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第一章「狐と烏」


 そこは惨たらしいまでの血の海だった。
 目的の紬の家へと向かう道の途中に、それは無造作に転がっていた。そのついさっきまで人間だったものは、大穴の空いた腹を天に向け横たわっていた。
『うっ……』
 直視することを耐えかねて、茶々が俯く。血の匂いが酷すぎて、まわりの空気まで血に染まっているような錯覚を覚える。
 こちらに走っている最中から、黄はなんとなく気付いてはいた。噎せ返るような朱の濃度が、こちらが近付くにつれてどんどん濃くなっていったのだ。野生動物ならば誰もが持っている感覚が、心に最大限の警鐘を鳴らした。
 それはもちろん隣を並走する茶々にしても同じだっただろう。しかし彼女は足を止めなかった。救うべき人間のために、この惨状をどうにかこうにか“見逃せない”かと自身に問い掛けていたに違いない。
 烏達から人間の街は危険がいっぱいだと聞いていた。彼等は人が『どのようにして飯を食うか』をさもおかしそうに二匹に語った。狩りをして得た獲物なんて人間達はほとんど食べていなくて、食べるために産み落とされ、そして育てられた動植物をただ食らって増えているのだと。
 そんな人間達は、同じ人間同士で殺し合うことすらあるらしい。繁殖のためにメスを巡ってということもなく、彼等はその“私情”という繁殖には無関係な感情で殺していくのだという。食べるためでもなく、ただ殺す。そしてこれはきっと、その行為のなれの果てなのだろうか。
 黄と茶々は、結果として“それを見逃すことが出来なかった”。二匹はそれを通り過ぎることが出来ず、思わず足を止めてしまった。
 道端にまるでゴミのように放り出されたその無残な命の残骸が、あまりにも哀れで、そして……嗅ぎ慣れた香りがしたからだ。
 腹の裂けたその身体は、まさしく紬の惨状と同じで、そして同じ匂いがその空いた腹から香るのだ。まるで誘うように、腹の血だまりへと香しく。
『なんで紬と同じ匂いがすんねん?』
 濃厚過ぎる血の匂いに鼻が捥げそうだ。遠慮なく脳裏に暴力的な程の勢いで、臓腑の食感が誘うように広がる。極上の血肉の誘惑。
 同じく辛そうな顔をしながら、茶々がようやく顔を上げる。前足が少し震えているのが黄にもわかった。
『お腹の……傷口からしいひん? これってもしかして……』
『犯人の匂い?』
 茶々が言わんとすることを黄が引き継ぐ。この匂いは目の前の大穴を開けた犯人のものだ。そしてそれは、彼女の――紬が普段から発していた匂いだった。
 命が失われたのがつい先程だったのだろうか。未だどろどろと流れ出るその朱を、どれだけ呆然と眺めていただろうか。
 遠くの方から聞き慣れない鋭い音が聞こえてくる。続いて道の彼方から赤い光が近付いてきた。それは人間達の乗り物――車というやつだった。
 白と黒に塗り分けられたその車は、頭の上で赤の光を回転させている。ウーウーと煩い甲高い音が鳴り響き、その車はこちらに一直線に近づいてくる。
『茶々、やばい! 離れよ』
『う、うん!』
 慌てて茶々の肩を押して、二匹で目的地に向かって駆け出す。途中でその白黒の車とすれ違ったが、夜の闇に二匹の身体は上手く溶け込めていたようだ。
 暗闇のためか速度を落して走行するその車の座席を見て、茶々が驚いた声を上げた。
『ケイサツカンの人ってオジサンだけやないんや……』
『……ケイサツカンって?』
 聞き慣れない単語に黄が首を傾げると、茶々は『雷から聞いただけやねんけど……』と曖昧な笑みを浮かべて言った。
『事件とかを解決する人達のことなんやって』
『そうなんや。でも、なんで見てもいないのにオジサンって決めつけんねん?』
『雷が警察官はオッサンばっかやって言っていたから』
『雷のことやからそのオッサンにいらんことしたんちゃう?』
 なんとなく。なんとなくだがそんな気がした黄がそう言うと、茶々も思い当たるからか噴き出してしまう。
『絶対そうやわ。雷、いらんことしてそう』
『せやろ? さっきの車の人、メスやったん?』
『うん。乗ってはった。きりってしてはったで』
『……へー』
 頭の中に浮かんだ『その人も、じゃじゃ馬っぽいなー』という言葉は口に出さない黄だった。












 眼下に光るサイレンの光を二羽の烏が眺めている。街の遥か上空を円を描くように旋回しているその二羽は、普段のおちゃらけた態度からは考えられない程静かに、ただその視線を眼下に落としている。
 鳥類特有の鋭い視力で、その瞳はずっと街を走る妖狐達を追っていた。闇夜に光るその蒼と緑の対なる瞳は、見守るというにはあまりにも冷ややかだ。
『あいつら、ちゃんと向かってるな』
 身体の大きなオスの烏――氷が誰ともなしに呟いた。それに小柄なメスの烏が答える。
『また妊婦が死んどるわ。あの匂い、よお我慢出来たな』
『人間の死体は血がどろどろで、味も濃いから美味いもんなぁ』
――こんなだらしない顔は、あの子らには見せられへんなぁ。
 その悪い笑みを隠すこともせず、雷はそんなことを考えながら氷と笑い合う。極上の誘惑を思い出してか、氷なんて涎まで垂らしている。本当にだらしない。獣の欲望の前では、理性なんてものは何の役にも立たないのだ。
『あのサイレン、警察ってやつやろ? 大丈夫かいな?』
 その言葉がまるで心配していないセリフだということは、彼の引っ込まない笑みが証明している。
『岩のカンは間違いないからな。ほんま怖い“兄貴”やで』
 二羽の兄への信頼は本物だ。他の何者をも寄せ付けない強き強き信頼が、三羽の力――妖力でもあり、コンビネーションでもある――の源である。
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