貴方に捧げる、ふたつの心
魔王との謁見が終わってすぐ、ウィアスはゼトアに連れられて、フェズジークの城門の上を“飛び越えていた”。
「まさか霊獣の私が、暗黒竜(ダークドラゴン)の背に乗る日が来るとは」
ウィアスとゼトアは魔王軍と協力関係にあるダークドラゴンの背に揺られて、空から目的のアモノの街に向かっていた。
陸路ではなく空路での旅路になったのは出発の直前だ。急遽変更になった予定のせいで、一体の竜しか準備が間に合わなかった。
「今はもう獣の姿ではない。数分前に初めて手綱を握ったとは思えない上達ぶりだな」
ゼトアはウィアスに教育も兼ねて竜の手綱を預けてくれた。ダークドラゴンの身体は大きく、背丈は一般的な人間の背を優に越している。身体の部分よりもその巨大な翼にどうしても目がいってしまう。人が跨る背中の範囲も馬より広いため、二人で乗ったところでなんら問題はなかった。ゼトアが用意した旅の荷物自体も少ないので、その全てがドラゴンの背に収まっている。
産まれて初めて生き物の背に乗ったウィアスだが、不思議な事にダークドラゴンとはすぐに心が通じ合った。ゼトアが言うにはおそらく、ウィアスの獣の部分に竜が反応しているのだろうとのことだった。ダークドラゴンの中でも下っ端に当たるこの竜は、人語を話す知能はない。
手綱を持つウィアスを前に、その背をゼトアがまるで包み込むように見守ってくれる。時たま吹きすさぶ風や翼の動きにウィアスのバランスが崩れそうになるのを、ゼトアはその度に後ろから支えてくれた。暖かく頼りがいのあるその手が、ウィアスの腕に添えられる。
「すみません。まだ完全には制御出来ないようで」
「初めてでここまで出来れば上出来だ。これなら帰りは一人でも問題はない」
「……そう、ですか」
「……すまない。この時間ぐらいは、楽しむのが夫婦というものだったな」
ウィアスの心を読んだように、その逞しい腕に後ろから抱き締められた。長身のゼトアに後ろから抱き締められると、小柄なウィアスは本当にすっぽりと包まれてしまう。身体の幅すら全く違う男と女だ。その胸に誘われるように背を預ける。カチンと、お互いの身を守る鎧のぶつかる音が小さく聞こえた。
高い位置にある彼の顔を見上げると、そのダークブルーの瞳に見詰められていた。吸い込まれるように見上げたまま止まってしまったウィアスの唇に、そのまま優しいキスを落される。触れ合うだけの軽いキスに、それだけでウィアスの心がどくどくと波打つ。
見上げる表情が優しく笑った。
「……その顔は、反則です」
顔が赤らむのを自覚しながら、ウィアスは小さく文句を言った。それに彼は声に出して笑った。触れていた耳に彼の身体から、直にその笑い声が響く。大地のように力強く、それでいて優しい。魔将ゼトアのこんな姿を見るのはきっと、極限られた者達だけだ。自分だけ、ということは決してない。
大きな手に頭を撫でられて、ウィアスは自分がきっと不貞腐れているような顔をしたのだと悟った。人型の表情は獣のものと比べてとても多彩で。ほんの少しの感情の変化が、すぐにその鋭敏な筋肉に伝わってしまう。自分の醜い嫉妬の心を、隠し通すことなんて出来ないのだ。
「お前のその顔も、充分にそそられる」
ウィアスに向けられるその瞳は、この顔をはっきりと見詰めていて。その瞳は、その言葉は――この顔のどちらに向かって言っているのですか?
魔王アレスは自身の瞳を『万能ではない』と言った。『内なる心は見通せない』と魔王は言うのに、ウィアスの心はこの男には全てお見通しのようで。光を通さない深海を思わせるダークブルーに捕まっては、ウィアスの心はもう大海に浮かぶ小舟でしかないのだ。自身ではもう、行く先すらも決められない。大いなる波に流されるまま、だが、その船に乗り込んだのは自分自身だ。
降りる機会は――その手段が死だとしても――今までもあったのだ。それをウィアスは、自身の心で否定した。そしてそれは内に宿したヘルガもであった。
再び落とされる口づけに、ウィアスは自ら彼を迎え入れる。彼の魔力に悦ぶ自分の心を、強き彼の身体に刻み込む。ぐちりと響く乱れた音に、ゼトアの抱擁に力が入る。ほとんど拘束でもされているかのような強さで抱き締められて、お互いの鎧が擦れる音が耳障りな音を響かせる。
長く乱れる口づけを終えて、ゼトアの顔が離れていく。そのまま前を向いて何事もなかったかのように手綱――ウィアスの手からずり落ちてしまっていた――を左手に取り、残った右手はウィアスの腰を支えたままだ。どこまでも――バレている。
「このペースで行けば夜にはアモノの街に着く。宿はもう連絡しているから問題はないが、どうする? 俺は、“どちらでも良い”。“お前”が決めろ」
あくまで余裕のある態度を崩さない彼の様子にはもう慣れた。彼は魔族の軍人で、大幹部で、もう何百年も生きた年上の男なのだ。村での生活しか知らぬ小娘の自分など、本当に簡単に弄ばれてしまう。それでも彼はウィアスの心を、強く強く惹き付ける。
ウィアスは言葉の意味を理解して、そしてしっかりと頷いた。
「宿は同室で大丈夫です。貴方の妻になる身です。“その時”の覚悟も出来ています」
「……どこまでも気丈な娘だ。こればかりはヘルガに代われと言っても、結局身体自体はウィアスのままだからな」
互いを求めるような口づけにウィアスの身体が初めてながらも愛情を求め、しかし初めてだからこそ恐怖を抱いていることもゼトアは見抜いたのだろう。腰に回されたその腕は優しくウィアスを支えており、時折こちらを安心させるように優しい瞳を落してくる。
――その瞳は、どちらを見ているのですか?
幾度となく問い掛けようとし、口を噤むウィアスの頭を大きな手が撫でる。ゼトアの口が一瞬何かを言い淀み、全く違う話題を用意した。
「……村の者達は残念だったな」
それはウィアスの生まれ育った霊獣の村のことだった。魔王とウィアスが服の用意をしている間、ゼトアの元には偵察部隊からの伝令が引っ切り無しに伝わっていた。本当に彼は戦場から帰ったその足でウィアスの牢獄に来たようで、昨夜も結局ほとんど睡眠を取ることもなく作戦指揮についていたというのだ。
偵察部隊の話ではウィアスの村を襲ったのは、あの天使の率いる人間の軍で間違いないらしい。本来天界は地上の争いには直接関与が出来ない。彼等は天界に渡る代償に、自身の力ではこの地上に降りることが出来なくなったのだ。信心深い信者達の祈りと尊い犠牲を用いることで、彼等はこの地に降臨する。
天使一体の降臨で戦局は大きく変わるため、人間達は多大なる犠牲を払いながらも天界の殺戮人形を降ろすのだ。昔から因縁のある魔族との闘いを、天界の使徒も望んでいる。
天使一体に人間の数は百程だったらしい。それだけの人数に霊獣の村は襲われ、そしてウィアス以外は皆殺しにされた。元来戦闘能力の高い霊獣といっても、天界の使徒を相手取るには分が悪いのは事実だ。彼等は天なる王の守護により、ほとんどの魔力に高い耐性を持っている。戦うための人形なのだ。
その報告をゼトアからウィアスが聞いたのは、これからフェズジークから発とうというその時であった。伝令役の魔族の兵士が慌ててゼトアの元に走り寄り、「件の天使とその軍勢がセーピアと合流。その後、アモノの街に向かって進軍を開始した模様です」と息も絶え絶えに報告をした。
天使達と合流したならず者の魔族の集団『セーピア』は、水の魔法を操る者達を中心に形成されている傭兵のような集団で、金さえ積まれればそれこそ天界の軍勢とも行進するとのことだった。まさにその通りのことが、今現在起こっているらしい。そのため急遽ゼトア達も、戦場となるであろうアモノの街へと空路を使って移動することになったのだ。
「父も母も、いつかは戦で命を失うと理解していました。この世の情勢に、自分達だけが抗うことは出来ないと。ですから……ですからっ!」
途中で涙を止めることが出来なくなったウィアスの身体を、ゼトアが抱き寄せる。腰にやっていた手を背中に動かし、宥めるように優しく摩ってくれた。まるであやす様な仕草に、それでもその優しさに胸が熱くなる。
――たとえその瞳が私を見ていなくても、私は貴方をお慕いしております。
涙の勢いに任せてその胸に顔を埋める。そんなウィアスに彼はふっと笑みを零し、「……家族というのは、この世の中で一番の絆を作るものだ」と言った。
「……はい。とても強い絆の、大切で素敵なものです」
もうこの世にいない両親を想いながら、ウィアスはその言葉に同意する。するとゼトアは右手を動かし、その手をウィアスのそれに重ねて言った。
「お前はもうその大切で素敵なものを、これから先、亡くすことはない。俺は……お前を残して死ぬことはない。絶対に」
ゼトアなりに励ましてくれている。そう理解出来た時にはもう遅かった。勢いを増して洪水のように流れて止まらないウィアスの涙に、さすがのゼトアも苦笑する。
『あー、くそ。邪魔しないようにしてたが、俺が出たらこの涙、半分止まるのか? 頭痛が酷くて休めねえよ』
顔の半分にそう愚痴られ、ウィアスも涙ながらにもついつい噴き出してしまった。