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食罪人


 極上のお客様が感嘆の声を上げたのは、睿が手に持った厚口刃で肉の足を叩き切った時だった。
 灼熱の炉で直焼きにされたこの肉の正体を知っているのは、料理した≪手に掛けた≫睿だけのはずだった。
 明暗爐のための設備に視界を遮る扉なんてものはなく、睿の目の前でこの肉は命を焼き、削ぎ取られていったのだ。
 本来使うはずのアヒルならば、この工程の前に足も舌も手羽先も全て取り除かれているのだが、この極上のお客様が求める食材は違う。生物本来の見た目≪カタチ≫をそのままに、焼き、断ち、喰らうのだ。
 心を掻き毟る“悲鳴”を殺すために舌は抜いた。喉の奥から引き抜いた愛を語るソレを、添え物として別に料理する。
 極上のお客様がこだわるのは、その料理の美と、酷だ。
 “彼等”がこの小さな店の常連となってからというもの、睿の愛を注いだものは全て等しく肉となった。
 四羽のアヒルに、一頭のブタ。これらは最終的には食材としての使用を考えてのものではあったが、愛情がないというわけではなかった。丹精込めて育てた、いわば子供のようなものだ。それが今はもう、残り一つの血肉を残すのみだ。
 お客様に料理を提供する料理人として、睿は彼が望む全てを差し出した。丹精込めて育てた肉に、与えられた愛しき“刃”が確かな働きを見せ、そして睿が職人の技で極上の料理へと昇華させていたのだ。
 都の方では宮廷料理とされるこの地方の料理だが、睿の腕は確かに“高貴なお客様”の心を掴むだけの技術を持っていた。貧困層出身である睿には、この小さな料理店を維持するだけで精一杯で、愛しい妻が身体を切り売りしてようやく、この唯一にして極上の上客を繋ぐことが出来ている状態だった。
 縁起物として、そして何より妻が好きだった色である赤を基調とした店内は、シンプルでいて狭苦しい。大きな円卓を置いたおかげでその一卓のためだけの店になってしまっているが、その通りなのでもうこの際何も思わない。
 入口から入ってすぐに円卓、目隠しのための壁を挟んで厨房と、お世辞にも広いとは言えない空間に、今日も極上のお客様は座っていた。




 愛しい愛しいその足を叩き切り、そのカタチの美しさに息を呑んだ。男のものとはまた違う、細く繊細な肌を欲望の黄金色が包み込んでいる。
 食欲をそそるその肉の香りには、ほのかな甘みが隠されており、食材本来の甘き誘いが鼻から脳を掻き回すようだった。
 肉を断ち、皮を剥ぐ毎に、睿の心を罪の痛みが襲う。
 肉を断つ。愛しい身体を。胴から四肢を切り落とし、人のカタチを食材へと変える。
 皮を剥ぐ。愛しい身体を。その柔らかく愛おしい胴から、一枚一枚、削ぎ落す。
 彩を散らす。愛しい身体へ。野菜の緑がやけにみずみずしく、その血肉を飾り立てる。
 腸を詰める。愛しき身体へ。命となりえなかったその小さな存在を、醜き詰め物として詰め直す。
 料理人の手を淀みなく動かしながら、睿の目は、鼻は、耳は、口は、その『狂気』にいっそ、狂ってしまいたかった。
 狂う代わりに、狂う元となった存在を想う。
 薄い扉の向こう側――寝床に放置したままの、その愛しい身体に意識を飛ばす。美しい、愛しい身体。魂を引き摺り出したその身体には、汚らわしい夢想で蓋をした。命を奪われたその身体には、人の気配は感じられない。
 龍の姿を収めるこの目が愛おしい。指先を瞼に食い込ませるようにして、眼球をその汚れた指先で触れる。
 龍の香りを嗅ぐこの鼻が愛おしい。形が変わるぐらい指に力を入れて押し付ける。汚れた指から腐った血肉の香りがする。
 龍の声を拾うこの耳が愛おしい。手入れをしていたはずの爪先が、柔らかい耳朶に薄っすらと傷を残す。感情すら感じさせぬその声音が、心の奥底で恐怖と不安を煽る。
 龍と言葉を交わすこの口が愛おしい。この喉の渇きが血肉への飢えに感じて、汚れた手と知りつつその奥底に突き込む。酸の匂いすら感じぬ程に、香しい血肉を求める、獣のような欲望を渇望する。
 汚らわしい欲望を、口にも態度にも出すことなく。睿は自身の仕事を全うするために、厨房へと一人戻ったのだ。極上の血肉を大皿に載せて、夫婦のための寝室には、愛しい骸だけを残して。
 愛しい刃をひた隠し、龍への最後の晩餐を用意する。冷静な料理人の手に、迸る程の憎悪と殺意、そして愛しさを混ぜ込んで。狂えぬのは道理。人でなければ狂えない。
「……お待たせ致しました」
 未来も希望も夢さえも、腸≪全て≫を引き摺り出した胴体に、贖罪の毒≪子供≫を詰め込んで、睿は龍の前に皿を運んだ。
 この店に置いていた一番大きな皿だった。この大国では平均的な体格の睿が、両腕を広げて漸く持つことが出来る。美しい装飾が走るその皿には、今宵の主役はまさに適役であった。
 装飾は金で描かれた龍であった。人々の伝承そのままの、長い長い蛇のような胴体。そしてその中心に、愛しい愛しい血肉が彩と共に載せられている。
 『これはお前の愛を受けた血肉』
――その通りです。愛しい愛しい血肉であります。
 恭しく龍の前に捧げる。大きな皿が必要以上の音を上げたが、龍はそんなことを、そんな小さなことを今更気にするような存在ではない。
「これはこれは……素晴らしい」
 男は、龍のものとも人のものとも思えぬ唸り声を上げ、そして取り繕ったかのようにそう述べた。歪に歪んだ口元は、既に人ならざるものへと変貌していることにも気付かず、己の食欲を満たすであろう極上の料理を目の前に、子供のように瞳を輝かせている。
 そんな男の隣の席には、何の存在もいない。人も。龍も。いないのだ。龍が皮の一切れを口に運んだ。少し肉を残して削ぎ落されたその皮は、香ばしく甘い水飴塗れの皮と生の香りが色濃く残る血肉を口内で混ぜ込ませる。
「極上の味ですな」
 龍が肉を頬張りながら感嘆の声を上げた。
 それはそれは美しい、肉であった。最上の愛を込めて接した血肉が、酷く歪んだその口へと運ばれ、そして飲み込まれる。睿が手に持つ刃など、彼等には最初から必要なかった。
 だが、彼等は睿に手間を掛けさせた。己の愛情を注いだ肉に、己で刃を突き立てることを望んだ。元から料理人が皮を削ぎ落す料理ではあったが、それですら異質な工程であるかのように。
 あれから“毎日”幾度となく聞いたその言葉に、睿は知らず知らずのうちに頭を垂れていた。双眸に溢れる雫が、止まらなかった。
 それは無意識からの敬服でなければならなかった。しかし、睿の心に渦巻いている感情は龍への服従ではなかった。
 『これはお前の愛を受けた血肉』
 その言葉が呪詛のように、睿の胸で炎を宿していた。
 ついに来たこの時に歓喜とも憎悪ともつかぬ感情を抱きながら、手に持ったままでいた厚口刃を握り締めていた。手から流れ出たままの血肉の香りは、睿の鼻には届かなかった。
 ついに来たこの贖罪の時に、睿はこの刃を握ったままでいた。愛しい刃を、握ったままでいた。
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