本編
今夜はエイト達はあくまで、『客人』として扱われるらしかった。明日からは使用人としての仕事が待っているが、邸宅に足を踏み入れた今日だけは、契約上でもまだ『使用人』ではないらしい。
邸宅の主であるフリン・スペンサーは、使用人と共に食事をとるということはしない。彼には妻も子供もいないので、広いスペースの食堂に設えられた長テーブルで一人、食事をしているとのことだった。
『屋敷の主』としての姿として、それは正しく正解であるが、そんな彼は少しばかり『疑い深い』人間であった。砂漠の民のイメージの通り、『用心深い』『秘密主義者』なフリンは、己が雇う人間のことも、まずは疑って掛かる人間だった。
雇う段階の下調べはもちろん、その者の観察も兼ねて、邸宅を訪れた初日には仕事を与えることはせず、晩餐を共にするのがしきたりだと言うのだった。食事の席を共にすることで、その者の本質がわかるのだと言う。
「スペンサー……いえ、“旦那様”の考えは間違っておりません。食事の時間こそ、人が一番油断する時。その時を見極めの時間にするということは、あながち間違いではありませんからなぁ。エイトさんも気を……いえ、貴方はそのままで大丈夫でしょうな。充分悪ガキですし」
「てめぇ……悪かったな、スラムの悪ガキでよ」
ふてくされたエイトに、エドワードは笑顔で振り向く。その笑みにはこちらを嘲る気配はなく、言葉とは裏腹に随分と甘い気配が漂う。
「そこが良い、と言っておきましょうかな」
細められる漆黒に容易く捕まりながら、エイトは染まっているであろう頬を隠すために、ベッドの傍に放り投げた荷物を取りに立ち上がる。
「欲情してる場合じゃねえぞジジイ。もうその晩餐の時間になるんじゃねえの?」
「そうですな。旦那様を待たせるわけにはいきませんし、そろそろ行きましょうか」
「……その、旦那様って呼び方、どうにかなんねぇ?」
テーブルの荷物をそれとなく目立たない場所に移動させているエドワードに、エイトは溜め息をつきながら言った。
なんだか無性に腹立たしい物言いに感じるのだ。『旦那様」という言葉が。まるで大事な人、みたいで。
「エイトさんもフリン・スペンサーのことはこう呼ばないとおかしいでしょう? これは任務上、仕方のないことです」
鋭い視線でそう答えるエドワードに、思わずエイトは目を逸らした。
――それなら、オレのことを呼び捨てにするのも、『任務上、仕方のないこと』なのか?
「……っ」
余計なことまで考えてしまって、エイトの視界が滲む。
本当に、この老人と出会ってから、初めての経験が多すぎる。話している最中に、こんなにも涙が込み上げることなんて、今まで一度もなかったのに。
「本当に、困った子だ……」
エドワードのそんな言葉が聞こえて、不安に駆られて顔を上げるも、涙で滲んだ視界には、エイトを安心させる彼の姿は映らない。零れ落ちる雫もそのままに、部屋を見渡し――老人の姿を見つけられないで、心臓が早鐘を打つ。
――いない? なんで? オレのこと、嫌いになった? どうしようもない、『困った子』だから?
『どうしようもない、困った子』
このレッテルは学校生活でも幾度も聞いたフレーズだった。それは担任が零す言葉然り、両親が零す言葉然り。その言葉には確かに悪意があったが、エイトにはここまで響く言葉でもなかった。彼等は文句を言いながらも、エイトから居場所を奪うことはしなかった。
だが、積もり積もったその言葉によって、エイトはそれまでの居場所を失ったのだ。愛情はないにしろ、暖かいエイトの居場所。帰る家を失った子供は、どこに帰れば良いのだろう?
帰る場所も心の拠り所も取り上げられて、エイトは突然一人ぼっちになったのだ。一人の夜は寒かった。とても、心が寒かった。そこらに転がるゴミのように、硬い道端に身を丸めて眠った。砂嵐に肌も心も傷付けられて、それでも涙は出なかった。
それは本当の愛情を知らなかったから。
その暖かみを知ってしまったら、もうそれを手放すことは出来ない。独りぼっちはもう嫌だ。どこにも行かないで。オレを置いて行かないで。
「そんな顔をしていては、他の方を欲情させてしまいますよ」
気が付いた時にはベッドに押し倒されていた。どさりと小さな音が響いて、目の前にエドワードの少し細められた瞳が――本当に、困ったと言いたそうな瞳が現れる。
「……っ」
嬉しさでしがみつく。老人の少し細くなった腕に強く、強く。痛いかもしれないなんて考える余裕もない。離れず、どこにも行かないでくれた。困らせたのは、オレなのに。
「そんなに悲しそうな顔も、嬉しそうな顔も……どうか、私の前以外ではしないでいただきたい」
エドワードの口元が欲望に歪む。それをそのまま受け入れて、甘く甘く溶かされる。今響いている水音は、悪意ではなく淫らな音。外に決して聞こえてはならない、二人だけの秘密。
「っ……え、えど……っ」
深い深い口づけに溺れてしまいそうになりながら、愛しい彼の名前を呼ぼうとするエイトに、エドワードはすっとその身を離してふぉっふぉと笑って言った。
「……おや、ようやく名前を呼ぶ気になってくれましたか。感心感心」
「……っ、うるせえクソジジイ……勝手に、居なくなるなよな……」
最後は俯きながら零した言葉に、エドワードは言葉ではなくその手でエイトの頭を撫でて応えてくれた。まるで孫をあやすように。まるで恋人をあやすように。
「エイト……行こうか」
急にはっきりと名前を呼ばれて、エイトが目を見開くのと扉からノックの音が聞こえたのは同時だった。纏う空気の変わった老人のその目を、エイトは見ることが出来なかった。
スペンサー邸での晩餐は、正しく『晩餐』と言うに違いない豪華さだった。
大広間とも見間違う食堂――本当の大広間にも案内されたので、ここが大広間ではないことはわかっているが――には、エントランスや廊下と同じく煌びやかな光が満ちている。
邸宅内に敷き詰められた細やかな刺繍のなされたカーペットが、この食堂と大広間は敢えて敷かれていない。代わりに磨き上げられたその床が、美しい壁や天井の装飾の光を反射して、空間全体を光で満たしているのだ。
教本ですら見たこともない豪奢な空間。夢見心地な気分でその中央に設えらえた長テーブルに誘われる。奥には主の席があり、その斜め前にエドワードとエイトの席が用意されていた。部屋を縦断するように設置された長テーブルは暗灰色の木製で、その上を彩る銀の食器を際立たせている。
エイトとエドワードが並んで席に着くと、タイミングを見計らったかのように、この屋敷の主であるフリン・スペンサーが奥の扉から姿を現した。
まだ若い精悍な顔立ちのその男は、見るからに金持ちという恰好をしている。砂漠の民に伝わる伝統的な白を基調としたゆったりしたラインの服装から、商人にしては鍛え上げられている褐色の腕が伸びている。砂漠の民らしい明るい茶髪はやや長めに伸ばされていて、その髪に時折隠される瞳は、怪しげな深紅に染まっていた。
立ち振る舞いから気品を感じる邸宅の主は、その若さからは想像も出来ない程に堂々と、この豪奢な空間を歩いてくる。“強者”故の微笑みすら浮かべるその姿に、エイトはこの世の力というものには、いくつかの種類があることを初めて知った。
この男からは血の匂いはしない。だが、その危険な光を宿す深紅には、悍ましいまでの欲望の暗さが宿っている。まるでその歩んでくる身体は偽物で、その瞳こそが真実の、血に飢えた獣のようにエイトには思えた。暴力とはまた違う、危険な匂いだ。
「やあ、すまないね。この家の仕事を頼む人間の顔は、一通り知っておきたいものでね。どうか今日くらいは立場を忘れて、楽しんでくれたら嬉しいよ」
金持ちとは思えない気さくな態度でそう言われ、エイトがその意外さに驚いていると、隣のエドワードは素早く席から立ち上がり、白髪頭を恭しく下げる。
「私のような老いぼれに、そのようなお優しいお言葉を……っ、感謝に堪えません。孫共々、よろしくお願い致します」
その声は感激に震える老人そのもの。何の悪意も感じさせない、完璧なる演技にエイトがぽかんとしていると、その腕が強引にエイトを立たせ、そして頭を下げさせる。
「孫は本当は優しい子なんですが、どうも反抗心が強いようでして。無礼な態度で申し訳ございません」
なんだかエイトへの暴言だけは震えていなかったように感じたが、きっとそれはエイトの気のせいだったのだろう。顔を上げるとフリンは穏やかな顔で笑っていた。エドワードはまだずっと、頭を下げたままだ。
「そんなに恐縮しないでくれ。エドワード、さん、で良いかな? 屋敷の中では私の立場の方が上だろうが、年長者の言葉というものは、私にとっては大事にしたいものだからね」
「そのような、恐れ多い……私のことはどうか、この不出来な孫と同じようにお扱い下さい。孫共々お雇いいただけたことを感謝しております。どうかお役に立たせてください」
痛々しいまでの老人の姿を、フリンは完全に信頼したようだった。穏やかに笑い、二人に席に座るように勧めると、手をパンと一つ叩いて食事を使用人達に用意させる。
「エドワードさんには庭の手入れをお願いしたい。庭の範囲が広いせいで、今いる庭師だけでは手が回らないようでね」
エイトが見たこともないような料理が順番に並べられていく。食堂に来るまでの廊下で、エドワードが迎えに来た使用人に「孫はテーブルマナーがわからない」と伝えていたので、エイトの前にはスプーンやフォーク一本で食べやすいサイズにカットされた食材ばかりが並んでいる。
普段見慣れたはずの肉なのに、普段と全然見た目が違う肉料理を口に放り込むたびに、予想外な風味が口の中に広がって、育ち盛り故の空腹も相まってスプーンもフォークも止まらなくなる。豪華な食事に夢中なエイトに年上の二人は笑い、明日からの仕事の話は自然とエドワードに振られる形になった。エドワードは優雅に食事をしながら、フリンの問い掛けに淀みなく、しかし『感激している老人』の演技をしながら答えている。
「私の腕で良ければ、是非とも。孫のエイトには手伝いをさせましょう」
「力仕事は得意そうだね」
フリンにふふっと笑ってそう問われ、エイトは仕方なく料理から目と手を放して頷いた。下手に話すと育ちが悪いことがバレるので、口はずっと噤んでいた。べつに、エドワードにそう言われた訳ではない。
エイトにだってプライドはある。こんな住む世界が違い過ぎる人間と初めて会ったエイトは、絶対に自分が見下されるであろうことを理解している。その見下される原因を、わざわざ自分の口から放つ必要はないというだけだ。
そんなプライドに抵抗なんて、本物の豪商に敵うはずもなく。しかしフリンは別段気にした様子もなく、その笑顔も優しい穏やかなものだった。
「うちの料理が、気に入ったかい?」
これはさすがに答えないとマズいだろうか。こちらをじっと見据えて放たれた問いに、エイトは頷くだけではなく口を開く。
「……はい。とっても……」
こちらを見詰める深紅にドギマギしてしまい、なんとも中途半端な返答をしてしまった。思わず泳がせる視線がエドワードを捉える。彼は品良く肉を口に放り込み、優しい笑みを湛えたままだ。本当に胃腸は強いみたいだ。
「それなら良かったよ。君みたいに若い使用人は、先日入った女の子ぐらいだから。どうか彼女とも仲良くしてやってくれ」
思いもかけない方面からデミの情報が舞い込んで、エイトは思わず演技を忘れてフリンと目を合わせてしまう。急に絡まったその視線に、フリンはしかし動じた様子もなく微笑む。
「思春期だね。可愛い反応だ。彼女には“室内”の仕事をお願いしているから、なかなか会う機会はないだろうが、“その時”が“あれば”仲良くしてくれ」
流れるように紡がれるその言葉の中に、エイトはしっかりと悪意を感じ取った。この邸宅の主が言う『室内』で、彼女に会う『その時』はきっと、『ある』はずがないということを。
「他には女性はいらっしゃるのですか?」
思わず睨み付けそうになる瞳から、エドワードが話題を逸らすことで、その視線すらも逸らしてくれた。どこまでも先読みし、エイトの心すらも読む老人だ。気付かれないように溜め息をついて、熱くなりだした心を静める。
「今はその彼女のみ、になるかな。男ばかりだが、その方がやりやすい、ということもあるだろう」
「それもそうでしょうなぁ」
いつものようにふぉっふぉと笑うわけではなく、あくまでエドワードは控えめに、『恐縮した様子』を見せつつ笑う。しかしエイトから見たその横顔には、嘲笑を含んだ漆黒の瞳が映っていた。
男三人。それぞれの思惑を映し込むような、赤黒いシチューが運ばれてくる。シチューに溶け込む血肉の鮮やかな赤に、エイトはこの邸宅に巣食う悪意を見た気がした。