第二章「妖狐」
「むかしむかしあるところに二匹の狐がおりました。二匹は仲睦まじい夫婦で、メス狐のお腹には新しい命が宿っておりました」
まるで小さな子供に聞かせるように、不自然な程穏やかな声で男が話し始める。しかしその表情は歪んでおり、その視線の先の烏もまた、同じように嗤っていた。
『むかしむかしやあらへんで。たった三年前なんて、僕らからしたらつい最近やろが』
「……その二匹の狐は迫りくる冬に向けて冬支度を進めておりました。でもその年の冬はとても厳しく、二匹はついに冬を越すことが出来なくなりました」
男は構わず語り続ける。その年は数年に一度の大寒波だったらしく、他の種族達もほとんど食料の備蓄が出来ないでいた。その為野生動物達の間で、どこから伝わったのかも定かではない伝承が口に出される。
境内に妖力が満ちる夜、ひとつの命と引き換えに、そのものの願いが叶うだろう。願いは生への祈りであり、そのものは永き時を生きるあやかしへと転ずる、と。
誰もがそれを笑い飛ばすなか、狐の夫婦はそれを信じた。信じることでしか、その身を護ることが出来なかった。
『ウチらの親と一緒や……』
茶々の言葉に黄も頷く。きっと黄達の両親も、その伝承を聞いて試したに違いない。確かにあの夜の境内は、不思議な気配――今から思えばあれは妖力だった――に満ちていた。
厳しい冬はいとも簡単にたくさんの命を奪ってしまう。野生動物として生きている限り、それから逃れる術はない。それならばせめて子供だけでもそこから逃がしてやりたいと、そう思うのが親心だろう。
『お前らの親とは違う。こいつはほんまのクソ親父や』
「……二匹の狐はその夜に、銀の光に願いました。“自分達にこの冬を越す強い力を与えてください。この身を捨てて冬を越せる、その身体をお与えください”と。そう、茂みの中から願いました」
『……え?』
男は黄達の両親と同じように、あの日あの時願っていた。両親達と違って、自らの命を差し出しもせずに、その身の安全を願っていた。だから烏はクソ親父と呼んだ。そしてその願いは叶えられた。
何も答えないあの妖狐も、きっと同じように願ったのだ。その身に宿る紬という命を守る為かはわからない。だが、その身の安全を妖狐も願った。母体の安全は子供の安全に直結する。その願いは叶えられ、ただの狐は強大な妖力を持つ妖狐となった。
――いったい、誰の命と引き換えに……?
男も妖狐も何も差し出していない。自らの身体もお腹に宿る命も何も、その全てを欲しいままに手に入れた。いったい何を……
『……まさか……』
黄は自らの頭に浮かんだ恐ろしい可能性を、真っ先に自分で否定した。自分よりもよっぽど頭の良い烏に否定してもらいたくて、その金色の瞳に敢えて捕まる。
烏はじっと黄を――黄と茶々の二匹を見ていた。ただ冷静に、優しく包むわけでもなく、冷たく突き放すわけでもなく。ただ真実を告げるために、その口が動く。嘲笑はもう、消えている。
『そうや、黄。お前らの両親の命のうち、どれか二つが……このクソ親父と妖狐のために引き換えになった。ここの神さんはどうやら、けっこう万能やけど、その……家族の絆とか道徳とか、そういうんには疎いみたいでな』
『そんなっ!』
目を見開く茶々の瞳から大粒の涙が零れ落ちる。そんな彼女の前に一歩出て、黄は強く強く男を睨みつけた。
『お前がそんなもん祈らんかったら、俺らの両親は死なんかったんか!?』
「まぁ、そうやろな。四匹の内どの二匹が生き残るかは知らんけど、な」
――そうか……命を一対一で引き換えにするのは変わらんのか……
あの時はあやかしへと転じようとする命が四つあったのだ。だから四匹の命が――黄と茶々の両親が犠牲になった。元より伝承を詳しく知っていなかった両親は、四匹が四匹共命を差し出す気持ちだったに違いない。だからこそここの神はそのまま、その命を流用したに過ぎないのだ。
「そんな暗い顔すんなって。確かにワシらが願ったから親御さんは死んでもたけど、変にどちらかの両親だけ死んでもたりするより良かったやろ? 二匹揃って親がいいひん方が、同じ土俵で仲良ぉしやすいやろ? もしトントンで両方共片親ってのも、親御さん可哀想やしなぁ」
『っ! 何が可哀想やねんっ! 俺らの親はお前のために死にとぉて死んだんちゃうんやぞ!! ふざけんなっ!!』
男が吹っ切れたようにへらへらと話す。そのあまりの内容に、黄は犬歯を剥き出しにして吠えた。今まで両親の死は仕方がないものだと受け取って来た。自分の身のために両親が与えてくれた最後のプレゼントだとすら思って、大事に大事に蓋をしてきた哀しい、だけど大切な思い出だった。
だからどれだけ哀しくても我慢出来たし、同じ境遇の茶々のことは恋愛感情を抜きにしても何よりも大切な存在になっている。そんな大切な“思い出”を。それを、この男は! この男は土足で踏み躙ってくる。
『お前だけやない! そこの妖狐もや!! なんで俺らの親の命取るねん!? お前だって腹ん中に子供のおった母親やろうが! なんで? なんでそれやのに、俺らから親を奪えるねん……』
感情に任せた黄の言葉に、妖狐の唸り声が止まった。ぼたぼたと零れ落ちていた涎が止まり、その粘り気のある水たまりの波紋も止まる。
「そうは言っても、そのおかげで娘の紬が今生きているのも事実やからな。ありがとうさん」
男が悪びれもせずにそう言って、その視線を神木の下――倒れた娘に投げ掛ける。地面にずっと伏したままの彼女は、それでもまだ生きている。神木の枝が腹から飛び出したその姿を改めて見詰め、茶々の口元がきゅっと引き締まった。
『紬は……いつも、いったい何を待ってたん?』
彼女はいつも何かを待っていた。その手に絵馬を握り締め、涙ながらに空を見詰める。黄達はてっきりその姿を、恋の相手でも想っているのだと勘違いしていたが、この出生の秘密からみて、そんな穏やかなものではなさそうだ。
「あの子はいつも――」
『――このクソ親父を探してたんや』
男が笑い、烏が嗤う。
『このクソ親父は力の象徴として人間になった母親を置いて、文字通り蒸発したんやわ。この意味わかるか? こいつの願った存在は、ヨメさんと違ぉて神そのものや。こいつは人として子供を産んだヨメさんのことも、人として産まれた娘のことも放棄して、新たに“神の真似事”を始めたんや』
「お前たちは何もかも、お見通しのようやな」
『クソ親父のせいで、食いたくもない母親の死体を食う羽目になった。どんな気持ちで僕らが自分の母親の腐肉を食ったか、お前にはわからんやろな』
烏の頭がぐるりと動く。鳥類独特のあの動きで、岩は背後に倒れる氷と雷の姿を見やる。表情こそ変わらないものの、その瞳に微かに違う光が宿ったような気がした。
『母親の記憶を継承するんは、ほんまにきつかったわ。まさかお前が、神――神木そのものやとは思わんかったからな』
烏は語る。大空から視た、父親の全てを。その神木から腐り落ちた、今は亡き母親の記憶を。