貴方に捧げる、ふたつの心
アモノの街は、人口の大半を魔族が占める小規模な産業都市である。織物が盛んで、この地から魔都フェズジークを介し、ユニアセレスのほとんどの街へとその特産品は流れているらしい。またその産業の形態から、視覚や聴力といった器官の弱い者達も大勢産業に貢献しているようだ。
産業都市らしい明るい雰囲気のある街並みは、今は戦の気配を感じ取り静まり返っている。灰色の工場や建物の壁が、煙っぽい大気も相まって、町全体にどんよりとした影を落としているようだ。
「あの牢獄にいた看守の家族も、この街に住んでいたはずだ」
なんともなしに言うゼトアであったが、彼の瞳がこちらを向いていることはウィアスも承知していた。おそらくあの機械のこともバレている。きっと看守の男が家族の誰かのために、使用していた品なのだろう。
ゼトアとウィアスは宿の客室で暫しの休憩を取っていた。そろそろ日が落ちようかという時刻に街に着いた二人は、ダークドラゴンを門兵達に託し宿へと向かった。
宿はこの街でも一番の規模を誇る『お高い』宿で、どうやら魔王アレスの計らいらしい。ゼトアから「アレスが『あの宿の防音は素晴らしい』と笑っていた」と聞かされた時は、顔から火が出そうだった。
そんなことを言いながら宿に着いた途端、軍部への指揮のために宿を離れたゼトアだったが、ウィアスが初めて見る魔族――というよりは人型の種族――のための客室の設備に逐一驚いている間に、軍務を終えて戻って来ていた。
「お帰りなさい、ゼトア」
お高い客室はどうやらこの一室だけらしく、宿の者が言うには『特別』な部屋らしい。普段から要人や貴族のために存在自体が隠されているとも言っていた。
つまみを捻れば水が出るのも、お湯が流れる水浴び場も、ふかふかの大きなベッドも、甘い香りに満ちたこの空気も、フェズジーク城で初めて使ったものとはまた色合いが違うトイレというものも、聞き心地の良い音楽がほんのり聴こえてくることも、全て全て『特別』なのだろうか。
驚きと興奮で目を輝かせて主人の帰りを喜ぶウィアスに、ゼトアはふっと笑みを落とす。
――あ、ゼトアは軍部の指示に行っていただけ。私ばかりが羽根を伸ばして愉しんで……これでは夫婦ではなく、子供のようなものですね。
まさしく子供のようにその大きな手に頭を撫でられながら、ウィアスが自分の無自覚さに嘆いていると、それすらも悟ったのかゼトアが先回りしてフォローしてくれた。
「初めて見る物ばかりだろう。どうだ? 俺達魔族や人間は、随分楽をして生活しているとでも思ったか?」
からかうように笑う彼に、ウィアスも彼に合わせて本心からの明るい笑顔で答える。
「文明機器の扱いはヘルガに教えて貰いましたが……」
「ん? 何か困ったことでもあったか?」
「いえ、その……恋仲の男女は一緒に……水浴びをすると……」
言葉の意味を思い起こすと照れてしまう。目の前にいるゼトアのレザーアーマーから伸びる鍛え上げられた腕にうっかり視線をやってしまって、顔にしっかり熱が集まっていることを自覚しながら話すウィアスに、彼は少し呆れた様子で犯人の男の名前を呼ぶ。
「ヘルガ。お前は嫁入り前の娘に何を教えているんだ」
『嫁入り前ってお前相手なんだから問題ねえだろ。こいつは正真正銘お前が初めてだ。良かったな』
「へ、ヘルガっ!」
「お前ら……」
ゼトアは聞えよがしに溜め息をつくと、背負っていた荷物――布で包んだ愛槍と、軍用の鞄だ――を部屋に備え付けられた棚に立てかけ、戦闘用の装備を外していく。
闇を思わせるレザーアーマーが、ウィアスの目の前で脱ぎ落される。黒のインナー姿になったゼトアの身体に、ウィアスは目が釘付けになってしまった。
無骨さを感じさせるその長身の身体には無駄な筋肉など一切なく、鍛え上げられた逞しい身体は、しかし筋肉の塊といった印象は与えない。あくまで、スタイルの良い寡黙な男。部屋に立っているゼトアの印象は、その言葉に尽きる。
装備を棚の中に片づけながら、ゼトアは「何か淹れよう。人型の身体なら甘い飲み物も楽しめるだろう」と提案してくれる。
「えっと……魔族の普段の食事がまだわからなくて……」
『俺はコーヒーが飲みたい』
「……ならそれで」
「砂糖もミルクも多めにいれてやる」
顔の半分からの主張に苦笑いするウィアスに、ゼトアが微かに笑いながら飲み物の用意をしてくれる。
部屋に備え付けのキッチンからなんとも良い香りが漂ってくる。少し苦そうな香りに、ウィアスはゼトアの気遣いの意味がわかった。
しばらく香りを楽しんでいると、ゼトアが二人分のカップをテーブルに持って来た。ウィアスも彼に倣いイスに座る。この部屋のテーブルは丸テーブルなので、二人向かい合って座っても距離自体は近い。
差し出されたカップを覗き込むと黒い液体にミルクが混じって、まろやかな茶色に向かって渦を巻いていた。その渦を見ながらウィアスは、本来ならばこれは自分の仕事だと思い至る。
「魔将様に、用意をさせてしまいました……」
「お前はまだ人型の身体の生活に慣れていない。俺だって普段一人の時は、自分で淹れるさ。だからそんな顔をするな。それに……」
そう言いながらゼトアが、ウィアスの俯き気味の顎に手を添える。ぐっと顔を上げさせられると、ウィアスの目の前にはゼトアの優しい笑顔があった。
「俺がお前に淹れてやりたいと思った」
「次は、私にもやり方を教えてください」
「もちろん。俺の好みも全て教えてやる」
二人でくすりと笑い合う。なんだか本当に心の通じ合った二人の『これから』を夢想させるやり取りに、ウィアスの心に温かいものが流れ込む。
――ゼトアといるのは、心地良い。きっとこれが、幸せ……
改めて彼を見詰める。男性的な魅力に満ちた大人の男。常日頃から冷静で、その表情はあまり大きく変わるようなことはない。だが、だからこそ戦いの時に見せる猛々しい武人の表情も、ウィアスの前で見せてくれる優しい笑みも、その全てがまるで特別なことのようにウィアスの目に、心に刻み込まれるのだ。
ぽーっと見惚れていたのがバレたのか、ゼトアが小さく苦笑した。彼は「あんまり放っておくと冷めるぞ」とコーヒーを差し、自身はまだ湯気が出たままのカップの中身をごくりと飲む。彼のカップの中は真っ黒だったので、ミルクも何も入れていないのだろう。
「すみません。いただきます」
ウィアスはそう断ってから、まだ少し熱い液体を口に含む。その途端匂いから感じていた通りの苦みが口の中に広がり、しかしその深い香りに思わず顔が綻んだ。
「花嫁は甘党とみた」
「やっぱり、甘めの味付けなんですね」
くっくと笑うゼトアに少し不貞腐れた顔をしてやると、そのダークブルーの瞳に僅かな逡巡の光が宿る。
「……本当は」
「……え?」
小さく呟かれた言葉に、ウィアスは一瞬気付かないふりをするか悩んだ。彼の表情が答えを告げている。彼の表情はあまり変わらないが、それでもウィアスの『ゼトアのことを知りたい』という心が、彼女に小さな変化も気付かせるのだった。
この後に続けられる言葉はきっと、自分のための言葉ではない。きっとそれは彼のための言葉だ。身体を分ける、彼のための。
「……最初はウィアス、お前のことは本当に……ただの器のつもりだった。あの天使の槍と混ざり合ったお前を見て、俺は魔王アレスへの“言い訳”が立つと考えていたんだ」
「私があの槍の力と混ざったから、ヘルガは犠牲になったのですか?」
その問いは、彼と共存してからずっと疑問だったことだった。もしも自分が槍と混ざることがなければ、もしかしたらヘルガの肉体が死ぬこともなかったのかもしれないのだ。
「それは違う。俺がヘルガを捕らえたのは、これから仕掛けてくるであろう『セーピア』の情報を得るためだった」
『ははーん。なるほどな。だから何度も俺に「他に仲間はいないのか?」って聞いたんだな』
「そうだ。連中は水流系の魔法に長けた術者が多い集団でな。天使を引き込んだ人間の軍に合流されると厄介だった。どうやらその厄介なことには、もうなってしまったようだがな」
『魔将ゼトア様でも苦戦するってのか?』
「天使は俺がなんとかする。人間の軍勢も街の部隊で充分応戦可能だ。だが、この街に向かってその魔術が放たれれば危険が大きすぎる。他の魔将は別の地で交戦中で、魔術師団をフェズジークから送っても間に合わないだろう。そこで……」
「……私の力……『水神の力』を発動する、ですね?」
「さすがは俺の嫁だ」