第一章「狐と烏」
息を切らして二匹は、参道である石階段を駆け上がる。整備のされていないほとんど獣道と化しているその参道は、今では文字通り動植物のための道だった。植物はその道に沿うように枝葉を伸ばし、砕かれて久しい石階段の隙間からは逞しい雑草達が顔を出す。
少しばかり粗削りな石階段は野生動物達の通り道に使用され、その粗い表面のせいで小さな傷が肉球に出来ることも日常茶飯事だ。幼い頃はその急に来る鋭い痛みと出血に驚いて泣き喚いた黄も、今ではちゃんと尖がっている部分を全て把握し、そこを避けて走ることが出来る。
『急いでったって、羽根がある烏と比べるなんて酷過ぎるわっ!』
誰に対してのツッコミでもないが、そう叫ばずにはいられない黄を後目に、隣を同じく駆ける茶々の表情は暗い。この表情を吹き飛ばせたら万々歳だったのに、黄としては当てが外れた。
『……紬って、人間やんな?』
茶々が酷く自信なさげに呟いた。その気持ちは黄にもよくわかる。いや、黄にしかわかり得ないものだった。
二匹は彼女以外の人間を見たことがない。だから彼女から流れるその匂いが即ち、人間の匂いだと思い込んでいたのである。人間達の街を歩いて初めてわかったのは、雑多な匂いが多すぎて、どれが人間の匂いかわからなくなったということだ。
夕飯時の美味しそうなご飯の匂いに、臓腑が零れた極上の匂い、そしてなんだか鼻がつんとしてしまう薬草のようなきつい匂い。それらは全て別の匂いで、そのどれもが人間から発せられた匂いだった。
『あの、警察官と紬は全然違う匂いやったもんな』
結局街を歩いて実際に遭遇した人間は、あの車の中の人間だけだ。道端で転がっていた死体からは、人間というよりはあの妖狐の匂いの方が強かった。鼻がおかしくなりそうな、極上の香りが邪魔をするのだ。
『ウチ、あのオジサンの手元見てたけど、なんかよくわからん白い棒からあのきつい匂いが出ててん。だからあの人の匂いっていうよりは、その棒からの匂いやと思う』
『……わざわざあんな匂いの棒持ってるなんて、人間ってよくわからんな』
匂いの出所が人間からではなかったのは意外だが、とにかくやっぱり情報不足なことには変わりなかった。
二匹で並んで石階段を駆け上がりながら、揃いも揃って浮かない表情。
『ほんま、雷達って秘密主義っ!』
そんな空気についに嫌気が差したのか、じゃじゃ馬娘が口を尖がらせながら言った。その言葉に、黄は心から救われる。
『ほんまにあの三羽って、俺らに隠れてコソコソするん好きやもんな』
これまでもそんなことは時たまあった。幼き妖狐よりもよっぽど頭の回るあの三羽のあやかしは、頻繁に連れ立って人間達の街に遊びに行き、時たま神社の本殿の中を引っ掻き回し、年に数度サプライズだと称して黄や茶々の誕生日を祝い、そしてあの夜――実の母親の死肉を食らっていた。
常に三羽で行動する彼等の絆は本物であり、そこには黄も茶々も入り込むことは出来ないのだ。
『……どうやら黄はんも、ウチに内緒のことがあったみたいやけど?』
『え? な、何が?』
『しらばっくれてもあかんで! 雷が言ってたん、ウチかて聞いてたんやからな!』
――雷が言ってた? いったい何やねん?
こんな時でも回転が悪い自身の頭に腹が立ちながら、黄はそれでも一生懸命に考える。雷が言ってたこと……紬が人間ってこと。あのオッサンが人間じゃないこと……いや、違う。なんか、そんな感じじゃない。
時間稼ぎに何か言おうと隣に目をやり、黄はその選択肢が間違いだったことに気付く。
愛らしい幼馴染のじゃじゃ馬娘が、潤んだ瞳で黄を見ていた。駆ける足はそのままに、その大きな瞳に視線も思考も占領される。
雷が言ってたこと……更に上手く回らなくなった頭で再度考える。なんだかいつかも感じた違和感が過るが、その正体を追い掛けようとして、唐突に彼女の答えが頭に蘇った。
――『黄、あんた茶々のことが好きなんやろ?』
そうだ。きっとこの言葉が茶々に聞こえてしまっていたのだ。一瞬感じた違和感等一気に吹き飛んだ黄は、だが、今度は恥ずかしさに茶々のことを直視出来なくなってしまう。
『もう、男らしく自分で言いや』
目を逸らす黄を茶々が急かす。その瞳の誘惑に捕まり、渋々黄は彼女と目と目を合わせて一度大きく深呼吸をした。走りながらなので、胸が痛い。
『……俺は茶々のことが……す、好きや』
『……へ?』
一世一代の告白に、茶々の返事はなんとも間の抜けたものだった。驚きに目を見開いた彼女の瞳は、より一層愛らしい。だが、その顔がみるみる赤く染められる。紅に染まる道中の枝葉と合わさり、頬に紅を差したメスの妖狐の姿はとても艶やかに感じられる。
『ちゃ、茶々が言えって言うから言ったんやん。なにもそんな顔せんでも……』
『だ、だって……いきなり黄がそんなこと言うんやもん……びっくり、するやん……』
先程とは違う意味で顔を逸らす黄に、あわあわと落ち着かない様子の茶々が、そう言い訳のように言う。ごにょごにょとその言葉尻は消え入りそうなぐらい小さくなってしまっていた。
なんだか嫌な予感……