自分達も一緒であったはずだが。
 二人は山に戻っていた。しかし、それは諦めではなかった。都で人の生活が送れないならば、ここで人の生活を送ろうと。そう二人は考えた。そしてそれは間違いではなかった。
 山の山道に面したところに、きっと二人と同じ思いを抱いて、そして――散って逝ったものがいたのだろう。薄汚れた家屋ではある。不正な手段でもあるのだろう。だが、それでも住居を手に入れた二人は、二人の唯一の取柄である『料理』を飯のタネにすると決めた。
 料理のための調理器具は、都まで出向き、鉄くずの山から引っ張り出してきた。刃も“問題なく”手に入れた。火を起こし、水は自ら山を駆け毎日新鮮なものを確保した。材料のために逃げ出した家畜を“保護”してそのまま連れ帰った。野菜の一部は裏に植えて、それ以外は山から天然のものを拝借した。
 付け焼刃なその店も、たまに通る旅人には好評であった。元より人の往来がほとんどないために、金としての潤いはなかったが、それでもその生活は二人にとっては幸せなものであった。少ない金も二人の生活に必要な分ぐらいは確保出来ていたし、二人が食べるものにも困らなかった。素朴なその生活のためか、盗みに等しい手に入れ方をした家畜達も、二人にはよく懐いていた。
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