第一章「狐と烏」
烏は雑食の鳥類で、特に腐肉はご馳走である。いつか腐りかけが美味いという人間の言葉には大いに同意すると、彼女自身が笑っていた。
『私らは、神木の枯れ枝にあるあの巣で、この生を受けた』
雷達が産まれたのは神社の境内にある一本の大木――神木の上の巣だった。今でこそ枯れてしまっているが、数年前までは青々とした葉が本殿に優しい影を落としていた。
太い幹には永い営みを感じさせ、その近くにはなんだか穏やかな空気が漂っていたものだ。そんな神の加護を受けた場所で、あやかしの三羽は産まれたのだ。
最初に岩が、氷が、そして雷が。順番に産み付けられ、そして順番に産まれた。つまり三羽の親は別々で、その巣は昔からあったものだった。
『あの巣……岩の母さんが来た時にはもうあったんやって。まるで最初から“用意してある”みたいに綺麗に置いてあったらしいわ』
烏は一夫一妻制の子育てだ。だが三羽の母親は、父親のことを子供に告げる前に力尽きてしまう。それこそ卵を産んだ途端に息を引き取ったようだった。そして不思議な加護に護られた三羽は、親のぬくもりすら必要なくその硬い殻を破り産まれた。
『いくら私らがあやかしやと言っても、さすがに母親と父親はおるやろ。ずっとそれが気になってた私らは、ある夜、それを解決することにした』
メス烏の視線が黄に突き刺さる。その鋭い圧力の意味を、黄は唐突に理解する。きっと、あの夜のことだ。烏達は気付いていたのだ。あの夜、腐肉をつつく彼等を見詰める妖狐の姿を。
雷がふわりと、黄の目の前まで歩み出る。大翼を広げて舞うように歩く彼女は、狐の黄から見ても美しく、妖艶だ。愛らしい茶々とはまた違う、成熟した圧力だ。
『そうや。あの夜は確か……氷の母親やったかな。亡くなってから月日は経ってたけど、ちゃんと埋葬されてたから……なかなか美味かったわ』
――埋葬……?
血肉の思い出にぎらりと光る雷の瞳より、その言葉が黄の頭に引っ掛かる。埋葬とは土の中に生き物の亡骸を埋める行為だと、目の前の烏達が言っていた。土に埋めたら物の腐りが遅くなるのも、経験から知っている。
だがあの境内の中に、わざわざ烏の死体を埋めるような物好きはいないはずだ。いくら香しい香りに惹かれようと、食らい尽くしはしても丁寧に埋葬するような野生動物はいない。
死者を弔うのは知性のある人間のなせることで、信仰等の存在しない野生動物にそんな風習は存在しない。彼等にとって、死とは永遠の別れでしかないのだ。
その理を、乱した。誰が? 烏が?
『人間共に伝わる私ら烏の伝説、教えたるわ。烏は同胞の死骸を食って、その血肉全てを自分の糧にする。そこまでは自然の摂理やわな。伝説はそこからなんやけど……』
『……嘘やん、雷も……岩も、親や仲間を食べてるっていうん?』
『おいおい、大事な話の腰を折んなや。茶々かて、その可愛らしいお口で腐肉食べたことあるん、お姉さんは知ってるで?』
メス烏が顔を歪めて笑う。くっくと喉の奥から響くその笑いが、酷く不気味で悍ましい。目の前のメス烏からずっと感じる妖艶さは、ゾクリとする恐怖感と鏡映しのようだった。
『私ら烏が糧とするんは、血肉だけやのおて、その生物の記憶もや。ほんまに、全てを己の糧に出来る。こればっかりはあやかしの私らだけかもしれんけどな』
夜を支配する漆黒の大翼が猛々しく広げられ、その圧に思わず黄は数歩後ずさる。目の前の幼馴染が、別の生き物のように見えてならない。そんな彼女の凍てつく視線に、茶々はぶるぶると震えながらも声を張り上げる。
『ウチは……確かに黄と腐った肉を食べたことがある。でもそれは! 生きるために仕方なく食べたんや! 冬の寒さを越える妖力を蓄えるために、望んで食べてた訳やないもん!』
『そんなもん、食べた事実に違いはないやろ。言い訳ばっか並べるなんて、えらい人間臭い妖狐になってもて……あの“人間のメス”のせいやな』
『っ! 紬のこと!? 紬のことそんな風に呼ばんといて!!』
そう吐き捨てるようにして神社の方角を睨む雷に、茶々が目を見開いて叫ぶ。幼馴染の烏と同じくらい、黄や茶々にとって紬は大事な存在だった。そこにあやかしや人間という区分なんてない。幼馴染で親友という事実だけで充分だった。
『雷……雷達は人間が嫌いなん? それとも……紬が嫌いなん?』
『……』
黄の問い掛けに烏は答えない。その鋭い瞳が首ごとこちらにぐりんと向いて、薄く開いた嘴からは嘲笑が零れた。
『紬は……人間やない。知ってたんやろ?』
紬の両親が住む家には、およそ人間とは思えない土気色をした人の見た目をした存在と、禍々しい妖力を放つ巨大な妖狐が住んでいた。それは即ち、彼女も人間の姿をした何かということに他ならない。だが――
『妖狐の鼻まで曲がってもうたんかいな黄はん? あの人間のメスは人間のメスやって、さっきから言ってるやろに。頭悪いやっちゃな』
カーっとひと際大きな声で笑いだす烏に、黄は頭が混乱しているのが自分でもわかった。烏の言葉に惑わされてはいけないと思いつつも、それでも頭では烏の言葉は正しいとも感じてしまう。それは、幼馴染故の絆なのだろうか。挑発とも取れる暴言は、いつものことなので気にもならない。
『でも! あのオジサン、人間の匂いなんてせんかったで!?』
『せやろな……あんな薄気味悪い人間がおったら、あやかしの方が逃げていくわ』
『それならやっぱり、紬は……っ!』
カーカー。
涙ながらに振り絞った茶々の声は、遠くから聞こえる烏の声に掻き消された。声量があるわけではないその鳴き声は、不気味な程に耳に馴染む。すとんと頭に降ってきたその声に、雷は言葉もなく飛び上がる。言葉を遮られた茶々ですら、思わずその声の方向に目をやってしまっていた。
その方向――神社からは、もう鳴き声は聞こえない。それでもさっき聞こえたその声だけで、小柄な一羽はその意味を理解していた。彼等の鳴き声が何を意味するのか、それは黄達にはわからなかった。三羽の鳴き声は普段の話し言葉とは異なり、一種の暗号のように電信される。彼等が意図しない限り、黄達にその内容が露見することはなかった。
『待って! 雷!!』
『あかん。いくら茶々の頼みでも待てん。岩が呼んどる』
バサバサと耳障りな羽音をたてながら雷が神社に向かって飛んでいく。そして速度はそのままに振り向き様に言い残す。
『急いで来たら間に合うかもな? でも、その時にはあんたらの知ってる烏達はもういないかもしれんで』