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第二章「妖狐」


 あの事件から半年が経った。先月までは狂おしいまでに咲き誇っていた桜達の出番が過ぎて、季節は鬱陶しい梅雨に向かって微かにその準備を進めている。
 随分と大人っぽく成長した紬を見上げ、黄はそのあまりの眩しさに目を細めながら言った。
『また、大きなってんな』
 あの事件の後、何故か紬には二匹と三羽の声が聞き取れるようになっていた。他の動物の声は今まで通り聞こえないようで、紬は「お母さんのおまじない」だと笑っていた。優しい彼女らしいその表現に、黄や茶々だけでなく、あの三羽ですらも穏やかな笑みを浮かべたものだ。
「んー?」
 足元から見上げる黄の視線を追った紬が、一気に顔を赤らめる。
「黄のエッチ! もう立派なオス狐さんやもんな!?」
『えっ! 違うって! 身長やん!』
 彼女は会う度に凄まじいスピードで成長していた。烏達から人間の寿命はだいたい八十年くらいだと聞いていたので、この成長速度がどれだけ早いのかは頭の悪い黄にもわかった。彼女の成長スピードは――何も変わっていなかった。
 紬の対応の意味がわかって、黄も慌てふためきながらそこだけは否定する。そんな時に限って後ろから、じゃじゃ馬娘の足音が聞こえてきた。
『紬ー! 黄ー! もうウチ準備終わってんで! 早く行こうや!』
 今日も元気なじゃじゃ馬娘に飛びつかれ、黄はまた違う意味で慌てふためきそうになる。ドキドキと煩い心音がバレないか、そればかりが不安になる。
『お前らまたイチャついてるんか……』
 見かねたように岩が鳥居の上から降りてきた。それに続く二羽も悪い笑みを湛えている。
『メス狐二匹も揃えてええ身分やなぁ黄はん?』
『アホ、もう紬は人間やねんから。黄には茶々しかおらんもんなー?』
 からかいながら頭上を飛ぶ二羽の烏と戯れながら笑う紬に、黄と茶々も心からの笑顔で彼女の足元に擦り寄った。









 境内に生えた葉っぱを何枚も咥えて、二匹の妖狐が彼女と共に街へと下る。母親の度重なる願いの末に人間となった彼女に手を引かれて、妖狐の二匹は最近、人間の街を探索することを楽しんでいた。
 それは、大空を従えた時の自分達の姿そのもので。その好奇心を咎める程、その三羽は――優しくもなかった。
『この半年で三歳くらいか? えらい速度早いからびっくりしたわ』
 元気に石階段を下りる一人と二匹を鳥居の上から見下ろして、雷は溜め息と共に言葉を吐き出した。その深い緑の瞳には、哀れみの色が浮かんでいる。
『えー、雷そんな細かくよぉわかんなぁ。俺、全然言われてもわからんもん。メスの姿がちょっと変わったくらいで、なんで岩も雷もすぐわかんねん?』
『お前は同じ烏相手でもわかっとらんやろがアホ。それにさっきも言ったけど、あの子はもう“人間”やねんから、メスなんて言い方したら怒られんで』
『氷、もうちょいレディの違いに気付いたらんと、モテへんで』
『へいへい、岩も雷もモテ烏で羨ましいわぁ』
 三羽はケタケタとひとしきり笑うと、すっと真面目な表情でその視線を眼下に戻す。一糸乱れぬその動きに、まるで警戒するかのように、境内に一陣の風が吹き抜ける。
『……あいつらには、いつ言うねん? 母親の“願い”、叶ってへんってこと』
 そう問い掛ける氷の瞳に責めるような光を感じて、岩はそれでも表情を変えることはしない。その岩の態度に氷が不快そうな表情を返すのもわかっている。なので岩はその理由を、氷にも伝えることにした。雷には、話す前から悟られていたので、今の今まで説明すらしていない。
 あの夜、強大なる妖狐の母親は、娘の命を救うために、自らの命を差し出した。命を捧げるその時に、ひとつの願いを神の残り香に願いながら。
 人並の幸せを、母親は娘に願ったのだ。
 その願いを、三羽が踏み躙った。激しい橙色の光に紛れて、烏の頭は号令を掛ける。狐達には『お前らはもう、何も願わんでええ』と伝えながら、烏達は違う願いを神に伝えた。
――どうかあの娘に、そのままの“幸せ”を与えてください。
 それが三羽の願いだった。橙色に紛れたほんの微かな銀色は、烏達“三羽”の願いを叶えた。以前から『けっこう万能やけど、その……家族の絆とか道徳とか、そういうんには疎』くて『どうにも行いが適当』なこの神社の神の残り香は、安直にも願う頭数が多いという理由だけで、烏達の願いを聞き入れた。
『あの子、人間になったやろ?』
『……? もう名実ともに人間やって、雷も岩も言ってたやん』
『……人間にはな、社会ってもんがあるんは、氷ももう理解してるやろ? ただ生きてるだけじゃなかなか“上手く生きられへん”。あの子、“人として生きるためのモノ”を、なんも親から貰えてないねん』
『……人としてって? もしかして寝床? 食いモンの話?』
 キョトンとしてしまった氷に苦笑して、岩は彼にもわかるように説明を続ける。隣で雷は隠しもせずに欠伸をかましている。
『ならまず、寝床からな。どうやらあの親が住んでた家は、他に所有者のいる空き家やったらしい。今までは上手く妖力で人を寄せ付けんように偽装してたみたいやけど、もう隠し通せへん。現にあの子、今家ないって言ってたやろ?』
 氷に説明しながら、岩は大事な部分をほとんど説明することはしなかった。
 他人の家に勝手に住んでいた紬の存在がバレたら、大問題になる。それを悟った岩と雷は、氷が街の餌場に夢中になっている隙に、彼女をあの家から遠ざけるために尽力していたのだ。
 人の姿をしていても、人の生活には溶け込めていない。それが彼女の現状だった。
 当たり前のように人間が経験していく、教育や過程を得ることが出来ないまま、流されるように身体だけが大人になってしまった。教育を受けようにもその身を証明する術もなく、住処すらままならない。このまま大人になっても彼女に待っているのは、辛い現実しか見えなかった。
 そもそもその名前すら、世間に認知されない身元なのだ。人間社会のなかでその問題がとても大きな障害になることを、二羽の烏は飛び回って調べた情報から理解していた。
 穏やかなる彼女の笑顔を、そんなものから守りたい。そう言えば聞こえは良いが、烏達は自らの限界を悟っていたに過ぎない。彼女に人間として生きる権利も与えられず、ただ目まぐるしいスピードで過ぎていく現実を生きることしか与えてやれなかった。今の彼女の仮の住処だって、人の良い老夫婦のお手伝いの傍ら、なんとか住まわせてもらっている現状だ。
 だからこそ――
『ほんまは、僕らのために狙ってたんやけどな……』
 岩はそう言いながら、今はもう焼け焦げた神木の跡に造られた祠――簡単に大きな石を積み上げただけの簡素なものだ――を振り返る。鳥類独特のその動きに、祠の奥でそれがどくんと身を竦めたような気がした。
『あやかしの命に飽きたらこれで死のうなんて、岩ったら後ろ向き過ぎるねん。それより明るい未来のために使ったった方が、きっと……あの母親も嬉しいやろて』
 小柄なメス烏が岩の隣にすっと寄り添った。そのあまりの妖艶な仕草に、思わず岩は顔を背ける。その態度に雷はまたケタケタと笑い、氷が不貞腐れたようにぼやく。
『あーあ、また俺だけ仲間外れや。モテ烏共みんな爆発してまえばええのに』
『デカい図体して心の狭いやっちゃな! 僕が爆発する時はお前も道連れやっ!』





 じゃれ合い始めた兄弟を後目に、雷も静かにその祠を見詰めた。隣で二羽の身体が鳥居から落ちたようだが、それには敢えて反応しない。
 聡明なる兄は、妖狐の妖力の源であるその三本の尻尾を譲り受けた。それは神の残り香すら知らぬ、一匹と三羽の秘め事で。
 均等に三つの命分の妖力がたっぷりと詰まったその尻尾は、神木があったその聖域で、静かにその出番を待っている。
『あんたはいったい、何手先まで読んでるんや?』
 鳥居の下で未だ弟とじゃれ合う兄を見詰めて、雷は静かにそう呟いた。その呟きが兄に聞こえることはなかったようで、人気のない境内にオス烏二羽の大声が響く。
『三羽で揃って死ぬより、三羽で揃ってずっと生きた方が、絶対ええやん! そんなんもわからんって岩ってもしかして、アホ、なん?』
『お前にだけはアホって言われたないわ! 脳みそまで胃袋で出来てるんちゃうか!? ただ僕は、永い時をもし終わらせたくなった時のために、頭数分は揃えとこうと思っただけや』
『なんでっ!? 岩って今すぐ死にたいん!? そういや紬の母さんにもそんなこと言ってたな……色男の顔で』
『しばくぞお前! 僕はな……僕は……』
 じゃれ合う勢いそのままに、岩が氷の上に圧し掛かる。その勢いに氷も思わず抵抗をやめた。途端に真面目な表情になる岩の変わり身の早さは異常で、それが孕む空気もまた異常だ。
――ほんまに、素直ちゃうよな……あのアホ兄貴は。
『……誰かが欠けたら、僕はもう、生きてる意味がない』
 生物のなかで人間だけが許されたもの。それは『危険』を恐れて『対処する』こと。不安な心を原動力に、解決策を考えること。
 その力を三羽も手に入れた。そしてそれは、岩の心に大きな不安を住みつかせた。永い永い時を生きるあやかしも、いつかはきっとお別れがくるから。
『俺は、お前を残して死なんよ。だって、俺……弟やし』
 氷のその言葉には、さすがの岩も噴き出した。くっくと喉の奥で笑いを噛み殺しながら、それでも結局は我慢出来ずに大声で笑い出す。
 雷もその笑い声に釣られて、笑いながら二羽の元に降り立つ。
 兄の屈託のない笑い声は久しぶりで。いつからか、岩は遥か先の別れのことばかり考えていたような気がする。
――いつになるかわからん別れの時のことばかり考えるより、明るい未来を生きることを考えた方がきっと、あいつらにも私らにもええことなんやろな。
 いつか『永い時が欲しい』と言われても、『人間ではなくこの二匹と一緒に、狐として生きたい』と言われても、『一人と二匹で人間として生きたい』と言われても対応出来るように、考えを改めた聡明なる兄は、妖狐の尻尾と神木の残り香を、その祠へと隠したのだった。
『ほんま、素直ちゃうよな』
 メスの烏のその笑い声に、二羽のオス烏は尚も笑い続けていた。









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