第一章「狐と烏」
狙われたのは妊婦ばかりだ。倒れた紬と、転がった死体。どちらの腹も引き裂かれており、だが、そのどちらからも赤子は見つからなかった。子の形すら成しえていない、そんな僅かな存在だったとしても、獣の鼻は誤魔化せない。その腹の中には何もいなかった。
――赤ちゃんなんて、いいひんかったんか?
だが、あの烏達は『妊婦』と言っていた。ご飯のことばかり考えている氷はともかく、岩と雷が揃って間違えるなんてことはあり得ない。あの二羽が『妊婦』と言ったら、それは妊婦で間違いないだろう。
――ダメだ、頭の中がぐるぐるする……
変化には精神の集中が欠かせない。日頃から集中力のない若き狐である黄は、あまり変化というものが得意ではなかった。茶々も同じくなので、この状況――紬の家族(かも怪しいが)から攻撃される可能性もあるため、少しでも力の強い黄が変化して前に出るということになった。
もちろん茶々は『心配や、ウチがやる』と聞かなかったが、ここはオス狐のプライドを通させてもらう。
黄から漏れ出る妖力を感じ取ったのか、もう烏の声は聞こえない。上空をぐるぐると回っていることだけは、二羽からの妖力でなんとなくわかった。
黄はふぅっと息をつくと、今一度精神の集中に入った。頭の上に葉っぱを乗せて――この家の隣に生えていた草を失敬した――変化した自分の姿を脳裏に出来るだけ詳細に組み上げる。
目で見た記憶というものはかなり曖昧なもので、この変化の術で変化した対象は、即ち黄が覚えている部分だけの変化になる。そのため頭の中で造り上げた姿が曖昧になればなる程、細部にほころびが目立つ悪目立ちするだけの人間が出来上がってしまう。
だが、黄と茶々は人間というのを紬しかしっかり見たことがない。だからこそ、二匹の変化の練習台は紬だけだった。四季折々、ちょこちょこと変わる彼女の服装の変化を楽しみながら、二匹は彼女の姿を真似て、妖力が尽きてぶっ倒れるまで遊んでいた。もちろん紬が帰ってからの話だ。
集中する黄の脳裏を、先程の痛々しい彼女の姿が過ぎる。腹から夥しい朱を流し、か弱い声で自分を呼んだその声に、黄はぎゅっと強く目を瞑る。彼女はあの暗い暗い夜の底で、一体何を待っていたのだろうか。
唐突に湧いた疑問に目を見開くのと、視線が高くなる独特の感覚を感じたのは同時だった。
にょきりとまるで木々の成長が早送りされているかのように、黄の身体がぐんぐん縦に横に伸びていく。手足は爪も毛も短くなっていき、その代わり指先がはっきりと分かれすらりと伸びる。物を持つことに適した手先に、攻撃性能の失われた整った爪が被さっている。
四つん這いの姿勢には無理がある伸びた足にぐっと力を入れる。四つ足移動に慣れ親しんだこの身体には、やはり二足歩行というものの、その一歩を踏み出すまでの恐怖感は相当なものだ。まずは膝立ちの姿勢でバランスを取ることに慣れ、そしてゆっくりと立ち上がる。
脳裏を掠めた痛々しい彼女の姿にはなっていない。それを立ち上がりながら確認する。痛みすらない腹をその腕で摩ると、足元で茶々が心配そうな顔で見上げてきた。急に高くなった視線にまだ慣れないなか、大丈夫だという気持ちを込めて微笑む。人間の表情って難しい。
服装は今日ではなく、その前に見た彼女の服装だ。最後に変化の練習をしたのもその日なのでまだ覚えていた。普段からあまり記憶力が良くない黄は、彼女と会う日を変化の練習の日と決めていた。茶々もあまり得意ではないから、一緒のタイミングで練習していた。
秋らしい茶色と黒の配色は、狐である黄からしても心が落ち着く色合いで、肌触りの良さも頬を擦り付けたのでわかっている。やはり身近で見て、触れた彼女への変化は確実だった。これ以上ない出来栄えだと思う。声も見た目も瓜二つだから、きっとこの家の中の住人が“娘の帰りを喜ぶ”親なら騙し通せる自信がある。
「行こか」
彼女の鈴を転がしたような声がちゃんと出て、それに茶々も安心したように頷いた。少しふらふらしながら玄関の扉に手を掛ける。白い壁に木の色合いそのままの扉。そして、住み慣れた神社と同じ仕組みの扉だった。だから横に引けば動くことは知っていた。だが力加減がわからなくて、少し力んで取っ手を掴む。
掛けた力が強すぎたのか、引き戸はガラッと横に勢いよく開いた。鍵は掛かっていなかったようだ。やはり、二足歩行の力の入れ方は難しい。今もこうして突っ立っているだけでも、こんなにも集中しなければならない。
いきなり全開になった玄関から、無遠慮に外気が侵入していく。月明りに照らされた玄関は、想像よりも生活感が感じられない。打ち捨てられた境内の中の方がまだ物が残っている。それ程までにがらんとした入り口だった。吸い込まれるようにして入り込んだ空気の流れが、唐突に止まる。
人の気配が感じられない家の中は、やはり灯りの類は全く点いていない。まるで命を拒むかのような暗闇が、どっぷりと家の中を隅々まで覆っている。柔らかい月明りから一歩、踏み出す。
玄関に足を踏み入れた途端、その闇が濃くなったような気がした。視界は獣の目があるので問題はない。だが、明らかに肩に掛かる重圧が増している。足元で怯えた茶々が、二足歩行の足に擦り寄っている。彼女を護るようにして一歩、更に前に進み出る。すると――
がらり。
突然、玄関から入って右手の扉が開いた。漆黒の闇の中、腕が一本そこから伸びる。黄が変化した紬の腕よりも一回りは大きい手だ。その腕はにょきりと玄関の壁に手のひらを当てて、まるで反動をつけるようにして、その本体を黄達の前に晒した。
ぐっと腕の力で目の前に躍り出たのは、妙に血色の悪い男だった。人間は紬しか見ていないので男の年齢はよくわからないが、多分この男が紬の父親なのだろう。なんとなく肌に走る皺の年季から、親父さんという感じがする。
「あ……えっと、ただいま……」
不自然にならないように、娘のフリに全力を尽くす。多分、狐の家族も人間の家族も、お互いの安否を心配するのも、「ただいま」「おかえり」の言葉だって掛けるのも一緒だろう。
続けて男のことを父親と呼ぼうとして、悩んでそこは言葉にすることはしなかった。そもそも紬が、父親のことをなんて呼んでいるのかもわからなかった。あの烏達ですら『親父』『父さん』『オッサン』と、亡き父親のことを別々の呼び方で表現していたのだから。
男は酷く痩せこけていた。白髪というよりは銀に近い髪は薄く、その肌も決して栄養状態が良いとは思えない土気色をしている。まるで枯葉でもつけていそうなその細すぎる腕が、上半身の重みに耐え兼ねるように壁に寄り掛かっている。
男の視線が黄を捉えた。男の瞳は鮮やかな緑色をしていた。遥か上空を旋回しているであろうメス烏よりも更に鮮やかな、まるで夏の山々を連想させるような命の息吹に満ちた色だ。その瞳だけがまるで取り換えらえたみたいに、生気に満ち満ちていた。
「……紬……?」
男は、最初悪い夢でも見ているような顔をした。その顔に、最悪の展開が黄の頭に広がる。足元で茶々が縮こまるのが動きだけでわかる。
「……お前は、何者や?」
目を見開いた男がよたよたとこちらに歩きながら、まるで譫言のようにそう問い掛けてきた。その問いに黄は答えることが出来ない。その代わりにと、手に持っていた紬のスマホを差し出そうとして、男の背後――廊下の奥の扉が音もなく開いたことに気付く。
「……っ!?」
危うく黄は尻餅をつきそうになった。元より苦手な二足歩行でバランスを崩したわけでも、ましてや妖力が底を尽きたわけでもない。あまり時間的猶予はないが、それでもまだ立ち眩みがするような時間ではない。
音もなく開いた、男の背後の扉。そこから獣のような深紅の瞳がこちらを覗いている。その瞳の下で、涎の滴る大きな大きな口が開かれる。こちらは扉と違い、ぬちゃりと――唾液と鮮血が混じった粘り気のある音が小さく響いた。
『な、何あれっ!?』
あまりに驚いたのか、茶々が毛を逆立ててそう叫んだ。その声に反応するかのように、途端に空間に満ちる圧力が強くなる。ずっしりと身体を抑え付けられるようなその感覚に、思わず黄は呻き片膝をつく。地面にぺったりと身を伏せてしまった茶々を、慌ててその腕の中に抱く。
扉の奥で瞳が動いた。扉の向こうは漆黒の闇だった。みしりと床が軋む音が遅れて聞こえる。そのあまりの存在感に、黄は目の前に迫る男のことを完全に意識から外してしまっていた。
男の細い腕が黄の肩に迫る。思わず後ろへ飛び退き身を躱す黄に、男は取り繕ったような奇怪な笑顔を見せた。
「なんやなんや、娘の姿に化けたらバレへんとでも思ったんか? 親が子供を間違うわけないやろがっ! あやかし風情がワシを化かそうなぞ千年早いわ」
枯れ木のような男から出るには過ぎる声だった。まるで地鳴りでも従えるような低く重たく、暗い声だ。少し皺枯れているその声のところどころに、とてつもない妖力が潜んでいるのがわかる。この男は、人間ではない。
「くっそ!」
片手で茶々を抱えて庇いながら、黄は家の外に走り出る。慣れない二足歩行なんて言ってられない。よたよたとよろめきながら、それでも狐の時よりは遥かに大きな歩幅で家の前の道路に飛び出した。
家の外は、相変わらず誰もいない。家々から気配は感じるのに、この道だけがそこから断絶されているような不思議な妖気に満ちている。
「お前……狐か?」
黄を追って外に出てきた男が、こちらを見据えたまま言った。黄ははっとして、視線は男に向けたまま自身の腰に手をやり感触を確かめる。ふさふさとした大きな尻尾が、服の間から飛び出ていた。どうやらもうすぐ時間切れのようだ。男は玄関から出たところで立ち止まる。道路の端にいる黄とは、そこまで距離が離れているわけではない。
「そ、そうや! 紬が血ぃ出して危ないから、家族の人に助けてもらおう思ってここまで来たんや! せやのにっ、なんで紬の家からあの血の匂いがすんねん!?」
男の強い視線に捕まり、思わず声が上擦ってしまった。抱えている茶々がぎゅっと指に身を擦り付けた。『落ち着いて』と言われているようで、少し不甲斐ない。
「紬か……あいつは大丈夫や。ワシの娘やし、あの烏共がついとるからな」
「え? か、烏……?」