第三章
ガリアノが立ち止まった為、その後ろに続いていた三人も立ち止まることになる。サクは辺りを慎重に見渡した。
そこは文字通りの湿地帯であった。胡散臭い木々達がまるで遠慮するかのように、この辺りだけ生えていない。背の低い草が生い茂り、その隙間から濁った水面が顔を出している。
気持ちをざわつかせる霧の気配は消えないまま、視界だけが開かれていた。何故か、視界は開かれているのだ。辺りを漂うこの霧は、こんなにも濃度が濃いというのに……
「……っ!?」
突然、目の前の三人の姿が掻き消えた。尊敬してやまない広い背中も、すらりと高い迷いを秘めた背中も、愛しいなかに怒りを隠した小柄な背中も、一瞬で濃度の濃い白に塗り潰される。
「ガリアノ様っ!?」
突然の出来事に、サクの口をついて出た言葉は尊敬するその人の名だった。守るべき愛おしい者の名を叫ぼうにも、この状況では満足に守れない。己よりもよっぽど信頼出来る、尊敬する者にその身を任せるのが賢明だと咄嗟に判断していた。
サクの声に答える者はいなかった。視覚が役に立たないまま、ついさっきまではそこにいたであろう場所に向けて、サクは手を伸ばす。何も触れない。やけに重たい空気だけが、その手を掠める。
「……これは、迷いの森の影響、ですか……」
正しく『迷いの森』と言える現象だった。幻覚のなかに囚われた状態でも、サクの頭は冷静だった。
幻覚自体には殺傷能力はない。あとはサクかガリアノが、守るべき者達の心が幻覚で壊れてしまう前に、抜け出しそして助ければ良いのだ。それだけだ。なにも難しいことはない。そう己の心に強く言い聞かせる。
今、サクの目の前には、死んだはずの妹の姿が浮かんでいる。亡くなった時の苦しんだ末の姿ではなく、病にかかる以前の元気だった頃の姿だ。愛らしい大きな瞳を嬉しそうに細める妹は、やはり同い年の彼女と比べると随分と子供っぽい気がする。
『助けて……』
妹の姿を模した汚らわしい霧が、そう言葉を零した。酷く擦れたその声は、妹の声を正確に模したもののはずなのに、どうにも胡散臭い闇を従えていた。低く闇に引き摺られるかのように、耳に届く頃にはひび割れているのだ。
幻覚だとわかっているからこそ、サクはその妹の姿に反応することはしなかった。この幻覚が森の意志から来るものなのかはわからない。だが、このようなものにおいそれと反応しては、どう考えても状況は悪化すると本能的に予感していた。
『助けて……』
まるで一つ覚えのように、霧はそう発するのみ。てっきり病のことだとばかり思っていたサクは、その言葉すらも想定済みだ。心を波立たせない術を、サクは心得ている。忌々しい霧の妄言に耳を貸すことは、妹の死への冒涜である。
『助けて……』
妹の姿がぐにゃりと揺れた。急激に気配を遠のかせる霧と一緒に、妹の姿が掻き消えていく。完全に消え去る前に、その小さな肩に逞しい大きな手が添えられたような気がした。
『助け――』
「――大丈夫かっ!?」
耳にこびり付いたその声を、大きな太陽の声が搔き消した。いきなり光を取り戻した視界いっぱいにガリアノの顔が広がる。一瞬前に見えた大きな手は、小さな肩――ではなくサクの両肩に掛けられており、がくがくと揺すられていることにようやく気付いた。
「っ……ガリアノ様、すみません」
どうやらいち早く幻覚から脱したガリアノは、サクよりも先に守るべき二人の意識を取り戻してから、サクの肩を揺さ振ってくれていたようだ。大声で呼びかけながら肉体への刺激によって強引に意識を取り戻す。多少手荒ではあるが、幻覚からは一刻も早く脱しなければ、心が戻って来れない可能性がある。この方法が一番効率的であることは否めない。
「お前さんは多少は耐性もあるだろうと後回しにした。すまんな。なるべく早めには手を打ったんだが、ほれ……新米達はあの有様だ」
ガリアノがその手を肩から放し、少し離れたところで座り込んでいる二人を指差した。げっそりと青い顔をしているリチャードと、口の端から流れた血の混ざった涎を手で拭うレイルの姿が目に入る。二人ともしっかりと幻覚のダメージを負ったのか、その瞳から普段の光は消えている。
「さすがに『幻覚』だと言われていても堪えたようだな。何を“視た”かは敢えて聞かんが、これだけの被害で済んで良かったと喜ぶべきだろうな」
「ええ……まさかこれ程とは……申し訳ありません」
守るどころか助けられてしまったサクが頭を下げると、ガリアノはいつものようにガハハと笑った。
「さすがのサクも見えない霧には苦戦したか! せっかく四人で旅をしているんだ。助け合うのが仲間だろうとも!」
屈託のない笑顔でそう言われ、サクも微笑み頷いた。心に太陽を宿したような男には、陰気な霧等歯が立たないのだろう。
落ち着きを取り戻した心で、再度二人に視線を戻す。
――いったい、何を視たのですか?
霧がもたらす幻覚は、『その者が視たい光景』なのだろう。サクにとっては最愛の妹であるその光景は、果たしてあの二人には何に視えるのだろうか。故郷の景色か、それとも……?
「……お身体は大丈夫ですか?」
一瞬過ぎった疑問は飲み込んで、サクは座り込んだままの二人に向かって声を掛けた。尊敬すべき大きな背中が、いったい何を視たのか等、今は必要ないことだ。