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第一章「狐と烏」


『えっと……もしかして違った?』
『……うん』
 顔は赤いまま、茶々が申し訳なさそうに頷いた。その途端、黄も自分の顔面に灼熱にも似た熱さを感じて俯いた。二匹共、足元を向いて、それでも足は止めていない。その点は褒めて欲しい。
『……ウチも、好き』
 小さく小さく呟かれたその言葉に、黄は思わず茶々に目をやった。ばっと音がするくらいの勢いに、茶々が噴き出す。
『もう……いつもはこんなに頼りないのに、あんな風に護ってくれるんやもん。やっぱ男の子やもんな』
 紬の家でのことだろうか。黄としては当たり前のことをしただけなので、そんなに胸を張れるものでもない。小さな愛しい彼女の前に出るのは、オスである自分の役割なのだから。
『いつもは頼りなくてすんませんなぁほんまに』
『ええって、黄はんのアホ。そんなんやから岩達に笑われるんやで……っ』
 ついつい“いつものように”烏達の名前を告げて、彼女は心の痛みにその足を止める。黄の心にも確かに走った、チクリとしたその痛みは、微かに、それでも確実に二匹の歩みを止めるのだ。
 いつもは頼りない幼馴染の姿に心惹かれ、そしていつも惹かれていた烏の企みに恐怖する。いつものようには、もう、出来ない。
『茶々……岩のこと、好きやろ?』
 過去形でもなく曖昧でもない。動かざる事実を、今聞いた。多分、今聞くべきことではないと、あのモテ烏なら笑うだろうが、黄には今この時こそが重要だと思えてならなかった。
『……妖狐が烏になんて、アホみたいやろ?』
 本来野生動物が種族の違うものと交配を図ろうとすることはほとんどない。それこそあったとしても似通った種族に限ったことである。狐と烏はそもそも分類が違う。だが、あやかしとして永きを生きる黄達は別だ。
 種族としての存続を断たれたあやかしという存在に、種族の違いというものはさほど大きな障害にはなり得ない。それは彼女だってわかっているはずだ。だが、そういった“言い訳”を考えてしまう程に、あの烏達の絆は強すぎるのだ。
『……そう思って、俺のこと好きになろうとしてる、とかじゃないよな?』
『それは違う! 黄のことはきっと、ずっと好きやった。岩への憧れでわからんかっただけで、多分寄り添えるのは黄だけやって、心のどっかではわかってた』
 そう言って、すっと茶々がこちらを見据えた。その愛しい瞳には、普段の愛らしさの代わりに強い決意を感じさせる。その瞳を受け止めるために、黄も彼女に視線を合わせる。
 見つめ合う二匹の間を、ふわりと香る風が吹き抜けた。境内から降りてきたその風は、まさしく血肉の香りを孕んでいて。その禍々しさに野生動物は鳴りを潜め、深紅に燃える木々達ですらその身を縮めるように揺れていた。
『茶々、何があっても俺が護るから』
『……ウチかて、黄のこと護るもん』
 こんな時までじゃじゃ馬娘な茶々のことが、こんなにも愛おしい。二匹は鼻と鼻を合わせて、確かに愛情を伝え合う。
 それは儀式だった。お互いをお互いに大事に護り合うための、心と心を繋ぐ儀式。あやかしの力の源は妖力。そして妖力とは、信仰心や他者への強き気持ちであった。強き気持ちが土地に縛り付けられて、一つの命を捧げてあやかしは産まれる。
 朱に濁った風が駆け抜ける。決して目視することの出来ないその朱を、二匹の鼻は嗅ぎ当てる。二匹はその匂いに意を決してどちらともなく離れると、その顔をまだ遠い遥か上――境内の入り口を飾る深紅の鳥居に向ける。ざわりと、枝葉が不気味に軋む。
『上からの……凄い匂いやな』
『雷、酷い怪我してた……みんな大丈夫やろか……』
 明らかな血の匂いは、あやかしである三羽のものだ。実体を持つあやかしである黄や岩達は、紛れもない血肉でその身体を動かしている。完全なるあやかしはその実体を持たないとされているが、そこまで至るにはまだまだ数千年と必要だろう。
 身体の悲鳴を一切無視して飛び立ったメス烏の瞳には、いつも浮かんでいる余裕はなかった。その代わりに宿した研ぎ澄まされた敵意と妖艶さ。胡散臭い漆黒の大翼が、今はなんとも心細く感じる。
『……』
『……どうした?』
 こちらをじとっと見詰め黙る茶々に、黄は嫌な予感がしながらも問い掛けた。
『んー、別にー?』
 わざとらしくそうおちゃらける茶々を軽く小突くと、彼女は少しばかり諦めたような、拗ねたような顔をして白状した。
『……黄かて、雷のこと好きやったんちゃう?』
『へ? 俺が雷を?』
『うん。だってあんだけ綺麗なお姉さんやもん。中身はちょっと……おっかないけど』
 思いもよらなかった言葉に、そう答えることしか出来なかった。おっかないお姉さん烏という点には大いに同意するが、黄としてはあのメス烏のことは異性として見ることはなかった。というか多分、妖艶過ぎてそう見るのが怖かったという方が正しい。
『俺はずっと、茶々しかメスって見てなかった』
 心からの言葉は、ほんの少しも飾れなくて。情熱的でもロマンチックでも何でもない。だけど、本心だけがそこにある。
『……そんなとこも黄らしくて好きやわ』
 その本心は曲がることもなく彼女に伝わって。彼女の花の咲いたような優しい笑顔が、黄の原動力になるような気がした。
 照れくさいからその言葉への返事は鼻を擦り合わせる行為に代えて。黄は一歩、石階段を上る。
『行くで、茶々』
『うん』
 本当はずっとこうしていたかった。でもそれを許さない程に血生臭い風が、もうここまで降りて来ている。冬の近くなったその冷たさとはまた違う。心臓を直接掴み取るようなその冷たさは、確かに境内から流れて来ている。
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