食罪人
歯ぎしりとも爪を突き立てる音とも取れない、そんな歪な音を聞きながら、睿は料理の説明を始める。龍の親子にわかりやすく、その血肉に込めた愛を表現していく。父親の口から涎が漏れ、獣じみた巨大な口が裂けていく。
「昨日も披露させて頂いた、アヒルもお持ちします」
「……すまないね。それよりも……」
あまりに大きい欲望の前には言葉が出ないところは、人間も龍も変わりないらしい。余韻に浸るように目を細めてから、龍は厨房に戻ろうとした睿を呼び止めた。
「君の愛する材料は、あと何“匹”なのかね?」
醜く口を開けた欲望が、そのまま言葉を発したようだった。目を合わせれば深淵に引きずり込まれそうな赤を湛えて、その男は真っ直ぐ睿を見ていた。例え先程の問いに振り向かなかったとしても、この瞳は睿の背中を刺し殺し胸の内を穿って覘いたに違いない。
「……アヒルが、二羽……です」
酷く喉が渇き、口の動きが悪かった。霞がかかった頭のように、著しく機能の落ちたその口で、しっかりと数えたその数を告げる。間違えないように、しっかりと。愛を受けた血肉は、アヒル二羽と、それから……
「それは……明日も楽しみだね」
龍は満足そうに笑った。龍にとっての明日は、『次』だ。その言葉に人間の理での暦も時間も関係ない。陽とも闇とも隔離されたこの空間で、その主は龍なのだ。
『明日』はアヒルを二羽用意しなければならない。龍は敢えて言葉にせずに言ったのだ。明日もこれだけの量を頼むと。
愛を受けた血肉を――命を二つ。それは血肉の量ではなく、愛情の量だ。
しかし――
このままだと、家畜は明日でなくなってしまう。それはつまり、この店の終わりを意味している。それとも龍は明日で完全に満足し、その力の恩恵を睿に与えてくれるとでも言うのだろうか。
鈍い頭で考えながら、睿はメインであるアヒルの盛り付けられた皿を円卓へと運んだ。龍の大口にかかっては、いくら大皿料理と言えど数分後には全てその腹に納まってしまう。高貴なる人間の食事ならば、きっと優雅にゆったりと食事は進むのだろうが、ここにいるのは人の姿をしたヒトならざるモノだ。
色のない瞳で虚空を眺めるブタの頭を見ながら、睿は空いた皿を片付ける。流しに置いて妻が洗うに任せようとして、その身体が未だぴくりとも動かないことに唐突に気付いた。
美しい妻は動かない。動かなくても、その美しさは損なわれることはない。恐怖とも困惑ともつかない表情を浮かべて固まっているその存在を睿は抱き締めた。愛情があることを伝えるために、強く強く抱き締める。
「……っ」
漸く意識が戻ったのか、夢から醒めたような顔をして妻は睿を押しやった。やんわりしたその拒絶に、睿もそのまま身体を離す。手先が汚れたままだったのか、妻の美しい白い肌が赤に汚れていた。美しい深紅が首筋に走って、芸術作品のようにも思えた。
舌なめずりが、聞こえた気がした。どこから、だろうか……
『これはお前の愛を受けた血肉』
「ご馳走様でした。明日も、お願いします」
「父上! ボクはここで待っていても良いですか?」
愛らしい問いは男ではなく睿に向いていた。
「……良いですかな?」
「……もちろんです」
譫言のようにそう返し、愛しい笑顔に捕まった。感情の浮かばないはずの瞳が、何故か嬉しそうに見える。取り残されていた愛しい刃に、救いを求めるように手を触れる。
妻は何も言わなかった。佇んだままでは辛いだろうと、睿は妻の固まったままの身体を寝床まで運んだ。余程衝撃を受けたのか、綺麗なその身体は可哀想な程に固まってしまっている。潤いを湛えたままの瞳からは、今にも命の雫が零れ落ちてしまいそうだ。
寝床には『今日』までそこの主だった者達はもう居らず、主を亡くしたそのスペースは言うならば、“処理場”と化していた。生臭い、血肉とも糞尿ともつかないとびきりの“生”の匂いが満ちている。
灼熱の炉がそんな睿に妬いたように炎を吐き出した。扉なんてものはないため、その剥き出しの強烈なる熱を睿はその目に焼き付ける。愛を込めた血肉を焼き染める、美しい儀式。処理場。
最後の二羽のアヒルの処理を終えて、その身体は炉の中に放り込んだ。処理のための机の上にすら上げず、土が剥き出しになったままの寝床にその細くくびれた首を押し付けるようにして絞め殺す。その姿を見る、深紅の瞳。その姿を映す、虚ろな瞳。
輝きの濁るアヒルの瞳を覗き込み、もう愛刀と化した龍の加護を足の肉に突き立てた。すとんと何の抵抗もなく切り落とされる部位に、睿はもう、甘美なる欲望を感じなくなっていた。
『これはお前の愛を受けた血肉』
頭のなかにはその言葉が巡っている。誰の声ともとれぬその地の底からのような声が、睿の頭の中を引っ掻き回し、そのくせ愛おしそうに撫で回し、また時には誘うようにどろりと舐めるのだ。
手に持った刃がどくんと熱を持った。もう手の内から離したくもないそれを、睿は愛おしい気持ちを込めて見詰める。血と臓物に塗れる姿すらも美しいその刀身を、己の手で汚す愉悦。愛を込める。刃と共に。
――こんなものは、料理ではない。
冷静なる頭の中の自分がそう言った。頭の片隅に追いやられて久しい、まるで中心を奪い取られた隅に積まれた机のように、そのみすぼらしい小さな小さな存在は声を上げていた。
――“まだ”、間に合う。愛しい妻を“連れて”逃げろ。龍はお前の腕を気に入ってはいるが、その腕を追う程の執着ではない。
わかっている。あの龍の父親が愛するのは己の手腕であり、愛を受けた血肉だ。その血肉のために睿の店に訪れただけで、この店にある『材料』が尽きれば、睿は役目を終えるだけだ。
“まだ”、間に合うのか……?
ふとそう思い立ち、血に汚れた自身の手を見詰めた。指先には料理包丁による小さな傷が多数走っている。料理人の手だ。それは努力の証であり勲章だ。その無数の今までを、汚れたどす黒い赤が覆っていた。ぬるりと光るその液体に、背後の深紅が反射して見えたようだった。
振り返るとそこには龍と、妻が座っていた。寝床のスペースに横たわらせた血肉の上。獣のように覆いかぶさる睿の斜め後ろで、四肢を投げ出すように地べたに座る妻。そして、睿の後ろ――昨日まで刃を突き立てていた机の上に、“お行儀良く”座る龍の子供。
子供の表情に笑みが浮かんだ。まるで睿を称えるようなその瞳が、睿の頭を、心を掻き毟る。血肉に向かって体勢を戻すために向き直る。一瞬視界に妻が映り込む。まるで焼き付くような、美しさだった。横に転がる妻の瞳は、睿を咎めるようにその視線を映していた。
――”まだ”間に合う。その身体を、愛しい身体を抱き抱え、そして……
“まだ”……
炉が吐き出す熱気が、処理の完了を告げる。目に染みる煙に向かって振り向きながら、それはもう叶わないと悟る。
ガタリと、風が店の壁を叩いた。
「今夜の主役は二羽のアヒルだね。対の愛を受けた愛しい血肉だよ。きっと父上も気に入る」
愛しさすら感じる子供の声に、睿は横顔で答える。その目は灼熱の炉に向けたまま、煙に包まれた愛しい血肉の命の一滴までをも焼き付けるように。愛しいのだ。この血肉が。最初は何もわからずに、ただただそれを喰らってしまった。悪餓鬼の悪戯が如く、醜い手癖を披露してしまった。愛しいモノに、醜態を晒した。
今ではもう、食欲は――ある。だが、この煙にぶら下げた血肉に、ではない。極上の味を求める龍に捧げる、最上の愛を受けし血肉がある。それが、欲しい。欲しい――欲しい≪食べたい≫のだ。
愛しい血肉は焼く前に、足を断ち、舌を抜き、手羽先を断ち、内臓を抜き出す。ぶら下がった肉を手に取りながら、睿はその工程を夢見て、笑う。まだ熱さが残る肉をそのまま素手で引っ張り出す。手のひらが熱による痛みを訴え、爛れるように赤に染まる。まるで離れることを拒むかのように、手のひらの皮がアヒルの表皮にへばりついた。それこそ極上の愛のカタチと思える。
二度と解けない愛の抱擁のように、熱い熱いその血肉を抱きながら、一羽そして一羽と丁寧に厨房へと運んだ。息をしている“人間”がいなくなった厨房には、ぞくりとさせる何かが渦巻いている。夜の訪れないこの空間に、異質な闇が淀んでいる。
「今宵もまた、素晴らしいご馳走の予感ですな」
慣れ親しんだ上客が、音もなく席に着きながら言う。連日同じ料理を出そうとも、この男は不満を漏らさない。その血肉こそが極上の愛を受けたモノだと、わかっているからだ。愛しい愛しい血肉の、最後。
「これから処理の済んだ肉を盛りつけますので、少々お待ちください」
客の相手を出来る人間が睿しかいないので、客にそう声を掛ける。顔を出さないわけにはいかないので、その手から泣く泣く愛しい刃を離した。今生の別れかと思えるほど、心が締め付けられる。
深々と敬意を示し腰を折ると、男はそれだけで満足そうに笑った。片手でよいよいと制しながら、厨房に戻るように促した。それに睿は素直に従う。瞳は、いつの間にか父親の隣の席に移動していた子供にしか、向けていない。向けたくなかった。この男は……
「期待していますよ」
男の声に屈するように、再び手に持った刃を肉に振り下ろす。ダン、ダン、と不気味な程に、味の染み付いた焼かれた肉を断ち、皮を剥ぐ。舌の抜かれた頭を垂らして彩に加えた。死者の哀と酷を晒して、その身に沁み込んだ愛を表現する。足掻きの証のようなその足を、添え物として浮かべる。
店内が香しい肉の香りに満たされる頃、盛り付けの終わった大皿を持って、睿は龍の親子の前に向かった。愛しい刃を置いたまま、厨房から出て大皿を卓に披露する。二皿とも同じ内容の、美しく飾られたアヒルだった。さすがに大きな皿なので、一皿ずつ運ぶ。まずは男の前に恭しく捧げ、子供の分もその目の前に捧げる。これは人間からの捧げものだ。
「……この店で最後のアヒルになります」
「それはそれは……さぞかし愛されたことでしょう」
控えめに言う睿に、龍の父親はそう答えただけだった。既にその瞳は目の前の馳走にしか注がれておらず、人のものとは言えなくなりつつあるその口からは、どろどろと涎が零れ落ちている。ぬるりと粘性のある透明な液体が、身に纏った豪奢な布地を汚すことはない。