回転木馬で見る夢を
予定通りリュウトは一人でバイト先に現れて、シズクにウザ絡みをするわけでもなく、それなりに大人しく見守ってくれている。
それは良い。彼は軽薄そうな言動が多いが、基本的には外面が良い男だから。こんな人目の多いところでは、本当に気持ち悪いぐらいにイケメン“のような”振る舞いをする。
窓際の席で一人コーヒーを味わう彼の方向を見て、女子学生達がキャーキャーと席で騒いでいる。その光景に小さく溜め息をつきながら、シズクはファミレスの壁に掛けてある時計の針を睨み付けた。
もう何度目になるかもわからない。いつものように時計の針は七時を過ぎているというのに、いつものように彼が――コウが現れないのだ。
シズクの通う学校は、部活動の終了時刻を六時半と定めている。この決定は絶対事項であり、どんなに優秀で実績を積んでいる部活でも同様である。
コウが仮にどんな部活に既に入っていたとしても、下校時間だけはずれることはないのだ。だから、このファミレスに来る時間だって、いつも同じような時間帯だった。それが……
シズクの中での苛立ちが舌打ちに変わろうかと言うタイミングで、店の扉が開いた。扉と連動している鈴の音がチリンチリンと爽やかに流れ、その下からその音色の清涼感すらも上書きするコウの甘い笑みが顔を出す。
そう、甘い笑みを、彼は浮かべていた。後ろに続く女性に振り返り、その笑みを向けていた。
「えっ……」
思わず手に持つお盆を取り落としそうになったが、なんとか走り出しそうになってしまった足と共に踏み止まる。コウは笑顔を浮かべたまま。リュウトからの視線だけは、まるで焦げ付くように痛かった。
他のアルバイトの同僚が彼等二人に近付いて席に案内する。二人は仲良さそうに並んで歩いている。女性をしっかり見てやりたいが、足が、身体が言うことを聞かない。さっきはあれ程、踏みしめるようにして自制したこの足は、今は恐怖に立ち竦んでしまっている。
――あの女、誰だよ? なんで、あんなに……優しい笑顔……っ!
身体だけでなく頭の中も、考えがまとまらない。そんな状態で固まってしまったシズクの横を、コウと女性を案内するために同僚が通り過ぎる。どうやらリュウトが座る席――今はまだ席に余裕があるので彼は二人掛けの席に通されている――と通路を挟んだ席に通すつもりらしい。
少しだけ時間を空けて、二人がシズクの隣を通り過ぎる。その瞬間にコウからのなんらかのアクションを期待したが、彼は一瞬シズクをちらりと見てから微笑を浮かべただけだった。
――なんだよ、その顔。俺よりその女が優先ってこと?
二人は何事もなかったかのように案内された席に座る。四人掛けの席に対面して座った二人に、メニューを渡す同僚の背後からリュウトが不自然にならない程度に様子を窺っている。本当に彼は周囲の目をちゃんと意識出来る。不自然に立ち竦んでしまって未だ動けずにいるシズクとは大違いだ。コウを窺うリュウトの視線は鋭い。
立ち竦むシズクになんて目もくれず、二人は楽しそうに談笑しながらメニューを選び、店員を呼んだ。コウの良く通る低い声が響いて、同僚達の視線が飛び交う。瞬時にフロアを任されている全員がお互いの位置を確認し合い、一番近くにいる人間が注文を取りに行くというのがこの店のルールである。そして今、コウ達の席から一番近い位置にいるのは、シズクである。この店のルールは絶対だ。
位置関係を確認した同僚達は、いつものようにシズクが向かうだろうともう手を止めていた他の作業を再開している。ここはいつものように自然にシズクが向かうべきだ。ルールもそうだが何より、不自然なことは許されない。アルバイト先で変な噂なんて立てられたら困る。自分のこれからの学園生活もそうだし、コウとの仲まで……とにかく、これ以上おかしくなんて、なってはならないのだ。
――こうなったら、あの女の顔、しっかり見てやる。バイト終わったら、問い詰める! 絶対!
「はーい!」
とにかく普段通りの自分を意識しながら元気に返事をする。明るく笑顔ではっきりと。意識的に口角を上げて、絡まってしまいそうな手足をなんとか宥めて前進する。一歩、一歩とまるでブリキの兵隊のような動きなのが自分でもわかった。その証拠にシズクの声を聞いてこちらを向いたリュウトが、大袈裟に頭を抱えている。溜め息をついた口の上で長い骨ばった指の間から覗く瞳は、確かに雰囲気イケメンだ。
「お待たせ致しました。ご注文はお決まりですか?」
「ああ。私はこのステーキを。コウくんはオムライス?」
愛想笑いを貼り付けたシズクがお決まりの文句を告げると、あろうことかコウの対面に座る女性がハキハキとした声でそう答えた。予想以上に大きな声量だ。それに、なんだかどっしりとした安定感のある声である。威嚇でも込められたかのような低い声。
――この女、俺のことがそんなに嫌いかよ? コウの何だってんだ。
自分だってコウの何なのだと聞かれたら困るのだが、そんなことは棚に上げてシズクは低音ボイス女に向かって視線を落とそうとして、メニュー表を掴むその手が想像以上に逞しいことに気付いた。
その手は、とても逞しかった。大きくて厚い。握られたらシズクの指の骨くらいなら、簡単に砕かれそうな圧を感じる。しかしそのゴツゴツとした手に骨ばった印象は見られない。それもそうだ。この手は女性の手なのだから。
顔をしっかり見れなかったシズクだが、この目の前の相手が女性であることだけはしっかりと認識出来ていた。それは何故か。
それは、彼女が同じ高校の女子生徒の制服を着ていたからだ。スカートから伸びる足に一瞬視線を落としたが間違いない。これは女生徒の足だ。凄い、逞しいけど。
注文してからも名残惜しいのかメニュー表を顔の前から下げなかった女性が、ついに諦めの溜め息と共に手を降ろした。メニューがテーブルの上に置かれて、女性の姿が露わになる。
「……」
女性は紺色のリボンを胸元にしていた。つまりシズクと同じ学年だ。でもこんな顔は見たことがない。いくらあまり他人に興味がないシズクと言っても、彼女程印象が強い女性のことは一度見たら忘れないだろう。
彼女は、とても大柄な女だった。コウと同じく何かスポーツをしているのであろう、逞しい身体だ。どちらかというと陸上競技というよりは格闘技のような印象を受ける。それ程までに彼女は、とても大きく見えた。
実際には女性にしては背が高い、程度だろう。並んで歩いた二人の印象としても、コウと同じくらい、といったところだ。コウ自体が長身ではないため、余計に彼女が大きく見えるのかもしれないが。
手に持ったままにしてしまっていたお盆は脇に抱えて、オーダーを取るためのメモにサラサラと記入する。ここまでは自然な動きだ。大丈夫。
「うん。つーか、マジカワイイ」
「っ……!」
女の質問に彼は答えた。『カワイイ』という、シズクに対してだけ言って欲しい言葉を添えて。『カワイイ』はシズクの為だけの言葉であって欲しいのに。
彼の視線は彼女を見ていた。優しい笑みを口元に湛えたまま、その目で、その優しい瞳で彼女だけを見ていた。そこにシズクが居るというのに、そこで、同じ空間でオーダーを取っているというのに、シズクを無視して彼女を見ていたのだ。
自分の顔に熱が集まるのがわかった。恥ずかしくて顔が熱くなるのは今日だけでも何度かあったが、怒りで熱くなるなんて経験は初めてだった。
――そうだよ。俺、コウに怒ってる。俺以外見るなって、怒ってるんだ。
まだ想いを伝えたわけでもないのに、いったい何を思いあがっていたのだろう。彼からの好意は同性の友人としての好意に決まっているではないか。恋愛対象としての好意を伝える相手は、彼の目の前に座るような、『女』に決まっているではないか。
それにしても、とシズクはやっかみも込めて彼女を凝視。彼女はコウからの誉め言葉をさらりと聞き流している。愛しいコウからの誉め言葉なんて、もう聞き慣れているということだろうか。
――んな訳ないだろ!? こいつっ!!
コウの好みだ。否定したくない。それでもシズクには、彼女がコウの理想の相手だとは思えなかった。思いたくなかった。
目の前の彼女は、女性である。それは確かだ。しかし、その肉体はまるで男。通路を挟んだ席に座るリュウトと比べたら、彼の方がか弱く、そして繊細で美しくすら感じるだろう。それぐらい、強そうな女子だった。
おまけにその顔ときたら、鋭い眼光に高い鼻。そしてやや大きめの口である。パーツ全てがデカい癖に肝心の目が鋭すぎる。髪型も黒の短髪で、後頭部だけを見たら完全に男だ。
――絶対俺の方がカワイイし。確かに、取っ組み合いになったら勝てそうにないけど……
恋愛は戦いだと言うが、しかしそこに暴力は必要ない。磨くべきは見た目や中身であり、腕力ではないのだ。メニューから離れた彼女の手は、シズクのそれよりも一回り大きく、そして厚い。肌の感じもなんだか固そうだ。
なのに……なのに……
「かしこまりました!」
怒りまでもぶつけてやろうとそう大きな声で返答し、その場を早足で立ち去る。後ろなんて見ていられない。周囲の目だって今は考えてられなかった。
失恋したのだ。しかも、仲睦まじい様子を見せつけられた。どんな見た目だって、その相手は女だったのだ。男であるシズクが勝てる要素はない。いくらカワイイ見た目をしていても、シズクの性別は男なのだから。
「シズクっ!!」
後ろで響いた自分の名を呼ぶ声に、シズクは再度愕然とする。
その声は愛しい彼の声ではなかった。
細身の手が歩き続けるシズクの腕を掴み、強引にその場に立ち止まらせる。痛いくらいのその力に、思わず振り向いてしまう。
声の主はリュウトだった。彼の顔は悲しげで、それを見てシズクも涙が出そうになる。ダメだ。せっかく今まで我慢したんだ。絶対、彼の前でなんて泣きたくない。あの女の前でも絶対。負けを認めたみたいになるから。絶対、絶対……彼の前では……
――彼の前……
「外、出れるか? ちょっと休憩貰ってこい。お前のその顔見たら店長さんも考えてくれるわ」
いつもの軽薄そうな笑みを口元に浮かべたリュウトが、小さく囁いた。優しい声で、シズクの行き先を示してくれる。いつも彼はそうなのだ。軽薄そうな笑みを浮かべて、それでいていつもシズクの心境を見通してくれている。その笑みはわざとだということくらい、シズクだってわかっている。
「うん。ごめん。ありがとう」
ふるふると頭を振ってお礼を言うと、リュウトが髪の毛をぐしゃっと撫でて来た。そしてその勢いのままシズクをバックヤードに続く扉の前まで連れて行く。彼の勢いに任せるようにしただけで、シズクの足は素直に動いた。離れるために飛び出すわけでも、立ち竦むわけでもない。ちゃんと頭と身体が連動している感じ。久しぶりにすら感じる。
「会計終わらせて外出てるな。はよ来い。待ってっから」
そう言い残して扉を閉めてくれたリュウトに感謝しながら、シズクは慌てた様子で駆け寄って来た店長に苦笑いを返した。
店の裏口の扉を開けると、まだ冷たさの残る風がシズクの頬を刺激した。
季節は春と言ってもまだ夜は肌寒い季節である。バイト先の制服のまま外に出たので、長袖ながらも少し寒い。
「めっちゃ早いやん……平気、ちゃうわな……」
足元から声がして、シズクは裏口の横で座り込んでいたリュウトに小さく笑みを返した。店の敷地内ではあるが道端と言える地面にそのまま腰を下ろしている彼は、派手な頭髪も相まって不良のように見える。
本気で悲しかった。涙だって、まだ出ている。赤く泣き腫らしたシズクの目を見て、店長は何事かと詰め寄って来たが、何も話さないシズクを察してか、そのまま今日の仕事は上がらせてくれた。
「リュウト……俺、俺……」
悲しみが深すぎて、尚更にリュウトの優しさが胸に刺さった。彼はいつも通りの笑みを浮かべて、立ったままのシズクを見上げている。いつも通りの、優しい笑みだ。
「シズクとは短い付き合いやけどさ、俺ってけっこうお前のこと知ってるつもりやってんけどなー。だってずっとべったりやったやん? 俺ら。少なくとも学校内では。せやから、俺……シズクの『好きな人』くらい、簡単にわかったで」
リュウトはそう言って立ち上がり、シズクを真正面から抱き締めてきた。暖かい彼の腕は、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。親友になれるであろう相手に抱き締められて、その優しさに包まれて、安心している自分がいる。涙がじわりと、また一筋流れ落ちる。
「もう、あんな人前で泣くなや。俺がいる前でだけな。それならこうやって、隠しといたるから。ほら、大丈夫やから」
ぎゅっと力を込められる。リュウトの腕は予想通りの細さなのに、シズクとは違ってしっかりと筋肉がついている。ちょっと強引なところもあるリュウトらしい、力強くて優しい腕に包まれる。
――うわ、俺……惚れそうになってた……
噂では女子を落とす時は失恋直後を狙えと聞くが、それはその通りだなとシズクは思った。恋愛対象は『同性のコウ』なシズクだが、それはたまたま『同性のコウ』のことが好きになっただけであり、他の同性に対してもそうであるかと言われればそうではない。
そんなシズクでもこのシチュエーションには思わず流されそうになってしまった。これが女子相手だったらどうだろう。こんな色男な言動をさらりと行えるとは、さすがはそれなりにモテるだけはある。恐るべし。
「も、もう……大丈夫」
流れ落ちた涙を強引に手で拭って、シズクは腕でリュウトの身体を押して離れる。素直に抱擁を解いたリュウトは、怒るわけでもなく心配そうにシズクを見ている。
「まだ泣いてるやんけ……ほんまに大丈夫か?」
「うん、大丈夫。それより……リュウトは俺のこと……軽蔑、しないの?」
シズクは震えてしまっている声でそう伝えて、リュウトと目を合わせる。
シズクの心境は複雑だった。いつも一緒に行動していたリュウトの優しさはとても嬉しくて、その言動のせいで余計な涙が出てしまったくらいだが、それよりも、シズクの心を乱す言葉を彼は先程言ったのだ。
――俺が誰を好きなのか……バレた……んだよ、な……
リュウトはシズクの好きな人くらい簡単にわかると言った。それはそうだろう。鈍い人間でも先程のシズクの反応を見たらピンとくる。同性愛者のことなんてフィクションの中だけの話だと思いながらも、もしやと勘繰られるくらいには過剰な反応を自分はしていた。
「なんでやー? シズクが誰のこと好きやって、なにも悪いことなんかしてへんねんから、胸張っとけや。俺はどんな相手が好きやったとしても、そんなシズクのことが好きやねんから」
そう言ってリュウトに頭を撫でられる。身体は少し離れたけれど、それでも近い位置で話していることには変わりない。にっと笑った彼の笑顔には、いつものように白い歯が映えた。本人曰くキラースマイルということだが、うん……確かに。
「リュウトの軽口って、こんな時にも健在なんだな。俺が失恋のダメージで泣いてる時まで普段通りなんて」
普段通りの軽薄さで冗談を言うリュウトには、感謝しかない。シズクがまた“いつものように”拗ねたフリをしてそう返すと、彼は少しバツが悪そうに笑ってから、シズクの背を叩きながら言った。
「つーか失恋って勝手に決めつけてるけど、俺的にはあの二人はまだ付き合ってるようには見えんかったけど?」
「え? でも二人で夕食って、付き合ってない?」
「いやいや、これやからおこちゃまな童貞思考は困るわー。百歩譲ってデートやったとしても、まだ告白はしてへんのちゃうかなー? コウくんがモテるんは腹立たしいけど事実やし、デートくらいならそりゃたっくさんしてるやろうけど、あの二人の雰囲気は、どっちかってーとあのゴリお……じゃなくてオンナノコの片想いというか……とにかくコウくんの方は恋心みたいな空気違った思うんやけどなー」
「っ……じゃあ!?」
期待に顔が綻ぶのが自分でもわかった。ダメなことはわかっている。他人の恋がまだ成就していないことを願うなんて、片想いをしている人間としても普通の人間としてもいけないことだろう。でも、彼は……コウのことだけは、シズクは誰にも渡したくはないのだ。
ばっと飛びつくように迫ったシズクの勢いに苦笑しながら、リュウトは肯定の頷きを返して言った。
「せや。あのオンナノコは付き合ってない。だからまだシズクも滑り込める可能性、あんで!」
「っ! 俺……頑張る! 俺、絶対気持ち伝えるよ! この気持ち、伝えないまま失恋なんて、したくない!」
コウが店に訪れるまで、シズクの中では『失恋する』というものは、漠然とした感覚でしか考えていなかった。同性が相手の恋愛なので、きっと成就はしないだろうと心のどこかで考えはしながら、しかしもしかしたらという甘い希望の方が大きかった。
それは、コウに恋人がいなかったからだ。いや、違う。シズクに『わかるように』恋愛相手がいなかったからだ。だから自分が気持ちを伝えて玉砕さえしなければ、失恋したことにはならないと、心のどこかで予防線を引いていたのかもしれない。
「俺も、しゃーないから応援してやるわ。それにしても、シズクの好み、意外やったなー。確かにこの前好きなタイプの話になった時に『頼りがいがある人ー』とか冗談みたいに言ってたけど、あれほんまやったんやな」
「まーね。リュウト……隠しててごめん」
「あん時はクラスメートの前やったしな、言えへんのわかるって。俺にだけは、今言ってくれたんやしそれでエエ。あの時のはもう、具体的な相手がおっての話やったんやな……」
「……うん」
「そんなしょげた顔すんなや。早速俺が明日あのオンナノコに探り入れて来たるから。とりあえずコウくんも誘って四人で遊園地にでも行こうや」
「リュウト、本当に……ありがとう」
「気にすんなや! シズクはどう思ってるかは知らんけど、俺からしたら一番近くにおる相手に初カノが出来るかもしれんねんから。そりゃ協力せんかったら男が廃るやろ」
「……え?」
どーんと自らの胸を叩いたリュウトの言葉に、シズクはそう声を漏らすだけで精一杯だった。誇らしそうな表情のリュウトは、そんなシズクの反応なんてお構いなしに続ける。
「あのオンナノコ、ほんまにシズクの言ってた好きなタイプそのものやもんな。絶対上手くいくように俺も頑張るからな」
果たしてこの勘違いは良いのか悪いのか。
返答と気持ちの持って行き方にしばらくの間迷った挙句、シズクは小さく「任せるよ」と返した。自分の声が沈んでいるのがわかる。身体から力までもが零れ落ちるような気分だった。