第一章「狐と烏」
『僕らが送るから、黄と茶々でこの子の親を呼んでこい。このスマホ咥えて行ったらなんか察してくれるやろ』
岩の声に他の二羽はいち早く反応し、その大翼をまるで準備体操のようにして広げる。
『……この子の家、多分あそこやもんな』
岩の言葉を先読みしたのか、氷がそう呟いた。
『え? 氷達、紬の家知ってんの?』
茶々が勢いよく顔を上げて言った。そのあまりの勢いに、彼女の上で翼を広げていた氷は飛びのくようにして空中に逃げる。漆黒の羽根が数枚舞い落ち、彼等が闇夜の使者であるという伝承も、あながち間違いではないのだろうなという気持ちにさせる。
『……あぁ。岩も雷も知ってるわ。このスマホ、やっけ? に映ってるのが家やとしたらって話やけど』
『知ってるならなんで早く行かんのよっ!?』
ほとんど叫ぶようにしてそう言った茶々に、三羽はどうにも歯切れが悪い。普段は揃いも揃って巧妙なぐらいに頭も口も回る三羽にしては珍しい。
『……僕らは、そこには行けん』
言葉を選ぶような間を開けて、岩が静かにそう言った。どうしてと続きを促そうとした黄を、雷がすっと前に出て遮った。
『私らはどこまでいっても烏やからな。出来損ないや言うて“そこの人間”は嫌っとる。だから行くなら茶々と黄で行ってや。私らは関与せん』
『な、なんで知って……?』
『俺らは冒険好きやからな』
絞り出した黄の疑問の声も、石畳に着地した氷が大らかに笑って流してしまった。
『それなら、早くウチらを連れてってや! はよしな紬が死んでまうっ!』
悲痛な叫びに、三羽はあくまで冷静だ。三羽は頷き合うと、ふわりと大翼を広げ飛び上がる。一糸乱れぬその統率は、果たして烏という種という理由だけで成せるものなのか。
『茶々、行くで』
『黄はんは私が運んだるわ』
氷が茶々を、雷が黄をその足で掴み上げ上昇を始める。足が地面から離れる独特の浮遊感に、思わず黄は息を呑んだ。決してバランスが良いとは言えない姿勢で、頼れる姉さん烏に命を託す。二羽はみるみる速度も高度も上げて、一気に今は役割を果たしていない大きな鳥居の上を飛び越える。
『うっ……紬、待っててな』
地上よりも遥かに冷たく、まるで踏み入れることを拒むような張り詰めた空気に、普段は気の強い面を見せる茶々も少し臆しているようだ。小さく小さく、地上に残した彼女へと約束の言葉を零した。
『ぐっは、雷! もうちょっと優しく!』
『あんたら急いでるんやろ? 自分の力で掴まりもせんとエエ身分やな』
黄と茶々は文字通り二羽の足に捕まれている状態だ。鋭い爪が引っ掛からないように注意してくれているので痛くはない。だが、それでも速度に乗るために羽ばたく度に、黄達の腹を掴んだ足にも力が入るのだ。獲物に対するその拘束力が、心地良いはずもなく。
『茶々は文句も言わんとやってるんやから、あんたも気張りや。オスのくせにいっつも情けないやっちゃで。文句ばっかピーピー言いおる』
頭の上から溜め息まで聞こえてきて、さすがの黄も頭にきた。普段から愚痴の多い雷だが、今夜は格別に機嫌が悪い。助けに入ってくれたことは感謝しているが、先程のやり取りといい、なんだか黄の中では違和感ばかりが加速している。
『雷は……なんで紬の家に行きたないん?』
腹を掴む足にぴくりと力が籠る。雷の視線は遥か先を見据えたままだ。羽ばたくペースはそのままに、気味が悪いくらいに普段通りに。前を睨む深い緑を宿す瞳が、濃度を増した闇を溶かし込む。
最初は同じペースでスタートした二羽だが、身体の大きい氷が茶々を運んでいるため、雷と黄はその後ろを追い掛ける格好になっている。
風の音と自らの羽ばたきで、おそらく前の氷と茶々にはこのやりとりは聞こえていない。腹に掛かった圧力は、雷の挑発だと受け取る。
『……氷には内緒やで?』
酷く妖艶な声が聞こえて、思わず黄はぞくりとした。腹の圧力はそのままに、メス烏はケタケタと笑い始める。
『やっぱりあんたは私が運んで正解やったわ。氷のアホやったらいらんこと言いそうやからな』
『……いらん、こと?』
まるで頭上から聞こえる声がこの世のものではないかのように冷え切っている。艶めかしく黄を誘う、死者のような声音。闇夜の使者はその翼を広げ、二匹の妖狐を運んでいる。眼下には闇に包まれた町並みが、霧が掛かったように揺らいで見える。
真夜中に程近いこの時間にも、この街の――人間達の営みの光は消えることがない。それは長年の安定した繁栄の証であり、その途切れることのない暖かなる光に、人間達の優しさが詰まっているような気がした。光を宿す家々とは異なり、外にはまるで人影は見えない。
『最近な、この街で何人も妊婦が殺されてるらしいわ』
『妊婦って、赤ちゃんがお腹の中にいる人間?』
『せや、どうもあの銀の影、怪しないか?』
『まさか……紬を襲ったんと一緒なん?』
ぶるりと身震いした黄に、雷は真面目な口調で同意する。
『私と岩はそう考えてる。氷は……あのアホは頭ん中食いモンのことばっかやから、何考えてるかわからんけど』
先程とは意味合いの異なる溜め息を吐いて、ようやく雷の口調に普段の余裕のある笑いが戻って来た。普段から大らかな氷は、悪く言えば鈍いとよく岩と雷にからかわれている。
そして考えるタイプの二羽が揃って同じ見解ということは、おそらくそういうことなのだ。人を襲う、銀の影。それがきっと、紬を……
黄にとって人間という存在は、ほとんど馴染みのないものだ。餌をもらう訳でも危害を加えられる訳でもない。共存でもなければ、損得も発生しない。お互いに干渉しない、希薄な存在だった。でも犠牲になったのが彼女ならば話は別だ。
彼女は自分達に唯一接してくれていた人間で、そんな得体の知れないものに命を奪われるような人間ではないはずだ。黄の瞼の裏には彼女の様子が焼き付いている。目の前で命の灯が弱くなっていく。それに縋りつくことしか出来ない幼馴染。そしてそれを眺めることしか出来ない自分。
――絶対に許さない。紬を助けて、もうこれ以上被害を出さないようにしないと!
黄がそう決意していると、雷が小さく笑った。その響きはいつもの嘲笑でも呆れでもなかった。微かな暖かさが伝わる。
『黄、あんた茶々のことが好きなんやろ?』
そして突然そんなことを言うものだから、黄は大きく咳込むことしか出来なかった。黄の反応に満足した雷は、そのまま言葉を続ける。
『これから降りる人間の地は、ほんまに欲望に満ちてるんやわ。だから“みんな”欲望に狂ってまう。黄、あんたは狂ったらあかんで』
『それって……?』
――どういう意味?
黄がその問いを口に出そうとした瞬間、雷が速度を上げて急降下を始めた。前方で氷も同じように一足先に急降下を開始しており、茶々の悲鳴が遅れて黄の耳にも入ってくる。
『ひぃぃっ、な、何っ!?』
風圧に口が上手く開ききらない。それでもなんとかそう伝えると、雷はさも当然とでも言いたげに『もう着くから放り投げたる。しっかり着地しぃや妖狐はん』と素っ気なく返した。
その言葉通り二羽の烏は足の拘束を解いた。地面まであとそれなりにまだ高さがある。それにも関わらずほとんど減速もせずに放り出された二匹の妖狐は、まるで空中を滑るように突き進む。黄の頭に彼女のスマホがぶち当たった。
『スマホ忘れとんぞ! それ持ってこの道真っ直ぐ行ったら、緑の屋根の家があるわ! そこが父さん家や!』
『他と雰囲気ちゃうからすぐわかるわ! 私らもバレん程度に上を旋回してるから、何かあったら呼びや!!』
後ろから二羽の怒鳴り声も聞こえる。そんなに大声で鳴いたら、人間達が驚いて家から出てくるかもしれない。凄い速度で景色が後ろに流れるなか、黄は隣で同じように放り出された体勢のまま目を丸くしている茶々の身体を、守るように抱え込んだ。