食罪人
心を重ねた睿と龍は、厨房の薄い扉を開けて、処理場へと移動した。幼き愛しいその身体を抱き上げて、仕込みのための台に座らせる。深紅の瞳は睿を離すことはせず、ただ真っ直ぐに、期待に満ちた輝きを持って見詰めている。
「……あの父親を、お前の……この刃で殺せ、と……そう言うのか?」
言葉を選んだつもりで酷くたどたどしく話す睿に、龍は優しい笑みを返した。その笑みを肯定と受け取った睿は、小さく溜め息をついてから、もう一度、今度は詰まることもなく確認する。
「この愛しい刃で、あの父親を、俺に殺せと?」
龍の小さな頭がこくんと頷いた。その瞳が、試すように睿を見ている。歪に歪む、笑顔。
「ボクの尻尾でもあるその刃は、即ちあの父親の刃でもある。龍の身体は特別で、この世にある武器では傷をつけることも出来ない。どんな衝撃も、自然も、刃も退ける鱗に守られてる。でも、その身体には矛盾がある。全てを貫くその尻尾が、己自身の唯一の弱点なんだ」
龍の白く細い腕が睿の首に伸びる。悪戯のようにさらりと指先で感触を楽しみながら、その手が首から口に滑る。そのまま口――歯にその繊細な指先を掛ける。力を込めて、その柔肌に歯が食い込むまでに、力を込める。しかし、その指先に傷がつくことはなかった。
龍はにんまりと笑うと、その指先を今度は下に下ろしていく。するすると服越しに這うその感触を、睿はそれすらも愛おしいと思った。愛おしい指先が睿の手に触れ――己の刃をなぞっていく。
ぽたり。ぽたり。
睿が持つ刃から赤の滴りを感じた。目に見えたわけではない。睿の目は深紅に貫かれたままだ。この愛しい深紅から目を離すことは、世界に対する大罪に値する。霞がかった頭の中で、そんな馬鹿なことを考える。
刃は睿の身体の一部のように、その感触をダイレクトに伝えていた。指先よりも鮮明に、強烈にその感触が伝わってくる。愛しい赤の一滴まですらも鮮やかに。鮮やかなる、赤。
「この刃なら、あの父親を殺せる」
「……あいつは、気付いていないのか? 俺が、この刃を持っていることを」
己の保身から、ではなかった。龍は人間とは違うものだ。人では感じ取ることの出来ないあらゆるものを、彼等は感じ取ることが出来る。それは自然の声然り、世に蔓延る悪意然り、人間という器の中の汚らわしい情欲然り。
自らに湧いた龍への殺意と、この小さな身体に滾る憤怒。その強すぎる感情をひた隠すため、殺した感情。虚ろな瞳に蓋をして、しかしそれでも……龍にはお見通しではないのだろうか。
霞みに散らされた睿の心を、龍はきっと嗤っていた。最愛の『愛おしい存在』をああも容易く奪い去り、その残骸を面白おかしくその場に残した存在だ。これ見よがしに睿の目の前でそれを“見せつけ”、その反応すらも窺っていた。そして言った。喰わせろと。
「ボクの見えざる尾は父上にも見えない。ボク以外の誰にもね。だから、その刃が目に触れない限りは、気付かれることはないよ」
「……この刃で俺があいつを襲えば良いことはわかった。だが……どうして……どうして、お前を料理しなければならない?」
心を重ねた二人は、もう客と料理人の関係ではなかった。どういう形であれお互いを求め、必要とし合う、愛を受け合う関係であった。そこに畏まった言葉など、必要はない。
直球過ぎる言葉だったからか、龍は小さく笑った。穏やかに、優しく。決して嘲笑うような笑みではない。睿のことを大切に想う、『愛』に満ちている。
「それはボクが、父上の愛を受けた血肉だから」
龍の子供は、父親から愛されていた。それはもう間違いなく。その強大な人間離れした大きな愛情を、小さな一身に。
まだ少女だったその身体は、龍を写し取ったことにより、本来の性別とは異なる成長を始めた。人間に比べれば遥かに永い時を生きる龍という種族に合わせて、その小さな身体はゆっくりと、本当にゆっくりと成長を始めたのだ。
ほんの微かな声変わりがあり、丸みを帯びていた身体から肉が落ち、元々しなりと長かった手足には薄っすらと筋肉がついてきた。未熟なままにその機能を停止した生殖器には、咎のような龍の紋様が浮かんだ。がぶりと酷な噛み痕のようなその『印』が、他ならぬ龍の罪であり、烙印であった。
己の内から叫ばれるその咎の声≪痛み≫にも、もう慣れた。父親となった存在からはこの世の贅を全て与えられ、富も信仰も愛情も食も、そして咎も罪も酷も与えられた。この世に龍の知らないことはない。それは子供である龍も同じだった。全てを教わり、全てを吸収した。父である龍のために。己の意思など関係なく、必要なく。父に消費されるために。
「龍に生身の人間が挑んでも、敵うはずがない。それは睿も、もちろんボクもわかっている。それはこの世の理だから。だからボクの血肉を食べて、父が『弱った』ところで、とどめを刺して欲しいんだ」
「……どうしてお前の血肉であの龍が弱る?」
龍の共食いは聞いたことがない。人が人を食すことを罪とするように、高貴なる龍も考えているに違いない。話を聞いたことがないということは、誰も試したものがいないということではないのか。同じ種族を襲わない。それは誰もが神から授かりし教えのはずで。
「あの欲望に憑りつかれた父親は、『この世で食べたことのないもの』を求めている。それはもう強く。その父の目の前に、丸焼きになった龍の肉が出てくれば、例え頭のどこかでボクかもしれないと考えても、その醜い欲望に抗う術はないはずだから」
まるで自身を売り込むかのように、龍はその愛らしい肢体をくねらせた。豪奢な衣がはだけて、艶めかしく香る脚が露出する。男のものとも女のものともつかない強い情欲の香りが、ふわりと部屋中に広がった。
睿の喉がごくりとなるのをしっかりと見届けてから、龍は言葉を続けた。その酷に歪んだ言葉を続けた。
「龍は龍によってしか傷つくことがない生物だ。それはこの龍の血肉自体が、自らにとって毒となるから。己の欲に歪んだ血肉が、その身を壊してしまうから」
「だから、料理か……それなら、命をわざわざ捧げなくても、腕なり足なりでは、いけないのか?」
そう自分では言いながらも、睿は果たしてそれが可能かと自問自答してしまう。香しい誘惑のその四肢を、果たして切り落とすだけで自分は満足出来るのか、と。
なんの傷もない今ですら、そのすらりと伸びる四肢からは情欲を誘う色香が、その時折甘く開かれる口からは理性を吹き飛ばす雫が、そしてそのどんな赤よりも美しい深紅の双眸が、睿の心を、料理人の魂を揺さぶるのだ。
己を愛おしそうになぞるその腕を、誘惑に開かれるその足を断つだけで、本当に止まることが出来るのか?
己を映す深紅の彩をくり貫き、その愛を語る舌を引き抜き、男に組み替えられたその腸を引き摺り出して、それだけで満足出来るのか?
その身を形作る最後の一滴まで、自分は無駄にはしたくないのではないのか?
『これはお前の愛を受けた血肉』
正しくその通りであった。
愛を示す行為こそ交わしていない。だが、その小さな愛しい身は、正しく睿の愛を受けた血肉であった。
寝床の地べたに転がったままの、最愛の血肉とは違う。気まぐれのような龍の“一撃”を浴びた、愛おしい最愛の“人”とは違うのだ。
睿の愛は、霞に覆い隠されていた。だが、その最愛の人が奪い去られる時、その瞬間だけは睿の心の霞は晴れていた。酷くはっきりと、龍の見えざる一撃で、最愛の人は命を絶たれてしまっていた。
あれも、何も、どれも、してやれなかった。心のどこかでこの未来を感じていた自分がいたのに、龍のその存在に、愛に負けて、愛に甘えて、愛に溺れて、愛に、愛に、愛に……
「ボクは父を落とし込んだ存在だから……だから……っ」
「……もう、“自分”に嘘をつくな」
睿は座らせた龍を優しく抱き締めた。己の中の醜い欲望に蓋をして、倒れ伏した美しい妻の瞳の目の前で、小さな小さなその身体を抱いた。
龍は『自身に己を落とし込んだ』存在の死を願い、『己の身体』の死を恐れていた。落とし込まれた男のものではないその感情が、その小さな身体の主張に他ならない。この身体は、龍であって、あの男ではないのだ。
「お前は、お前だ。俺の妻の命を奪ったものでも、あの男そのものでもない」
「……っ……でも、ボクは……」
深紅の双眸から雫が零れる。その透明な美しい雫が、睿の服に小さな染みを作る。
「お前は、俺の仇ではない。だからどうか、料理して欲しいなんて……言うんじゃない」
少年の声の嗚咽は、復讐を誓った少女のものだった。震える肩が小さな身体を蝕んだ孤独と復讐心を表しているようだった。子供に負の感情を与えるものも大人ならば、消し去ってやれるものもまた大人だった。