第二章「妖狐」
春を迎えた境内を、彼女は穏やかな表情で歩いていた。人がいなくなって久しいこの神社には、彼女以外に人の気配は感じない。
見事に咲き誇った桜の下で、同じく春らしい装いに身を包んだ彼女の姿は、景色の一部に見間違える程華やかだ。
所々ひび割れた石畳に足を取られないように気を付けて、彼女は境内の真ん中まで足を進める。そこまで歩いて彼女は、ようやく辺りを見渡す。
「みんな、お待たせ! やっと仕事が終わってん。これからしばらく休みやから。休みの間はずっと一緒に遊べんで」
焼け落ちた枯れ木に目を向けてから、彼女は明るくそう言った。
その言葉に黄と茶々は元気よく茂みから飛び出した。境内の隅の木々の間から、彼女に向かって一目散に走り飛びつく。
「もう、いっつも黄も茶々も元気やねんから」
『だって、なかなか“シゴト”で紬が来てくれへんから。ウチら待ってたんやで』
『毎日毎日烏達に、後何日したら人間の会社は休みになるんか聞いてたからな。しつこいって雷が最後にはキレとったし』
「ほんまにー? もう、茶々は可愛いんやから。黄にはもったいないくらい!」
紬がそう茶化しながら、飛びついてきた二匹の妖狐を優しく抱き締める。太陽をいっぱい浴びた二匹の匂いを堪能した彼女は、思い出したように空を見上げながら聞いた。
「烏達はどこにおるん?」
その言葉に導かれるように、遥か上空から大きな羽音が響いた。羽音の主は三羽の烏達で、その漆黒の大翼を広げて境内に順に降り立つ。
『僕ら烏を喜んで呼ぶ人間なんて、お前ぐらいやで紬』
『久しぶりやん。今日はどんな餌持って来てくれたん?』
『また腹壊しても知らんで氷。紬、あんまこのアホを甘やかすんはやめてくれ。妹としてのお願いや』
ケタケタと笑う烏達の態度は本当にいつも通りで。まるで半年程前のあの事件等、なにもなかったかのように接している。
あの事件――
あの夜、紬の父親は彼女の母親に食い殺された。極至近距離で狐火に炙られ焼け爛れたその黒焦げの身体は、遠目には本当に枯れ木のようにしか見えなかった。あまりに惨いその光景に、黄は彼女が気を失っていて良かったと、どこか呆然とそんなことを考えていた。
血だまりの中から妖狐が顔を上げる。血肉に彩られたその口元が、酷く不慣れに開かれる。
「……これで、言葉を……話せ、る」
『……今まで黙っとったんは、話す術を知らんかったんか。それで“話せる”旦那を食らって、その術を得たってわけか』
烏が嗤う。その酷く耳障りな声はもう、黄と茶々は聞かないことにした。心を惑わす烏の言葉は、時に残酷な毒となるとわかっているから。
「……私はもう、この世に未練は、ない。娘の成長を見届けたかったけど、それは……この身体ではもうかなわん。人間の社会に溶け込むには、私は……妖力が大きくなり過、ぎた」
『……それを煽ったんは僕らや。僕らの命を親子で使ってくれ』
烏の頭は狐達に真実を告げたように、この妖狐の前でも語っていたのだ。空から視た旦那の裏切りを、自らの存在で証明した。そんな告白に、怒りを抱かないものなどいるはずもなく。
妖狐はその怒りや嫉妬を、烏の思惑通りに大きく大きく成長させた。昂り過ぎたその妖力により、烏が寄り付けない程に。
しかし、妖狐はわかっていた。烏に言われる前からずっと、きっと――願ったものが違った時には、こうなることを予見していたのではないだろうか。
「……あの子は、何も……知らん。あの子がいる時間はずっと、人間の母親を演じてた。父親は寄り付かんかったけど、それでも幸せになれるように、努力した……それやのに、こいつは……」
『中途半端に神の力を貰うもんやから、中途半端なことしか、全てにおいて出来んかったんやな。ま、それがこいつっていうオスの器が知れとるとこなんやろけど』
「娘には、私の命を使って欲しい。もし足りんなら、妖力を溜めた尻尾を使ってくれたら良い。いつか紬に真実を教えた時に、どう生きたいか聞いた時に……その時に使おうと思って、溜めていた妖力やから」
『わかった……黄、茶々もそれでええやろ?』
烏の頭がぐるりとこちらを向く。それに茶々が頷いたので、黄も小さく頷いた。本当に聞かなければならない人間は、地面に横たわったままだ。
『最後に、一個……聞いてもええ?』
隣の茶々が少し躊躇いながらそう問い掛けた。その遠慮がちな小さな声に、巨大な妖狐が優しく微笑む。
『えっと……なんでここに来る途中で、妊婦さんの……死体を食べたん?』
もう随分と昔に感じることだった。彼女の記憶力に黄は恥ずかしながら感心していた。やはり自分の記憶力は乏しい。
「言葉を話せる人の力を……得たかったのと、彼女達の記憶を視て、真実をはっきり自覚したかったからや」
どうやらその死体を食らう計画は、背中に乗せた男が覚醒したせいで未遂に終わったらしい。皮膚を食い破ることには成功したが、その血肉を貪ることが満足に出来ず、そのまま死体を道端に捨て置く形になったらしい。
不完全なままこの地に辿り着いた彼女は、男の言葉に従うことしか出来なかった。娘の腹には神木の枝が差し込まれており、それが一種の人質にすら見えたそうだ。
『あの枝は紬の延命のために差し込んだんやけどな。神木の意識が繋がっとるから、この男は絶対自分の娘は殺さん思ってん。多分今回孕ませんのが失敗しても、また何かに使えるとは思っとったやろし』
「本当に、人でなしね」
『神になろうなんて考えのやつや。おかしい奴に決まってるやろ』
『岩……くっちゃべってんと、そろそろ紬を治したれ』
倒れたままの雷が兄を急かす。倒れた彼女に視線を移すと、確かに治まっていた傷口から、また新たに朱が流れ始めている。
『最後に、なんか……伝えたれよ』
立ち竦んだ妖狐に、氷が呆れたように声を掛けた。その言葉に妖狐は巨大な目を見開き、だがそれは徐々に躊躇うように揺れる。
『あいつにとって、母親はお前や。どんな姿になっても、愛してくれた母親に違いない』
最後に岩が静かに告げて、母親の背中を押してやった。瞳と同じく躊躇いながら、それでも娘の元へと妖狐は大きな足を進める。
「……紬っ」
それはまごうことなき母親の声だった。痛々しい姿を晒す娘を心配し、そして愛する母親の声。愛しい娘のためならば、その身を喜んで差し出せると、その背中はそう告げていた。
ゆらゆらと揺れる三本の尻尾がふわりと橙色に染まる。妖力の高まりをその色に悟り、烏達が半人前の狐達を護るように立った。地面に伏していた二羽も、ふらふらとしながら頭に倣っている。
「ごめんな。弱い母親で。あんたに、父親を引き戻せんかった。せめてこの命で、あんたは幸せになってな……っ」
巨大な頭が倒れ伏す娘の横に落とされる。彼女の閉じた瞳を覗き見るように、妖狐はとても優しい声で“最後の言葉”を伝えていく。彼女の腹から鮮血が噴き出す。最後の時は近い。
「ごめん、ごめん紬っ! 私が、私が言葉を捨てたからっ!」
妖狐の瞳からはもうずっと、大粒の涙が零れていた。止まらない。これは後悔の涙だ。
「話し合う種族に生まれ変わったのに、私達夫婦は話し合いをしなかった。気付いた時には拗れた後で、何も言葉では修復が出来んくなってた。もっと早くに言葉を交わしていたら、何か変わってたんかもしれん」
妖狐は吠えるように泣いた。酷く哀しい遠吠えに、だが境内には緩やかな風が撫でていく。
「あんたは……私達と違って、本来は話せへんはずの子達とも、こんなに仲良くなってたのにな」
そう言って、妖狐は黄達に順番に目をやっていく。その口元には優しい笑みが浮かんでいる。
「可愛らしい妖狐ちゃん達に無意識に惹かれるのはわかるけど、まさか狡猾な闇夜の使者にまで助けてもらうなんて。私には不吉な死神の姿しか見せんかったのに、この色男はいったい娘のことをどう思ってるんやら」
『心配せんでも、僕らはもう子孫は残せんから。安心しいや、奥さん』
「……もう。あんたらがいたら、もう安心やね」
妖狐がすっと目を閉じようとする。事が始まる、静寂が辺り一面を支配する。しかしその空気に、黄は我慢が出来なくなって声を張り上げた。
――みんな、黙って認めてるけど、俺は……っ!
『俺は! 両親が死んでからずっと寂しかった。俺には茶々がいたから我慢出来たけど、紬にはきっと誰もいない。どうにかならへんの? お母さんが死なんでも、なんとかならんの?』
『……それは、僕らに代わりに死ねって言ってんのか?』
烏の口元に悪い笑みが浮かぶ。これは、わかってる。挑発だ。彼は敢えてそう言うことで、黄の気持ちを試している。同じ“親”を亡くした同じ土俵で、どう結論するのかを試している。
「この子のことを、ほんまに案じてくれてるんやね。ありがとう。でもな、私はほんまにこの子を産んだだけで、全然なんも親らしいことが出来てないねん。この子、見た目こそは人間やけど、やっぱりご神木は残り香やったみたいでな……」
神が残した微々たる力は、メス狐を人間の姿へと変えた。その身体に妖力を携えながら、メス狐はその姿のまま、子狐――人間の姿をした子狐を出産した。どこかの病院に掛かることもなく、野生動物そのままにそのお産は行われた。
その為、彼女には人間としての証がなかった。そしてその身体にも、人間としての力はなく。
姿かたちを真似た彼女は、基本的な運動能力も言語能力も人のそれだった。人語を理解し簡単な読み書きも出来る。だが、その成長スピードは狐のそれだった。まだこの世に生まれ落ちて二年程だというのに、その身体にはもう成熟期に近いメスの香りを纏っている。
「人と比べたらほんまに短い命やから、せめて私の命を使って、せめて“人並”の幸せを生きて欲しい」
黄はそこまで言った妖狐を見詰め、その口を閉じることしか出来なかった。それはまさしく黄達の親の考えに他ならないものだったから。自らの命と引き換えに、子に永き幸せを願っている。その行為を否定することは、黄には出来ない。
茶々もまた涙をいっぱいに湛えた瞳で、ゆっくりと光に包まれていく妖狐を見詰めていた。痛々しいまでにその口をぎゅっと噤み、それを見かねたお姉さん烏がその傷付いた大翼で彼女の視界を遮った。
『お前らはもう、何も願わんでええ』
再び溢れかえる橙色に、黄は今度はその瞳を閉じることはしなかった。