第二章「妖狐」
烏の頭の目の前で、巨大な妖狐が唸り声を上げる。ぼたぼたと零れる涎に混じって、血肉の匂いが濃厚になる。先程から境内に漂っていた朱の気配が、まるでそこから湧き出しているようだった。
『雷、いつまで寝っ転がっとるねん! 黄と茶々を護れ! 氷! やんぞ!!』
『任せぇ!』
『黄! 茶々! 私の後ろから離れんときや!』
頭の号令に烏達が動き出す。無駄のないその動きで、雷はすぐさま飛び上がると黄達の前でゆっくりと羽ばたき、既に上昇を開始していた氷と共に、岩が妖狐に襲い掛かる。
鋭い鍵爪を怪しく閃かせ、漆黒の大翼が縦横無尽に飛び回る。そのあまりのスピードに、妖狐の巨体はついていけていないように見える。
『躾のなってないメス狐に、お仕置きの時間やで!』
怪しい魅力を孕んだ岩の声に、空間全体の時が止まったような錯覚を覚える。色気に満ちた彼の声は、妖狐の意識すらも惹き付ける
ブン、と空間を切り裂く音が響く。にやりと悪い笑みを浮かべる岩の足には、引きちぎられた妖狐の右前足がぶら下がっていて。
『岩ばっか美味しいとことるん、かなわんな!』
続いて更に大きな音を立てて、氷が今度は左後ろ足を引き裂く。慌てて妖狐が後ずさったので、氷の攻撃はそこを引きちぎるまでには至らなかった。急にバランスをとることが難しくなった身体で、それでも妖狐は自在に空を舞う二羽に襲い掛かる。
妖狐の攻撃は――痛みでもあるのだろうか――単調で、二羽はまるでそれらを煽るようにひらひらと躱す。妖狐の紅い瞳が鋭くなる。その開いた口から涎だけでなく、苛立ちからの唸り声が零れる。
攻撃の合間を縫って岩が反撃に出る。とんでもないスピードで飛翔する彼の姿に、恐れと言う単語はないようで。深い知識と経験からくる完璧なる計算が、彼の――いや、彼等の心から恐れというものを排除する。
彼の狙いは妖狐の妖力の源である尻尾のようだ。三本出ているその実体に乏しい揺らめきに向かい、岩は鍵爪を閃かせる。
ギイィィン――
まるで何かが割れるような、独特な甲高い音が響き、岩と妖狐の間の空間が揺らぐ。
『結界か! 腹立つやっちゃで!』
黄の目の前で雷が吠えるように吐き捨てた。
力の強いあやかしは結界という護りの力を使えるという。己の守護する場所であったり、己自身であったりその使用範囲は様々ながら、その使用目的は『そのモノを護る』以外の何物でもない。
一つに特化した力程、この世に強いものはなく。結界を破る方法は、同等の力の妖力でその結界を破る以外にないと黄は聞いていた。それももちろん烏達にだ。
『雷! こいつの力の源を引き摺り出せ!』
上空から岩の指令が飛ぶ。それに雷はにやりと笑う。
『了解や。黄、茶々。ちょっと耳貸し』
そう言いながら雷は大きく羽ばたいた。耳障りな羽音が、どういうわけか聞こえない。無音の羽ばたきで中空に浮かぶ。
『これから私らであの妖狐に“隙”を作る。その合間にあんたら二匹で、あいつの影に隠れてるクソ親父を引き摺り出して欲しいねん』
――それは、どうやって……?
黄はその疑問を口に出すことが出来なかった。“何か”を決意した彼女の表情には、一分の“隙”も見つからなくて。
彼女の視線のその先に、引き摺り出すべき対象の姿が見えた。
紬の家で見たあの男が、酷く痛んだ姿でその足元に蹲っていた。長く伸びた四肢の扱いに困るかのように、不安を一緒にその身体ごと抱き抱えているように見える。
その男をまるで護るかのように、妖狐は先程からその位置からほとんど動かないでいるようだ。だから先程の攻撃も、少し後ずさっただけだったのか。
黄は隣の茶々に視線を送る。すると彼女もわかっていたようで、少し不安げに雷を見上げて――その鋭い視線に咎められて、それから諦めたように黄に小さく頷いてくれた。
『頼んだで、黄。あんたが茶々を護りや』
そう言って傷だらけの大翼を広げ、雷がばさりと高度を上げる。その言葉に思わず黄が彼女に向かって言葉を投げ掛けようとするも、それすらも酷く耳障りな羽音に拒絶された。何も話させはしないと、彼女の緑の瞳がこちらに向けられている。
――いなくなろうとしてるんやないの?
黄の想像をなぞるように、雷が妖狐の前に躍り出る。飛び出してきた烏に狙いをつけて、妖狐は残った左前脚を素早く振るう。
器用に後ろ脚で立ち上がったその姿は、まさに妖狐と呼ぶに相応しい禍々しさで。その足元で男は悲鳴すら上げることがなかった。
びゅんと空気を震わせて、巨大な爪が雷に迫る。その大振りな攻撃を難なく避けたメス烏は、素早く背面に回り込むとゆらゆらと揺らめく尻尾の一本目掛けて攻撃を仕掛ける。
再度あの甲高い音が響いて、雷の身体が弾き飛ばされた。痛々しい音を立てて地面に叩きつけられた彼女の身体から、鮮血が飛び散り周囲の灰色を朱に染める。
『雷っ!』
茶々の叫びが羽音に掻き消される。ばさりと大きな黒い羽根が上空から舞い落ち、その羽根の主である氷が妖狐の注意を引き付けるために敢えて高度を下げる。
『茶々、雷も氷も注意を引いてくれてる。俺らが目立ったらあかん』
烏達はどうやらその羽音をコントロール出来るのだろう。思えばこれまでもおかしなタイミングで羽音が響くことがあった。その不吉で耳障りな羽音を自在に奏で、“妖狐”を欺き、そして嗤う。
『でも雷が……』
今にも駆け出しそうな茶々の身体を押さえ、黄も彼女の視線の先――地に堕ちたメス烏を案じて視界に入れる。
雷は叩きつけられたままの体勢で、地面にぐったりと倒れている。傷だらけだった身体の所々から出血していて、赤と黒のどす黒いグラデーションを闇夜に浮かび上がらせていた。
小柄な身体は時たまびくりと震えていて、生きてはいるがもしかしたら意識が朦朧としているのかもしれない。
雷の動きを止める一撃を放った妖狐は、今は新しく躍り出た氷の相手に躍起になっているようで、地に堕ちた彼女への追撃は免れていた。それもおそらく烏の計算だ。
『早く、俺らは俺らが出来ることをやろ』
黄が愛くるしい大きな瞳を覗き込みながらそう言うと、茶々は雷のことを心配そうに少し眺めた後、決意を固めたようにうんと頷く。
『雷もまだ死んでない。だから大丈夫や』
自分に言い聞かせるために言う黄に、茶々も何度も小さく頷く。
黄は妖狐の足元に視線を走らせる。氷を追ってか徐々にだが、妖狐の位置が前にずれていた。ゆらゆらと揺れる三本の尾っぽから少し離れた位置に、男がぽつりと蹲っている。男は先程から何も変わっていない。何も変わらず、痛んだ身体を抱いている。
妖狐の意識は完全に氷一羽に絞られている。周りを飛び回る氷に躍起で、その更に外周を観察するように飛び回る頭に気付いていないようだった。妖力は高くても、知性自体は低いのかもしれない。そういえば、人語を話す素振りもなかった。
黄はもう一度男に目をやる。距離としてはそこまで遠くはない。もう変化も出来ない黄と茶々だが、あの枯れ木のように細い男一人くらいなら、二匹がかりで咥えて引っ張れば引き摺ることくらいは出来そうだ。石畳の上で少し痛いかもしれないが、それぐらいは我慢してもらいたい。彼には聞きたいことがたくさんある。
後は――結界をどうにかするだけだ。
その時、妖狐の身体がぐにゃりと歪んだ。涎ばかりを垂れ流すその大きな口がぐっと閉じられ、今度はその奥底から重苦しいまでの妖力の気配を垂れ流す。それを見た岩が、珍しく慌てて叫ぶ。
『まずい! 狐火や! 伏せろ!』
ぎらりと光る牙の隙間から、怪しく燃え盛る炎が漏れ出す。赤に紫にと色合いを変えて、その炎はぼとりぼとりとその口から流れ落ち、そのまま妖狐の周りを踊るように舞う。人間達の造り上げた人工物の光とは違う、怪しくも魅入ってしまいそうなその美しい炎は、紛れもなく妖力からくる意思のある悪意で。
色とりどりの無数の炎が、辺り一面に飛び散った。まるで妖狐を中心に爆発でも起こったかのような勢いで、辺り一面を悪意の炎で覆い尽くす。
『茶々っ!』
黄は反射的に茶々の身体に覆いかぶさる。目が焼かれる程の衝撃にぎゅっと目を瞑ってしまう。爆風の時がしばらく続き、しかしその衝撃は不思議と感じなかった。
恐る恐る目を開けると、目の前には黒い影。