第二章「妖狐」
烏の呟きを否定出来るものなど、誰もいなかった。そう、誰も。否定出来ないその心を振り切るように、その爪が振るわれた。
「――っ!?」
驚きに目を丸くする黄と茶々の目の前で、男も同じ顔をしてその身体が衝撃に吹き飛ぶ。
男はべちゃりと黄達の前に叩きつけられ、その枯れ木のように細い手足がでたらめに曲がってしまった。出血こそないものの、その破れた痛んだ皮膚から、銀色の虫のような形をした光が代わりに零れ落ちる。
神木の力を象徴するその銀の光は、男の生命力そのもので。下手に人間の姿をしているせいか、男は曲がってしまった関節のせいか、上手く立ち上がることが出来ないようだ。
「な、何をするんや!? お前の敵はこの烏共やろうがっ! 娘がどうなってもええんか!? 娘を生かしてるんは、ワシの力やぞっ!?」
その擦り切れそうな声帯のどこにそんな力があるのだろうか、それ程までの大声で男は叫ぶ。自らの理想を。オスの本能に支配されたその言葉に、メスの妖狐は鉄槌を下した。
ガルルルルと唸り声を上げる妖狐の声が、黄には確かに聞こえた気がした。
――紬が大事……そうやんな。だって……自分の娘やもんな。
姿かたちが変わっても、愛する娘であることに変わりはなく。むしろその願った姿こそ――娘に生きてもらいたい未来の形そのもので。人の姿はきっと“明るい可能性”の形だから。銀色のあの神の力の前で、“親達”は皆、可能性に掛けたのだ。ただ一人、この男を除いて。子供たちへの可能性を望んだ親達に混じり、この男は更なる力を求めたのだ。
『奥さん……このクソ親父を殺してもたら、娘さんを生かすのに僕の命を使ってください。烏なんて小さい命一羽で足りんかったら、僕ら兄弟の命、三つ全部捧げるんで』
いつもの笑みで岩が言うものだから、黄はその言葉の意味を飲み込むのに時間が掛かった。妖狐の目が微かに揺れる。妖狐の足が男の上半身を押さえ込み、その痛みからか男が叫ぶ。
「お前ら、何勝手に話進めてるねん!! ワシはこんなところでは死なんぞ! 次の世代に命を繋げてからっ――」
『――あやかしや神になってもたら、もう命は繋がらんで』
男の叫びに、メス烏が冷徹に答えた。相変わらず身体は起こせずに、しかしその口元は嗤っている。
『……私らが自ら試したんやから間違いない。これでもお姉さんやからな』
ケタケタと力なく嗤うのは、いったいどういう気持ちからなのか。憂いを帯びるその緑の瞳には、いつものような力はなく。
「……嘘や……ワシはお前らを産んだんやぞ?」
『お前が産んだんちゃうやろ。お前は狐だろうが人型だろうが神木だろうが、その性質はオスのままや。生命を宿し育てる力はお前にはない。野生動物よりも高度な知性を持たされた存在が、野生動物以下の行いをしてみろ。その力を与えた神が、罰せられるのも当たり前やろが』
土気色の顔が強張った。その瞳が縋るように枯れ果てた――神木へと向かう。微々たる力でこの場の“子供たち”を産み出した、神の力の残り香へと。
「この木が枯れたんは……まさかっ」
『昔からここの神は、どうにも行いが適当やったみたいやからな。お前のことが決定打になって、この地の神は本格的に罰せられたんやろ。人間の言うところの“リストラ”ってやつやな』
『クソ親父は見た目は顔色悪い人間やのに、烏の俺らより人間社会のことに疎いんやなぁ』
『この国では人間は――いや、烏ですらも一夫一妻制なんやで? “ホーリツ”に反することをしたら罰せられる。当たり前のことやわなぁ』
人の手から離れて久しいこの神社は、もう数年前から人の気配も神の気配もない――もぬけの殻だった。そう“数年前”からだ。それは即ち、神木に宿りし神が神でなくなった時からだ。
神に仕えし信心深き人々は、この地をそっと人の手から離した。神すらもいないこの土地は、野生動物達のための楽園になった。その主のいない神木に、狐のオスが寄り縋ったのだ。神の力の残り香に、自らの野望を刷り込んだ。
辛うじて残っていた残り香は、狐の罪を増長させ、そしてその罪を擦り付けられし神は罰せられてしまった。
ガルルル……
妖狐の目に涙が溢れる。その涙はいったい、何に向けた涙なのか。不甲斐なき夫への怒りか、それとも腹違いの烏達への憎悪か、それとも倒れ伏す娘への懺悔か、それとも何も止められなかった己への後悔か。
『奥さん……神木に残る神の力は、もうこの目に見える光だけや。早くしな、娘さんを助けられへんくなる』
躊躇うように黄達を見る潤んだ瞳に、岩がそう言ってにっこりと微笑んだ。
――そうだ! このままだと岩達がっ!
ようやく事態を飲み込めた黄が、慌てて声を上げる。
『岩っ! いくら紬を助けるためやからって、そんなんあかん!』
『そうやで岩! もっと、他に方法があるやろ!?』
縋りつく半人前の妖狐二匹に、烏の頭は小さく首を振る。
『これは僕らが、自分の母親の身体を食った時から決めてたことや。こんな捻じ曲がった産まれ方をした存在は、気が付いた時に排除しなあかんねん』
『黄、泣くなや。男の子やろ?』
『茶々、私らがいなくなっても黄と仲良くやるんやで。もう恋の相談なんて聞いてやれへんからな』
烏達は笑う。
強大な力で地面に押さえつけられた男が絶叫する。
半人前の妖狐達が泣き叫ぶ。
強大な妖狐が、唸り声を上げ――その巨体を中心に、幾多の狐火が膨れ上がる。
激しい橙色の爆発の中に、銀色の暖かい光を、黄は確かに見たような気がした。
男の絶叫だけが耳障りに響き、その彼方で烏の嗤いが微かに聞こえたようだった。