第一章「狐と烏」
狩りには烏達が混ざることもあった。獲物を鋭い鍵爪で拘束し、遥か彼方へ連れ去るその姿には、思わず背筋がぞくりとした程だ。黒き大翼の死神がそこにはいた。烏達に至っては狩りだけでなく死肉まで貪る。
以前、一度夜中にその行為を、黄は目撃したのだ。その光景が一生頭から離れることはないだろうと思い、不安と恐怖から心の奥底に蓋をしていた。醜いものを見たくないのは、そこに恐怖が混ざっていたからか。
そこは三羽の帰るべき巣穴だった。今は枯れ果ててしまった神木の下で、三羽はいつものように群れていた。その中央に腐った肉の塊がごろんと転がっている。皮は烏達によって綺麗に剥がれたのか、じゅくじゅくとしたくすんだ桃色の肉が露出していた。壊死が始まっている独特の鼻につく匂いが漂っている。
茶々は寝床で眠っている。境内の隅の木々の中に隠された二匹の寝床だ。黄も用を足してすぐに戻ろうと思っていたのに。彼女が眠っていて心底助かったと黄は安堵した。彼女にこんな光景を見せたらきっと、三羽のことを怖がるに違いなかった。それ程までに貪欲に、一心不乱に三羽は、その腐肉を食らっていた。
深い闇に金と蒼と緑の目が爛々と輝く。どす黒い血に汚れた嘴が、その隙間から肉の欠片を零す様を、黄は息を潜めて眺めていた。まるで現実味を帯びないその光景に、何かの儀式めいた美しさすら感じていた。
三羽に表情はなく、ただその瞳だけが輝く。もとより鳥類である彼等は表情というものが読みにくい。それでも彼等は幼馴染で、長年一緒に過ごした親友だ。その年月はかけがえのないもので、彼等の表情の変化等、黄や茶々にもお見通し……のはずだったのに。
未だに思い出すとぞくりと怖気が走る。それは彼等の種族から来る残虐さか、それとも他の追随を許さない頭脳か、それとも一糸乱れぬ冷徹なる統率か。
『……岩達が何か企んでるってことは、ないよな?』
思わず零れた弱音で、本音だった。口から出して、ようやく気付く。隣で大きな瞳がより一層見開かれる。それは決して、決して零してはいけない弱音で、本音。
『……そんなん、ウチに聞かんといてや』
小さく小さく告げられる。否定でもなく、信頼でもなく。ただ、わからないという言葉だ。不安を振り切るように走っていたのに、その負なる気持ちはこうも容易く二匹に追いつき、そして煽る。
賢い烏。彼等は自分達の出来ることと出来ないことの区別がついている。人のように器用に物を扱う指先も、狐のように他者を攻撃する牙も俊敏性も持ち合わせない。だからこそ、妖狐の家の元に黄達を送り届けたのではないか?
彼等は持ち合わせていない。だが、大空を舞う大翼は持っている。その鋭い眼光が、地上の全てを視通している。
『……なぁ、おかしない?』
『岩も氷も雷も、今日は皆おかしいわ』
はぁっと溜め息をつく茶々を、黄は真面目な表情のまま見詰める。
そう、放り出された。烏達に。放り出されて転がって、通り過ぎた。この一本道を。
『そうやなくて……あの死体、どこいったんや?』
黄のその言葉に、茶々の足が止まる。その瞳は不安げにまわりに向けられ、そして遥か後方を振り返る。そこにあるはずのものを探して、何もなかったと記憶が告げる。
ざわりと、不快な風が駆け巡る。その冷たさのなかに何かの異臭でも嗅ぎ分けられないかと鼻を動かすも、まるでそんなものなどなかったかのように、ただその風は吹き抜けるのみ。
『もっと、先……やったっけ?』
『多分、違う。もう、通り過ぎとるはずや。せやのに……』
無残に腹を裂かれた死体が、この道にはなかった。真っ直ぐ一直線に走って来たその道のりは、全体で言うところの半分を過ぎている。
烏達に放り出されてしばらく走ってからの位置だったのだから、感覚的にはもう通り過ぎているはずだ。それなのに、この道には死体はおろか、ぶちまけられた血の跡すらも残されていなかった。
『さっきすれ違った、警察官の人らが片づけたんちゃう?』
少し震えた声で、茶々がまるで縋るように言う。その瞳に広がる恐れの色に、黄は寄り添ってやることが出来ない。優しい嘘をつくだけの、心の余裕が黄にもないのだ。あるのは、緊迫感と烏達への疑心だけだ。
『……まさか、食べたんか?』
口に出してはいけない言葉を、黄はまた出している自覚があった。それは自分の中に押しとどめておく、自分だけの秘密のはずだったのに。
『……まさか、雷と氷が食べたって言いたいん!?』
目だけでなく牙も剥いて、茶々が黄に迫った。黄に覆いかぶさって、その鋭い歯をぎらりと見せる。しかしその瞳は、不安げに揺れたままだ。
『あいつらは烏や。死肉が一番のご馳走なんは知ってるやろ』
『せやけど! あの二羽はずっと上におったやん』
『俺らがあの家に入ってる間ははっきりわからんやん』
『でも! 血も残さんと綺麗にはさすがに食べれへんやろ……』
敢えて黄は触れなかった。食べたかもしれないと思いながら言い合って、敢えてそこには触れなかった。どうして食べたのかとは。そこを茶々は理解しているのかはわからないが、彼女はそもそも、仲良しの烏達が人間の死肉を漁ったかもしれないというところに衝撃を受けているようだった。
頼りになるお姉さんに、少し間抜けなお兄ちゃんだ。そんな存在があんな惨たらしい現場に降り立ち、血肉を貪っていたなんて、考えたくもないに違いない。
『さすがに血は残るよな……なら』
――それならいったいなんやねん?
黄の疑問に答えるものはいなかったが、それとは別に違う問題を孕む音が遠くから聞こえてきた。
ウーウーとなるその甲高い音は、確か――
『向こうにもまた死体があるんやろか?』
『わからんけど、この音はさっきの警察官の音やな』
目指すべき一本道のその先から、甲高い音は聞こえていた。