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第二章「妖狐」


 長い長い話を終えて、烏の視線が紬に向けられた。
 地面に伏したままの彼女の身体の、出血はすでに止まっていた。腹から突き出た神木の枝が、まるで生命の息吹のように光り輝いている。
『僕らは、この神木(クソ親父)と一緒に、この娘も殺す気やった』
 岩の言葉に、今まで大人しくしていた妖狐が唸り声を上げた。その妖狐の様子に、黄もようやく気付く。
 妖狐は――彼女は正しくメスの狐で。自身の目の前で愛しい旦那の裏切りを突き付けられ、そして愛する娘の痛々しい姿を見せつけられているのだ。それで唸り声を上げていた。黄や茶々に攻撃をしてこなかったのは、きっと――妖狐にとって殺したい程憎いのは、旦那がこさえた腹違いの子供たちに違いなくて。
『紬はっ、何も知らないんやろっ!?』
 彼女との時間は黄達にとって最高の時間だった。楽しい、柔らかい暖かな日々。何か含んだような烏達との時間とはまた違う。別の楽しさ。それはきっと、悪意のない時間そのもので。
 ある夜、黄は紬に聞いたことがあった。いったい何を待っているのかと。すると彼女ははにかみながらこう言った。隣で茶々が『ウチにも! ウチにも!』とぴょこぴょこ跳ねている。もちろん黄達の言葉は彼女には聞こえていない。それでも多分、この時には通じた気がした。ほんの些細な身体の動きで。微かに揺れる瞳の動きで、きっと彼女には伝わったのだ。
「……黄と茶々にだけ教えてあげるな。私な、大事な人待ってるねん。ずっとずっと会ってなくて……ここに来たら会えるような気がしたから、願い事しに毎回ここに来てるねん」
 彼女はそう言いながら手に持っていた絵馬を黄と茶々に見せてくれた。そこには人間の文字でなんだかよくわからないものが書かれていて、それがきっと彼女の言うところの『願い』なのだろうと黄は思った。柔らかい曲線ばかりのその文字達は、酷く頼りなく見えた。
 うろ覚えのその文字を、後からお姉さん烏に覚えている範囲で真似して描いて伝えたが、烏の反応は普段通りの態度だった。
「ワシの娘は何も知らんわ。ワシは姿だけは人間となった娘には知られへんように、ずっとあの家には寄り付かんようにしてた。なんでかわかるか? ワシはな、神のような力を持って、それを次の代に引き継ぎたいんや」
 土気色の顔を上気させ、男はまるで演説でも説くかのように続ける。
「最初の娘は何も力を持っとらん、姿だけは人間の狐の娘や。そんなん、神の力を貰ったワシの娘やない。あやかしになってもうたヨメとは子孫は作れんようになってもたから、まずワシは、手近な鳥類に目を付けた」
『それが僕らの母親やな。神サンは人間と違って空を飛ぶらしいからな』
「そうや。このアホヨメは、力の象徴になんて下品なモンを選ぶんやろな。おかげで最初の娘がただの人間になってもた」
『烏の私らからしたら、よっぽど人間の方がええと思うけど? お前見てたら心底思うわ。“お母さん似で良かったな”って』
『ま、それは俺らもやけどー』
 兄の言葉に、それまで倒れ込んでいた弟と妹が声だけで同意する。まだ先程の狐火のダメージからは回復していないようで、二羽が身体を起こすことはない。
 ケタケタと笑う烏達に、反応したのは妖狐だった。彼女はのそりと歩き出し、男の傍まで歩み寄る。涎がまた、ぼたぼたと地面に零れ落ちる。
「新しい生き物と交わるワシを見て、ヨメの心は次第に壊れてもうた。メスの嫉妬からか、身体がどんどん大きくなって、その妖力まで強まっていった。娘には何一つ寄越さんかったくせに、自分の身にはこんだけの妖力を溜め込んどった」
『それで? 烏で上手いこといったから、今度は人間……ってか?』
 メス烏の瞳が細められる。彼女から聞いたことのない低い声が出て、黄と茶々は思わず彼女を見詰める。相変わらず倒れたまま、それでも彼女は強い視線で男を見据える。
「……神木に身を宿してから、ワシにはわかったことがある。それは下品な人間という種族には神の力を上回る瞬間があるということや。それは、ワシが求めていた強い力に通ずる。それにな、あいつらなら子孫も増やすことが出来る。そう思って、メスを何人か襲ったんやけどな……」
『あかんかったんやろ?』
「あぁ。妖力に馴染まんのやろな。孕ませた途端にその腹から、ワシの妖力ごと飛び出てまうんやわ。何人か試しても結局あかんかったからワシは、最後の手段に出ることにした」
 男の瞳から表情が消えた。先程までの嘲笑うような表情から一転し、その顔にはほんの僅かな――後悔とも取れる色が浮かぶ。
――まさか……
「ワシの妖力が問題ならば、妖力に耐性のあるメスの身体を使えば良い。やからワシは――」
 その光景は、黄も見ていた。銀の光は神の――神木の力だったのだ。
「――実の娘を孕ませた」
『ほんまに……クソ親父やで』
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