第3章 天使降臨
それは光の砲身だった。愛しき魔王へと鎌首をもたげるその光のヴェールは、濁りきった暴力的な色合いで筒状の形状を取っていた。まるで崩れた階段の上に差した一本のスポットライトのように。
その砲身は崩れた天井を突き抜けて空に映る『全て』へと向けられている。あまりに光の力が強すぎるために中の様子は知り得ないが、あのクソ天使が考えそうなこと等わかりきっている。
「ルツィア……その祈りはもうお前の願いを聞き入れない。祈りをやめろ」
このヴェールが出現した時点で、天界との境がなくなり天使の力は最大限に発揮されるようになる。そこまでくればもう、祈り等捧げる必要はない。
ゼトアの言葉に、だがルツィアは隣で祈りを続ける。聖なる言の葉を紡いでいるはずのその音色が、酷く耳障りにゼトアを刺激する。
――これは、天への祈りではない?
聖職者ではないゼトアは天界への祈りの言葉は聞き取れない。だが、毎日天への祈りを忘れなかった彼女との思い出の中で、こんな悪寒の走るような祈りは聞いたことがなかった。魔族のゼトアですらも、まるで子守唄かのように穏やかに、その音色は感じられていたのだから。
「ルツィア……」
祈りを一心に捧げながらも、魔力の流れでこの状況はある程度は理解しているはずだ。だが彼女は、ただただ膝をつき、両手を前に掲げ、固く瞳を閉じたまま天への祈りを捧げている。たなびく銀髪に、光の魔力を漂わせる。
――お前は、息子を救いたくはないのか?
その祈りの向こう側に息子は囚われてしまっている。天使の考えが理解出来ない母親ではない。どんな時にも聡く、どんな時にも慈悲の心を持ち合わせ、そしてどんな時にもゼトアを想う女であった。
だからこそその身を案じ、自身の血を分けた息子を孕ませた。その役割は魔王には出来ない。全てである存在は、新しき生命の器となることは出来ない。だから彼女は特別だった。
――俺を奪う、息子が憎いか?
魔王には勝てない。そう彼女の心には刻まれていた。ゼトアが戦線に戻ってからも、魔王は彼の特別をずっと視ていた。天空に浮かぶ鏡を通して。そこに浮かぶ色合いに、彼女は少しずつ蝕まれていた。彼女自身も気付かぬうちに、憎い恋敵の影を追って、その身に纏う衣がその色に染まっていることにも気付かずに。
そしてそれらは息子にも伝染し、歪な親子の関係は、愛しき男性<ヒト>が現れた瞬間、音を立てて崩れたのだ。
目の前で光がその純度を増した。激しく内側から膨張するように光が膨らみ、まるで脈動するかのように上へ上へ昇っていく。
『私は……貴方が欲しい……』
隣から響く祈りのなかに、確かに欲望の言葉が聞こえた。決して、純白のなかに黒き歪を隠し通せないように、その醜き“願い”は聖なる祈りを隠れ蓑に、天界へと――天使へと届けられていく。
『私は……女だから……貴方の……を、産み落とせる……』
ゼトアは隣のルツィアを静かに見詰める。女である喜びと嫉妬が彼女の心を狂わせた。ずっと、それはわかっていた。ずっと――
彼女の祈りは欲望から嘆きに変わり、そのまま絶望へと向かう。女であり、母でもある彼女の心は、その反面、愛しき息子のことをも想っていた。自らの心の矛盾に、悲鳴をあげながら、縋るように天へと祈る。彼女はわかっているのだ。たとえその身がどうなろうが、ゼトアが自分を助けないことを。
愛しいとは思っていた。自分のものにしたいとも。孕ませたいと思えた女で、その気持ちは真実であった。だが、魔王が視た真実はあまりに惨く、それでいて甘美な背徳に彩られていた。それをゼトアは受け入れただけだ。守るべき対象である息子を守り、その未来へと突き進むことは、魔王への絶対的な忠誠に他ならない。
今や遺跡の天井を越えた光の塊が、突然――爆ぜた。
まるで闇夜に寄り添う孤独を絵に描いたような暗き光と、見かけだけは神々しい思わず悪寒を感じさせるような眩い光が交差し、絡まり、混ざり、そして爆ぜた。
その混ざり合い砕けた光は、確かな衝撃波と共に遺跡ごと大地に牙をむく。激しい地鳴りと突風に、石で出来た空間に砂嵐が舞い上がる。もう光のヴェールはおろか、息子達の姿もすぐ隣にいるはずのルツィアの姿も見えない。吹き荒ぶ砂嵐が、全ての視界を遮断する。
片手で顔の前を覆いながら、ゼトアは“少年達”の選択を見届けるためにその場に立ち続けた。