第二章
普段からまるで、煮え滾る炎を宿すような女性だった。太陽のような暖かみのあるガリアノとはまた違う、うっかり触れる者を芯まで焦がす危険な火花。攻撃的な鋭さを孕むその誘惑の光が、今は酷く虚ろに見えた。
男が拳を振りかぶった時、サクの身体は半ば反射的に動いていた。普段サクは、種族によるあらぬ誤解を招くことを避けるために、その攻撃能力は極力隠している。戦闘能力の高さはアクトという見た目からある程度は悟られてしまうが、それでもむやみに手をあげることもしないし、相手からの攻撃も受け流すことに徹している。
だがそれが、今はどうだ。
なんの躊躇もなく振り下ろされたその拳を、サクは片手で受け止めてしまった。男の怒りに燃える瞳のなかに、愛しき彼女の姿が映ることが腹立たしい。思わずその掴んだ手に力を込めてしまう。男の表情に恐れが混ざる。
そこではっと我に返り、何事もなかったかのようにその手を放す。彼は崩れ落ちるようにして、その後吠えるように泣いた。
魔物がうろつく外に、それも普通の集落の素人が、たった一人で外に出たのだ。末路等、誰でも想像出来る。
最愛の存在を亡くした夫婦は、己の無力を嘆き、そして慰め合う。その確かな夫婦愛に、サクは掛ける言葉が見つからなかった。静かに見守るガリアノも、きっと同じ気持ちだろう。
この世界の闇をまだ知らぬ青年に、サクは静かに目を向けた。彼は泣き出しそうな瞳でその拳を握り締めていた。平和な世界で育った彼等の心には、まだ人の死は早すぎる。こんな辛い現実を、こんな早い段階で彼には経験して欲しくなかった。
そう。彼には。
――この世界の醜さを、自分は彼女には語っていたのに?
上の立場の人間が、平気で下の――辺境の村を汚染し、死に追いやっている。それを彼女には聞かせていた。何故?
それにはすぐに思い至った。彼女の瞳が、この青年とは違ったからだ。
彼女は理解をしていた。世界に差別があることを。どれだけ取り繕おうと偏見が消えないことを。そして、それを憎んでいた。心の底から。
その心の奥底には、きっと輝かしい心根はない。聖人のような心は望んでいない。差別した者達への憎悪。それで充分だった。自分と一緒だから。
「てめえらは怖かったんだろ? 『皆を救う旅に出る息子』を止めたら、周りからどう言われるか怖かった。だから息子一人に責任を擦り付けて、自分達は悠々と待つ側にまわった」
「違う! 旅に出ると言い出したのは息子だっ! それをワシ等は止めることが出来なかったんだ」
「死ぬってわかってるのにか?」
「……そ、それは……」
「だったら『大切』なんて言うんじゃねぇよ。本当に大切なモンの前では、自分の命なんて惜しくねぇだろうが。自分可愛さに守れないような存在は、大切なモンなんかじゃねぇよ」
そう吐き捨てた彼女の表情は、何故だか泣き出しそうにサクには見えた。悪い形に歪んだ口元すら、酷く儚げで。
「魔法の力のある異世界まで来てもよ、結局やっていることはどこの世界も変わんねぇのかよ……これ以上、失望させんなよな……」
うんともすんとも言わなくなった夫婦に背を向け、小さく小さく呟かれたその言葉に、サクの心は掻き乱される。
まるで子供の癇癪のように真っ直ぐに、自分だけに向けられた言葉だった。サクは静かに頷き、彼女を肯定した。その感情に、きっとサクは――サクだけは寄り添うことが出来るのだから。
弔いのための墓は質素だった。燃え残った木々を組んだだけの、形だけのものだ。そこに神への祈りなどはない。ガリアノ曰く、この世界でもちゃんと死者を弔うという習慣があるらしく、地中深くに埋める――つまり土葬が、ゼートには広く一般的なのだと言う。悪戯に魔法を多用しないためにわりと最近になって定まったルールらしいが、そもそも神や自然といったものに感謝して生きる種族であるゼートにとって、死後に帰る場所とは自然以外にないのだと言う。
願いを叶える神様はいるのに、宗教的な拠り所がないことがリチャードは気になったが、今は関係ないので黙っていた。隣でレイルも口を挟まずに黙っている。こういう話題はむしろ、自分より彼女の方が口を挟みやすい話題だろう。
ゼートには一般的に広まったルールも、アクトには広まっていないということが多々あるらしいが、この死後の儀式については、アクトも土葬に切り替えたそうだ。昔は己のその毒で身体を腐らせ溶かし、大地に還していたそうだが、そもそもその魔法が原因で土壌汚染が起こっているところにわざわざ毒を生み出すのもどうかという話だった。
日陰者にとって日の当たる場所からの制定等、反発以外起こるはずもないのだが、大地の危機という前代未聞の大義の前には、相反する種族もそこの点だけでは問題なく意見が一致した。それ以来道端に転がる死体の数も減り――さすがに旅の道中の事故は仕方がないが――土壌汚染のスピードは微かに和らいだ。
「結局、何人かも教えてくれなかったな」
レイルが“何も埋まっていない”墓標を見詰めて言った。
あれから聞かされた夫婦の真実に、その瞳の炎は消えていた。全てを燃やし尽くしたこの地と同じく、もう燃やすモノがなくなってしまったからだろう。彼女の燃料はきっと、他者への憎しみだ。
それが例え彼女の内のひとつだとしても、それはなんだかとても悲しくて、リチャードにとっては見たくないものだった。
何もかもを燃やし尽くされたその集落だった場所は、もう風を遮るものもない丘となっていた。少し離れた場所にある森から続く緑が、急に灰色に変わるその地で、新たに建てられた墓標だけが哀しく立ちつくしているのだ。
「大切なものを“なくして”、ようやくどうでも良くなったんだな」
その口元に浮かぶ皮肉めいた笑みにも、気付かないように蓋をした。無駄だと充分承知の上で、リチャードはその言葉を訂正する。
「違うぞレイル。彼等は本当に、息子の力になりたかったんだ」