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食罪人


 厨房に立って手に入れたばかりの刃の感触を楽しむ。それは素晴らしい業物だった。本来ならば“業物”という表現はおかしいだろう。睿が手に持つその刃は、龍の身体から切り落とされたままの刃物だ。
 見た目の形こそ扉の向こうへ消えた時に持っていたものと同じ厚口刃だ。だが、その色合いは神秘的とも言える緑が混ざり込み、その刀身に龍の加護を仄かに感じさせる。愛しい、愛しい刃だ。
 買い出しに出ていた妻も先程無事に帰って来ていた。裏口から足音を殺すように入って来たその存在に、最初睿はしばらく気付かなかった。それ程までにこの刃に心を奪われていたのだ。包丁は料理人の魂だ。
 妻は、その刃に何も言わなかった。妻も砕け散った包丁も、どちらも長年連れ添った存在だった。
 貧しい生まれの睿に、本格的な料理用の中華包丁を用意するような資金があるはずがない。彼は“罪”を犯した。瀕死の重傷を負って道端に倒れていた人間の腹から、突き立てられたその刃を、その形に魅入られるように引き抜いたのだ。
 今から思えば、何故その人間が料理用のこの刃で命を奪われようとしていたのかはわからない。ただ、睿は導かれるようにその刃の柄に手を伸ばし、腸ごとソレを引き抜いたのだ。ずるりと一緒にずり落ちた腸には目もくれず、睿はその場に佇んでいた。今より陰の気配の薄い妻が迎えに来るまでずっと、そこにいたのだけは覚えている。
 それからはずっと一緒だった。共に育ち、共に鍛えた。料理人の命。そして魂。酷く汚れた出会いだったが、睿の真っ直ぐな魂に呼応するように、その刃もまた鋭い一本のカタチを表していた。
 ダン、ダン、と重たい音を立てて、新しい魂が板の上を踊る。彩豊かな山菜達が宙を舞うようにして美しいカタチと成っていく。それは神業のような睿の技術であった。睿に師はいない。見様見真似で腕を磨き、独学でここまでの技術を会得した。それは才能であり、人知を超えた龍すらも唸らせる手腕であった。
 その繊細でありつつ豪快でもある技を、妻も龍も、ただ見ていた。妻は買い物から帰ってきたままの姿で、まるで見惚れるように厨房に立つ睿の傍に寄り添っている。子供は店の中心に移動させた円卓――それ以外の卓は隅に追いやるだけでなく、そのまま積み上げて簾で蓋をした――に座ってただ見詰めているのだ。この空間に、お客様の席は一つで良い。目隠しの壁があるために、子供はそれを避ける意図もあるのか、父親が座っていた中心の席の隣に座っている。
 子供が見ているのは睿か、それとも己の刃か。子供の口元が歪に歪む。欲望をそのまま垂れ流したような涎が端から滴り落ち、その姿が一瞬揺らいだ。愛らしい人間の姿からは程遠い、強大な龍の姿が霞の向こうに見えた気がした。
 料理はほとんど同じだった。色彩のための野菜の違いはあれど、今回のメインもアヒルにするつもりだった。
 龍の腹は人間の腹とは構造が違う。そもそもの空腹に対する対処法が違うのだ。人間であれば空腹感を感じたらそれを満たすだけの量を食べれば良い。そこに味や質、食材の鮮度や種類というものは最悪、問題のないことである。それこそ餓死寸前の人間は、たとえ腐りかけであろうが本来食べられないものであろうが口に運ぶ。それはもう無我夢中に、考える余地もなく。腹を壊す、などはその食材を腹に入れてから考える事柄だ。
 しかし、龍は違う。龍の空腹とは即ち『虚無』なのだ。霞や気を食らうとすら言われる龍という存在に、空腹という状態は存在しない。その長い胴体に納まる腹には、生物本来の消化器官は存在しないのだ。彼等は食材の『酷』を好み、その“身体”に刻まれた『愛』を極上の美味と味わうのだ。
 その食材は心底愛されていないといけない。料理人――その生物に手を掛ける存在に、心底大事に愛されていなければならない。そのために龍は、きっと、睿の前に現れたのだ。
 都にはそれこそ腐る程料理店がある。しかしそこに卸される食材達は、心から愛されているかと言われると怪しい。生産者である飼い主達は手塩を掛けたかもしれない。しかしそれに刃を振るう者に、感謝はあれど愛情はないだろう。
 その証拠に、龍達は彩のための野菜には一切手をつけなかった。単なる肉食のためかとも一瞬思ったが、違う。龍は『愛された命』を食べるために食事をするのだから。
 ひゅうっと店の前に風が吹いた気がした。料理に集中するために睿は敢えて目を上げることをしなかった。一心不乱に刃を走らせ、そして鍋を灼熱の火で熱する。暖簾が不自然に揺れ動くのが視界の端に映り込んだ。これは、わざとだ。
 わざとらしいまでの笑みを浮かべて、龍の父親が現れた。わざとらしく暖簾を潜って、人当たりの良さそうな表情をぶら下げて、人ならざるモノは円卓の席に着く。その自身のための席こそが、この空間の中心であることなどわかりきった顔をして。
 男が席に向かう間、妻はずっと睿の傍で凍り付いたように固まっていた。その瞳に強い不安を浮かべながら、しかしお客様への対応のためにその口元には薄っすらと笑みを浮かべすらしていた。無理して取り繕った笑顔は、歪なカタチの笑みとなった。
「ちゃんとお行儀良くしていたのかい? いきなり居なくなったものだから心配したよ」
「すみません。ボクもこのお店を気に入って」
 親子らしい会話をしてから、改めて男は睿に視線を向けた。そしてようやく睿に向かって礼を述べる。順番が逆なのは仕方がない。彼等にとっては人間なんて、格下の存在であるのだから。
「店の仕込みもあるだろうに。うちの子がすまないね」
「いえ、大丈夫です。本日もアヒルを用意しております。そして、ブタの方も良ければ召し上がってください」
 睿はアヒルを焼き終わった後、ブタの丸焼きも用意していた。寝床で唯一の存在だったそのブタを、丸焼きにして、そして……部位ごとに切り刻んだ。
 『これはお前の愛を受けた血肉』
 熱せられることにより硬く締まったその肉を、ざっくりと切る。大振りな刃が皮膚を裂きながら肉に沈み込んでいく。そのゆるりとした感触と、まだ血肉の気配が濃厚な獣じみた香りを楽しむ。コツンと刃が骨に当たった。
 本来ならば体重を掛けて全身の力で叩き切らなければならないところだが、今回は違った。いや、これからは違うのだ。
 睿の“新しい刃”はするりと硬い骨を両断する。関節の部分をわざわざ狙わなくても、その刃にかかれば全ての部位が等しくざっくりと切り刻まれた。
「ほう。それはそれは……嬉しい限りですな」
 舌なめずりを隠そうともしない男が、手を揉みながら言った。その反応を見て、睿は既に盛り付けてあるブタの周りに焼き終わった野菜を飾り付けていく。頭を皿の上にどんと晒し、開いた四肢と胴体に彩りを加えて散らす。
 大皿に盛りつけられたそれをまず、円卓に運ぶ。大きく重い皿なので、妻には持たせられなかった。もとより妻は、男の傍に近寄ろうとすらしていない。睿は正直、愛しい刃から離れ難い気持ちではあったが、お客様を最優先するのが料理人である。魂を厨房に置いて、両手で大皿を持ち、その表情には笑みを浮かべた。
 笑みは、自然と湧き出ていた。愛しい刃が手元から離れて、睿の心は異様にざわついた。どくりどくりと心の蔵が喚き、張り裂けそうな程に歪む。柄を持っていた指先からそのまま熱が引き抜かれるかのように、まるで半身を引き裂かれたような虚無感が心を覆った。
 心の動揺を汚れと共に洗い流そうと、冷水で手を洗う。心と同じく覆われそうになる瞳が、愛しい龍の姿を捉える。救いを求めて眼に収める。
 『これはお前の愛を受けた血肉』
「なんとも……素晴らしいっ」
 ブタの頭をお客様の正面に回して、自慢の傑作を円卓へと載せる。ずしりとした重量感ある皿は、店内の赤――と皿の上を彩る色彩――に映える金の色合いを描いた大皿だ。繊細な模様が走ったそれは、どんな料理をも美しく彩る。一流の料理人は、食器も自らの手で厳選するのだ。その美しさは見事に伝わり、龍の感嘆の声がそれを肯定する。美しい。なんとも美しい。この料理は。
「美味しそう」
 愛しい子供がそう言ったので、思わず睿はその顔を凝視してしまう。親の前だということすらも忘れて、その愛らしい瞳に見入る。感情の浮かんでこないその瞳に、今では幾許かの親しみすらも感じ取ることが出来る。その親しみの意味を、睿は知っている。それは愛情であり、そして『我儘』だ。龍は傲慢で、そして欲深い。
 背後で妻の気配がする。息を呑んだか、それとも……
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