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第一章「狐と烏」


「君らはいつも来てくれるな」
 柔らかな彼女の笑顔に、大気が、境内が頬を染めたように暖まった気がした。柔らかなその雰囲気に、隣の茶々が愛らしい鳴き声で答えている。
 最後に彼女を見たのはいつだっただろうか。
 黄はあまり物覚えの良くない頭を懸命に動かして思い出そうとするも、なかなか明確な答えが見つからなかった。最近は色っぽく感じる幼馴染が隣にいるせいで、いつも黄の頭はこんな状態だった。
 その元凶は彼女の呼び掛けに目を輝かせ、身体に対してふさふさモフモフな大きな尻尾を振って喜びを表現している。一般的に野生の狐は一年程で狩りも出来る一人前になる。黄達の両親も産まれてから二年程だと聞いていた。
 生後一年にも満たずに妖狐として生まれ変わった黄達だが、どうやら身体の成長スピードは野生の狐とは異なるようだった。とてつもなく永い時を生きる妖狐となったためか、その成長すらも極めてゆっくりとした時間軸での発育となった。
 そのため、周りの馴染み達が目まぐるしく成熟し、番を見つけ、子孫へとその意志を伝えるのをただ、隔離された外側から眺めることしか出来ずにいた。それは黄にとってはなによりも苦痛で、辛く、そして寂しかった。
 孤独だった。それはきっと、茶々も同じだと思っていた。仲間の輪から外された、可哀想な自分達だと思っていた。
 茶々が子狐の頃から変わらない愛らしい笑みを黄に向けた。深い蒼を秘めた優しい瞳が、真ん丸と揺れる。昔から変わらない可愛らしい仕草。そして――今ではすらりと伸びた四肢に、なによりも黄の思考は塗り潰されてしまう。
 他にこの近くには野生の狐はいないらしい。烏達に聞いた限りだと、三年前の寒波――黄達が妖狐となった原因の寒波だ――によってここら一帯の野生動物はかなりの数が死んでしまったらしい。狐や狸、それに烏の親達も、厳し過ぎる冬を越えることが出来なかったらしいのだ。
 チャーミングな大きな尻尾が目の前で揺れている。満面の笑みを浮かべた茶々が、彼女に駆け寄ろうとしている。
 その時、黄の視界におかしなものが映った。
「おいで」
 彼女は駆け出した茶々を受け止めるために両手を広げようとしているところだ。その表情は、相変わらず哀しみの色を残すものの優しく微笑んでおり、彼女の茶々への愛情が黄にも伝わってくる。
 願いを書いた絵馬を右手に持ったまま、愛らしい友達をその胸に抱こうとする彼女の背後で、得体の知れない銀色の影が怪しく蠢いた。足元に置かれた懐中電灯が、その影を照らすことはない。
 ずるりと気色の悪い音が聞こえてきそうなその歪な塊は、しかし音もなく彼女の背後に忍び寄る。するすると彼女の背後の影に同化すると、そのまま背中を這い上がっていく。その動きのあまりの速さに、黄は驚きに口を開けることしか出来ない。
『っ!?』
 彼女におぶさる謎の影に、茶々も気付いて足を止める。驚きに見開かれた目は、きっと人間である彼女には判別することは出来ないだろう。危険を伝えるために声を上げる黄の目の前で、彼女と影が同化する。
 銀色の、まるで羽虫の群れに包み込まれたように見えた。激しい銀の色味の隙間から、彼女の姿が途切れ途切れに確認出来る。彼女は立ち竦んででもいるかのように、ただ突っ立っている。その表情は銀色に阻まれ確認することが出来ない。
『な、何なんこれ……』
 茶々が狼狽えた声で黄に振り返るが、黄もこんなものを見たのは初めてだ。驚きに上手く回転しない頭を全力で動かして、この状況の打開策を考える。銀に包まれた彼女からは、悲鳴一つ聞こえない。
 その時、耳障りな羽音が空から降って来た。夜の深くなった闇の中、それよりも更に濃い漆黒を纏った影が三対、その大翼を広げて降り立つ。
『なんや、ヤバいことになっとんな?』
『おい、あん中人間入っとるぞ』
『茶々、もうちょい下がっときや。私らが来たからもう大丈夫やで』
 闇夜の空から現れたのは、茶々と同じく幼馴染である烏の『岩(がん)』『氷(こお)』、そして『雷(らい)』の三羽だった。
 この地に眠る霊的な力の影響か、三羽は産まれた時から特別な存在であった。
 親も知らず、もちろん三羽とも血縁関係があるわけでもない。まるで吸い寄せられるようにこの地に、この境内の神木の“受け皿”に産み落とされたのだ。本殿の傍に聳える一本の大木が、この地を護る神木である。
 三羽のそれぞれの母親は、そのたったひとつの卵を産み落として力尽きていったのだ。それこそ、この地の主に『この子だけはお願いします』と願うかのように。
 その受け皿は主のいない空の巣だった。しかしそれが作られたのはもう何年も前だ。作られてそのままの形をずっと維持している不思議な巣は、特別な三羽のための特別な場所になった。
 三羽はほんの少しの違いはあれど、すくすくと成長し、そして自らの好奇心を満たすためにか人里へとよく遊びに行っていた。もとより烏という種族のため頭の良い三羽ではあったが、その知能はやはり特別であった。
 人語を理解し学習する。そしてその寿命たるや、おそらく人の比ではない。それはまさしくあやかしと呼べるもので、妖狐である黄達と同じように、生命としての食事の必要がないことも共通していた。そして三羽を育み護り抜いたその神木は、まるで役目を果たしたかのように今では枯れてしまっていた。
『茶々……は、ちょっと混乱してんな。黄! 僕らに状況教えてくれ』
 三羽の中の一羽、リーダー格の岩が鋭く言った。彼等の声も人間にはただの鳴き声に聞こえているらしく、岩はそれを実際に人間達の前で試してきた張本人である。烏だけど。
 普段はおちゃらけた態度の岩だが、問題が起こった時の冷静さや判断能力はとても優れている。少々メス好きなのが玉に瑕だが、このメンツで遊ぶ時はいつもまとめ役を務めてくれる頼りになる兄貴分だ。産まれた順番も、三羽の中では一番早い。黄達の方が半年程は早く産まれているが、人間の街へと入り浸っている“社会経験”の差というべきか、この三羽の方がよっぽど大人っぽいので兄貴分は任せてしまっている。
 ちなみに三羽の名前は最初から付いていたわけではない。彼女に名前を付けてもらった二匹が、好奇心旺盛な彼等の『失敗談』から呼び名を考えたのだ。人間である彼女のそばに、烏達はどういうわけか近寄ろうとしなかった。
 岩の名前の由来は綺麗な岩の断面が見たくなり、上空から地面に叩き落して割ろうと考えるも、側溝という手の届かないところに落してしまったことからだ。彼には少しナルシストな部分があると雷がぼやいていたが、どうやら『綺麗なものが好き』という意味らしかった。
『えっと、紬がいつものように来て、それで……気が付いたらあの影が後ろから……』
 黄のつたない説明に岩の目が細められる。金属に目のない烏の習性を具現化したような、その闇夜の中に光を零したような金色の瞳。わかっている。どう考えても説明不足なのは自分だ。
『紬ちゃんまだアレやってんの? よくやるわぁ』
 思案顔の岩の隣で、氷が呆れたような声を上げた。大きく開かれたその瞳は、少しばかり茶々に似ている。柔らかい、穏やかな空を宿したような蒼い瞳。三羽の中で一番身体の大きい氷は、どんな時でも穏やかでマイペースな食いしん坊だ。
 少々気の強い烏二羽と茶々に挟まれて、いつも苦労している彼だが、体格が良い為力が強い。二羽よりよっぽどたくさん食べるのも、きっとその体格を維持するために必要な量なのだろう。少しばかり天才過ぎる岩と違って、黄は氷のことを一番に慕っていた。頼れる兄貴分は岩でも、なんでも話せる兄貴は黄にとっては氷だった。
 ちなみに名前の由来も彼の食欲から来た失敗で、人間達が食べているアイスクリームという甘いお菓子を横取りしたまでは良かったが、運んでいる最中に全て溶けてしまったのだという。足もベタベタになったと珍しく怒っていたのを思い出す。
『もう二年になるんちゃう? 一途な気持ちって凄いなぁ』
 感心したように声を上げるのは三羽の烏のうちの紅一点、雷である。頭の切れる岩が頭脳担当で、身体の大きな氷がパワー担当なら、雷はスピード担当である。唯一のメスである雷は、三羽の中で一番身体が小さく、一番俊敏性に優れていた。
 縦横無尽な空の上はもちろん、茶々以上に負けん気の強い攻撃的な性格からくる抜群の瞬発力が、その機動力を更に後押しするのだ。非常に短気な性格がもったいない程の“美人”烏である。普段も男勝りな口調のため、黄は少し雷のことが苦手だ。
 その名前の由来は、雨の日に道端に落ちていた光ったままの懐中電灯に興味を持ち、嘴で先端を砕いたところ感電してしまったことからきているので、雷は彼女が夜に訪れる時にいつも持ってくる同じ形のそれのことを酷く嫌っていた。
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