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食罪人


 龍には本来、食器など必要がない。大好物のその血肉を晒していれば、その下に豪華な台座も食べるための道具も必要はないのだ。人のカタチをしながらも、食するその動きは獣のそれ。返り血でも飛んでくるのではと錯覚させる程に、その食は野生じみており、異端。そして、神聖なる生物だった。
 ずるりとアヒルの頭がそのまま口に放り込まれる。最後まで非難とも哀れみとも取れる色を晒したその目が、やけにゆっくりと龍の口に隠されていく。
 『これはお前の愛を受けた血肉』
 この光景を睿は焼き付ける。心に、頭に、そしてこの手に。爛れた手は、そのままだった。愛する二つの命を奪った代償。その命に歓びを声に出した罪であり、これは龍の贖罪だ。皮の剥がれた手のひらからは、あれからずっと自身の赤が滲んでいる。身に着ける白がその醜さに汚される度に、睿の頭は徐々に霞に飲み込まれていくかのようだった。
 手から滑り落ちてしまった自身を抱え直すように、睿はその手を愛しい刃へと伸ばした。ごく自然に伸ばされたその手に、必要な刃が握られる。そう、これこそ料理人の魂だ。愛しい血肉を断ち、切り刻み、削ぎ落すのは、この刃でなければならない。そして、その血肉を食すのは、あの男でなければならない。何故ならば、あの男は……あの男こそが……
 龍の大きく開いた口に、削ぎ落したアヒルの皮が流し込まれる。パリパリに焼かれたその食感を楽しむかのように、大きな顎が動く。凄まじいまでの牙が並んだその口が、ゴリゴリと噛み千切り、続けて放り込まれた骨すらも断っていく。人である部位は既に貧弱なるその手だけ。己の欲望にかまけた龍に、対外的な姿勢を維持する余裕はない。酷く卑しい罪に塗れたカタチのその手で、食器も持たずに極上の血肉を鷲掴みにしていく。
 酷く歪んだ手であった。成人男性のそれと同じなのは、その見てくれだけだった。視界の遮るものの多い厨房からはよく見えなかったが、近く――馳走を運んだ時に見た、男の手は歪だった。
 外の皮こそ『人のカタチ』を模している。その言葉が一番近いだろう。人のカタチをした入れ物に、醜い欲望を流し込んだ結果、その指先は酷く歪んでいた。毒の土壌から逃れる木の枝のような指先が、出鱈目な枝分かれの末の姿を晒している。
 それが睿にはまるで、龍という生物の末路のように見えた。
 歪なカタチに生物としてのカタチを変えられ、その未来すらも歪に歪められている。彼等はもう、未来を夢見ることが出来ないでいた。この子供を除いて。
――そう、子供だ。未来だ。子供こそ未来のカタチだ。
 至極の時はすぐに過ぎ去る。それもまた、人間も龍も変わりはないようだ。
 満足したという顔の男が立ちあがり、子供もそれに倣う。しかし、“二人”の行き先は全く逆で、男は暖簾に手を伸ばし、子供は睿の傍まで音もなく近寄る。
「それでは、また。この子をお願いします。どうやら本当に……この店が気に入ったようだ」
 舌なめずりのような笑みに、睿はただ頭を下げただけだった。そんな態度も気にならないらしく、男は上機嫌な表情のまま暖簾の向こうへと消える。風と共にその姿が文字通り掻き消えて、やっと睿は小さく息を吐くことが出来た。
 愛しい刃を持ったまま、厨房から出ることもなかった。見送りすらもしなかったが、男はそれすら受け入れる程に、この店の味の虜になっていたのだろう。しかし――もう、肉はない。愛を込めて育てた血肉は、アヒルもブタももういないのだ。
 龍は、また来るのだ。子供を残したのがその証拠だ。この店にはもう、睿が“命を奪える”血肉はいないというのに。
「父上は、最後の……極上の血肉を欲しています」
 傍らまで擦り寄っていた龍の子供が、感情の――籠った声でそう言った。
 龍の子供の声には、感情があった。それは期待であり、それでいて睿に媚びるような、求愛の声であった。
 その声を聞いた瞬間に、睿の心にはざわざわとした醜い蠢きが忍び寄る。その声を、心を断ち切ろうと、睿は愛しい刃を持つ手に力を込めた。滲んだ血が刀身まで滴る。己の血によって染められたそれが、己の罪を何よりも語っていた。
「……極上の、血肉……」
 譫言のように繰り返した睿に、龍はそっとその身を寄せる。厨房に立ったままの睿を背後から抱き留めて、龍はその形の良い口を開き、ねだる。誘うように甘き声で、ねだる。
「ボクを、出して……その手に握ってる“ボク”で、ボクのこの身体を切り刻んで……そうすれば――」
「――黙れっ!」
 甘き誘惑を、睿は遮った。己の心に誓うように大声で。血塗られた愛しき刃が震える程に強く、強く握る。それは料理人の魂だった。汚れすらも共にする、料理人の姿だった。
「俺は、この店で料理人をしている。一流の料理人は素材の声を聞き、その全てを昇華してお客様に提供する。俺には師はいないが、その心は見様見真似にも覚え、盗んだ。この俺に残された最後の血肉は、俺に料理されることを望んでいる。だが……」
 礼儀などもう関係はない。睿は目の前の龍を客として扱うことを止めた。それは龍の子供の“声”を聞いたからに他ならない。材料となることを望む言葉に隠された、それを拒む心の声を。愛しき刃を授けた龍は、『人の心』を持ったモノだった。
「お前は食材としての死を望んでいない。お前の心は……」
 勢いに任せてそこまで言って、睿ははたと我に返った。ここから先を伝えるのは、お互いにとって、良い“未来”になるとは思えなかった。突然言葉に詰まった睿に、龍はその愛らしい身を更に擦り付ける。
「ボクの心は……何?」
 ねだるように言う。睿はその問いに答える為に、龍へと身体ごと振り向いて、正面から抱き締める。細い身体の感触に、人の気配はない。だがその心は、確かに人の心の匂いを感じる。素材の微かな揺らぎを感じる。
 唇と同じく形の良い身体だ。しなりとした四肢に肉の薄い胴体。人間で言えば思春期に入りたてのまだ性的に発達の見えない未熟さ加減。だがその瞳に宿る情欲の念ときたら、大人顔負けの淫らな誘惑に満ちている。
「お前は……俺と共に生きたい、のか?」
 睿はもう、守るべき者を失っていた。薄い扉越しにその事実を改めて理解し、ついに乾いた双眸から雫が流れた。
 不思議だった。もう、自分からはこんな人間じみたものは流れてこないと思っていたから。
 雫が龍の緑の混じった黒髪に落ちる。その雫は龍の身体に触れると途端に馴染むように染み込んだ。龍の愛くるしい瞳が睿を見上げる。性別の判別がきかないその瞳も、今では愛しく、そして当然だと思えた。
 龍には本来雌雄は存在しない。姿を模るためという理由だけで存在する雌雄の差異だ。そこに人間や他の生物のような明確な役割の差などない。龍は愛という極めて普遍的でそれでいて不安定な“約束事”によって番となり、子を孕む。本来は。そう、本来は。
 神によってその造りを歪められた龍という種族は、その“約束事”はそのままに、子を成すことが出来なくなった。それはもう何千年も前からの決まり事で約束事だ。睿のような人間の底辺層、人間の末端のような者にも伝わる程に、その伝説であり真相は、有名であり事実であった。
 香しい雌の色香を放つこの“子供”は、しかしその心と思想は“男”のものだった。
 子供が、ニタリと笑った。その表情が歪む様を、睿は目に焼き付けることになった。見せつけるかのように歪む。強欲なる男の表情が、そこにあった。
「『お前は、未来を断たれた龍が、何を希望に生きていると思う?』」
 強欲なる男の表情で、欲望に塗れた男の声が、愛おしい子供の口から流れた。その口から汚水でも垂れ流すかのように、強欲なる表情が時折歪む。己の内から零れ出た汚れに、鼻がひん曲がり、両耳を覆い、その深紅すらも掻き出してしまいたい。そんな感情が、愛おしい深紅の瞳から溢れ出るように見て取れた。
 歪めれたその顔すらも、美しかった。表情こそ強欲なるあの男そのものだが、その顔は、内から漂う香しい甘き誘惑は、間違いなく子供のもので。“父親”譲りの緑の混じった黒髪に触れる。初めて見た時は、こうも緑が目立つこともなかった。柔らかいその感触は、間違いなく人間のものではない。暖かみも冷たさすらも感じさせない、人の抜け殻で、入れ物だ。
「……極上の食事? それとも……極上の……女?」
 ごくごく自然にその答えが出た。するりと睿の口から零れたその答えを咀嚼するかのように、愛しいその唇が近付き、口づけられる。紅でも塗ったかのように赤い唇が、ぬたりと睿のそれを汚した。汚らわしいまでの血肉の香りが、解かれた唇からも香るかのようだった。
「……普通なら、食事。少なくともボクが今まで“父”に連れられて会ったことのある龍達は皆、人間に作らせた料理の話題に夢中だった。育ち切っていない胎児の味や、繋がったままの未熟な血肉。世の汚れを知らないままにくり貫かれた極彩色の瞳。愛の言葉を紡ぎながら引き抜かれた舌。獣に犯された絶望の味付け。その全てが極上の味だと、龍達は笑った。だけど、ボクの父は違った」
 およそ子供の口から流れ出るには酷な内容だった。表情こそ変わらぬその身体を、睿は愛を伝えるために抱き締めた。己の温もりを、心配を、愛情を、その細くしなやかな身体に伝えるために。
「……ボクの父親は、他の龍とは違った。愉しみ方が違ったんだ。あの父親は、人間の身体に愛を植え付けたがった。叶わぬ願いだと知りつつも、悲願して止まない。そんな無謀な、強い気持ち。その歪な一途な気持ちが、ボクの身体と同化した」
 龍の口から語られたのは、恐ろしく歪んだ愛情で、子供じみた愛を模した独りよがりなものであった。哀しき龍の一人遊び。
 龍は孤独を恐れていた。その永すぎる命の結末は、たった“一人”で死にゆくものだ。それはこの世に生を受けたものの確定事項であり、不変の理であった。大いなる知性を得た人間も、永き時を生きる龍も、その理の内だった。
 龍は、この世から離れるその時を、彩る存在を求めていた。霞の漂う山の奥から“下界”を眺め、そして気付いた。人の営みを模せば良いのだ。
 その龍は雄の個体であった。性別による差異の意味するもののない龍とは異なり、人間には絶対的な性差がある。龍の生きた証≪子≫を孕ませるには、人間の女が必要だった。
 龍はゆっくりと“時間”を掛けて吟味をし、永い時を共にする伴侶を選んだ。それは酷く身勝手に、その“女”の身に降り掛かった。
 女は貧しい家の生まれだった。今から思えば睿と変わらぬぐらいの、明日の飯も命も危うい暗闇に手を突っ込むような生活だった。しかし、その女は――その子供は美しかった。
 女はまだ、子供であった。まだ性的に発達はしていないその無垢な身体を、龍は欲した。女としての機関があれば、龍にとってその女が老いていようが子供だろうが問題はなかった。しかし、若く繊細なその白き肌には、若さ故の輝きがあった。
 幼き女が泣き喚く。龍はその女を己だけのものにするために、女が住む村の人間全てを根絶やしにした。
 山々から嵐を従えて、雷の嘶く暗黒の雲を引き連れて、大地の歪を呼び起こし、肺をも焦がす汚れた霞を吐き出した。泣き顔すらも美しい彼女の目の前で、まるで一種の儀式のように、心を天に捧げるように、両親を喰らい、散らかした。
 血肉に踊る赤き目の下で、ゆっくりと骨を断ち、彼女を産み出した起源を飲み干す。飛び散った赤が彼女の瞳を深紅に染め上げる様を見ながら、ゆっくりと。汚れを知らぬその深紅に、己の姿を焼き付け、落とし込む。
 驚愕と絶望に動くことを――生きることを諦めた彼女に、龍は己の姿を映し込んだ。
 龍は子を成すことが出来ない。しかし、気付いた。己が姿を模す程までに恋焦がれる存在≪人≫にならば、その子を孕むことは出来ずとも、己を宿すことは出来るのではないか、と。
 永きに渡り生きることによってすっかり汚れてしまった魂を分かち、その深紅を通じて送り込んだ。その瞬間、世界の理が強く圧し掛かる。龍の身体はたちまちその色艶を失い、深き知性は海に流れた。残るものは汚れた『食』に対する執着だけ。一瞬にして生きる骸のように化してしまった“父親”は、極上の味を求めつつ、唯一残った“父性”とも呼べる感情で、“子供”を愛した。
 一夜にして人から龍となったその子供は、その父親を――
「龍は龍の刃でしか殺せない」
――憎んでいた。心の底から。
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