本編
翌朝――と言って良い時間なのかは怪しい――も、香しい紅茶の気配で目が覚めた。
「おはようございますエイトさん」
真夜中の訓練でも聞いたその声が、愛おしい気配を孕んでいるのを感じ取りながら、エイトも素直に「おはよー」と返して身を起こす。
家族に対してもしっかりと朝の挨拶を返した記憶がないので、まだ少し照れくさい。しかしこの老人には何故だかちゃんと返しておきたいと、エイトは思うようになってしまっていた。
「よく眠れましたかな?」
エドワードが差し出した手を取りながら、顔だけは逸らして「まあまあ……」と曖昧に答える。
朝方にベッドに入ったエイトだが、老人の気配をその隣に感じることはなかった。
期待、していなかったと言えば嘘になる。
エドワードはおそらく、陸軍からの連絡のために部屋を出たまま、エイトが深い眠りにつくまでの一時間程戻ることはなかったのだ。人の気配に敏感なエイトは、例え熟睡していたとしても、同じベッドに他人の気配を感じれば起きる、と思う。意識している相手なら尚更。
自分の目の届かないところでこの老人が、いったい何をしているかは知らない。教えてもくれないだろうから知りたいとも思わない。彼がこれまでどんな生活を送り、どんな――どんな人を愛してきたかなんて、絶対に聞かない。知りたくないのだ。
「あと数時間もすれば昼になります。任務のためにまずは、しっかり朝食をとりましょう」
気持ちばかり募るエイトのことなんてどこ吹く風。エドワードは普段通りの穏やかな笑みを湛えたまま、エイトを朝食に誘ってくれた。
「飯ってどこで食べるんだ? さすがにスペンサーの家に行くまでに、だよな? オレ、飯が食える店なんて知らねえぞ?」
貧しいエイトの家では、外食なんて贅沢はあり得なかった。だがエイトには、母の作るハンバーグがとても美味しく、そもそも外食に行きたいという願望もなかったのだった。学校で習う教材の中身の話、とエイトの中では外食とはそういうものだった。もちろん寄り道や買い食いなどもしたことがない。
「大丈夫ですよ。エイトさんの食べたいものを食べましょう。そうですな……普段食べたことがないものでも、これを機に挑戦してみてはどうでしょう?」
エドワードの表情は孫に甘い祖父そのもので。なんの悪意もないその笑顔に、エイトも思わず頷いてしまっていた。食べたことのない、食べたいものって……なんだろう。
目的地――エドワード曰く、飲食店が集まっている場所があるらしい――も決まったところで、二人はきびきびと出発の準備を始める。
エイトのために淹れられた紅茶を飲み干し、寝巻から外出用の服に着替える。鍛えられた身体にフィットする、運動に適した服装で、黒の半袖シャツには安っぽいゴールドの差し色でドラゴンの絵柄が描かれている。ボトムスは迷彩柄で足首までしっかりと包んでいて、見た目はどこにでもいる悪ガキだろう。自覚はある。でも好みなんだから仕方がない。デミにはせっかく身体つきが良いのだから、もっとオシャレなものを着ろを言われていた。
足音を殺しつつ打撃力を高めた、“機能的”な真っ黒の靴を履いて、準備万端だとエドワードを見やる。彼は昨日とさほど変わらない出で立ちで、既に準備を終えていた。シャツが薄い黄色になっており、それだけで休日の老人加減に拍車が掛かるから役者だなと思う。
ティーポットとカップはいつの間にか洗われており、流しに放置されている。どうやらここに置いていくつもりのようだ。
「ジジイのじゃないのか?」
「これですか? もちろん私の私物ですが、この部屋にはこの後、宿のものとはまた違う陸軍の“清掃”が入るので、その時に片づけておいてもらいます。さすがにお屋敷に私物のティーセットを持っていく“貧しい”老人と孫はいないでしょうから」
「確かに、そりゃそうだけどよ……」
エドワードの言葉に、エイトは元から少ない荷物に寝巻と昨日着ていた服を詰め込んで、続けたかった言葉も飲み込んだ。『なんだか置いてったら可哀想だ』なんて、まるで自分のことのようだったから。
宿のチェックアウトは滞りなく終わり、エドワードの財布の中がかなり潤っていることに驚き、そのほとんどが軍からの支給だということに唸り、そして「これからの朝食で無一文に近づきましょうか」と言われてまた驚いた。
「スペンサー邸で持ち物の確認をされるかもわかりませんので、財布の中身は限りなく少なくしておきたいのですよ。エイトさんは育ち盛りですし、たくさん食べてください」
そう言いながらエドワードはごく自然な動作でエイトの手を引いてくる。宿の入り口は時間がずれていることもあり、エイトとエドワード以外に客はいなかったが、外に出たら話は違う。大通りに面した宿から出ると、そこには砂嵐にも負けないような人の往来が待ち受けている。
この大通りは旅人に人気の宿が多いこともあり、砂漠の民に混じって他国の人間らしき顔もちらほら見える。デザキアの人間は、外出時は伝統的な白を基調としたゆったりとした服装が多いので、それ以外の服装をしている他国の人間は目立つのだった。明らかに軍属といった恰好の人間もいれば――確かに、噂に聞く特務部隊らしき恰好の者も見えた。
「おや、気付きましたかな?」
目敏く声を掛けて来るエドワードに無言で頷く。あくまで一般市民と言い張る恰好のエドワードは、その表情も穏やかに、穏やかではない話題を口にする。
「軍属の者達は見るからに兵士。そして特務部隊は漆黒のダークスーツに身を包んでおります。闇夜に紛れる特務部隊達が変装も無しにウロウロしているのは、おそらくスペンサー邸、というよりはデザキアの軍への牽制でしょうな」
「牽制?」
「『我々も情報を掴んでいるぞ』と、わざと見せつけているのでしょう。『迂闊に動くな』と言いたいのでしょうな」
「……さすがにまだどこも、大事にはしたくないってことだな?」
「首都ではないにしろ、ここは砂漠の玄関口です。こんな街で事を起こせば、外交問題だけでなく、物理的に物資の流れも止めてしまうことになりますので」
「大人の喧嘩ってのは、面倒だよなぁ」
「エイトさんもいつかは経験することですとも。今のうちにたくさん、『例題』を見て勉強しておくことですなぁ」
「チッ……どこでもなんでも勉強、勉強だな」
「それが人生というものです」
最後はふぉっふぉと満足そうに笑って、エドワードはこの話題を断ち切った。巡回の兵士が後ろから早足に追い越して来る。それを問題なくやり過ごしながら暫く歩き、二人は飲食店が集まるエリアに到着した。
大通りを挟み込むように幾多の店が軒を連ねており、店の前に出された看板には、どの種類の料理が提供されているか誰が見てもわかるように描かれている。店の外観もカラフルなものが多いが、その看板のおかげで、店前も鮮やかに彩られていた。砂漠の国である南部の料理は、基本的に辛い味付けの料理が多いので、看板に描かれているとその赤色が本当に目立つしよくわかる。
まだ太陽の光は頂点ではないので、昼にはなっていないらしい。少し早い時間のせいか、店が集まっているわりには、道行く人の姿は少ないように思えた。
「さぁ、エイトさんの好きな店にどうぞ。この辺りの店なら、財布の中身だけでお腹いっぱいになるでしょう」
「好きな店、ねぇ」
この際、エドワードに遠慮するということはしないことにした。彼が問題ないと言っているのだから、エイトはその言葉に従えば良い。普段は反抗心の塊のようなエイトだが、エドワードの言葉には従おうという気持ちになる。それはきっと、憧れる程に強い彼に惹かれているからで、真っ直ぐに注がれる愛情でむず痒い気持ちもきっと、間違いではないはずだった。
飲食店なんて初めてなので、きょろきょろしながら大通りをゆっくり歩く。エドワードも特に何も言わずに付いてくれていて、たまに看板にエイトが足を止めると、一緒に立ち止まって微笑んでくれていた。そしていつの間にか手を繋がれていて、エイトもついつい笑みを零してしまうのだった。きっと、周りから見たら仲の良い孫と祖父だ。もしかしたら、転倒防止なんて思われているかもしれない行為なのだ。こんなにも甘い感情に支配されているというのに。
何軒かの店の前を通り過ぎて、エイトはまたひとつの看板に足を止めた。そこには南部ではなかなか見ない、白色の麺類のイラストが描いてある。
「おや、どうされました? この店が気になりますかな?」
「ああ。白色の麺なんて見慣れなくて……美味いのか?」
看板を指差しながらエドワードを振り返ると、彼は目を細めながら笑った。その笑みがいつもと違うような気がして、エイトは目を離せなくなる。優しい、しかしいつもより柔らかい笑みだ。
「それは正式には『パスタ』というものですよ。クリーミーなソースが掛かっておりまして辛味はないのですが、この地方で食べる麺よりは硬い食感になります」
どうやらエドワードはこのパスタという料理も食べたことがあるらしい。そして南部の料理との比較までして説明してくれた。全然具体的には想像出来なかったのは内緒だ。
「えらく詳しくね?」
「私の出身は大陸東部でして。故郷の味、というやつですな」
「へー……」
口では無関心を装いながら、心では彼の知らない部分を知れて喜ぶ自分がいた。エイトの心境等きっと、この老人は見透かしている。だがそれを敢えて表に出すような人間でもなかった。
「こちらに?」
「ああ。この店にしようぜ。オレもパスタ、食べてみてえや」
肯定はしたものの、これからどうしたら良いかわからないので、エイトはエドワードの後ろに続いて店に入ることにした。老人にしては逞し過ぎるその背中に安心感を覚えながら、彼が開けてくれた扉を抜ける。
店内は石造りのグレーを基調としたシンプルな造りをしており、白を基調とした丸みのあるデザインが多い南部とは本当に、“地域が違う”と意識させる造りだった。自然の石の模様に見えるが、しっかりと手入れされており無骨さを感じさせない。所々に彩りのように赤や緑といった鉱石が埋め込まれた石のテーブルが、洗練された輝きを放っている。
砂漠の白に見慣れたエイトの目には、この店内は少し冷たく感じる程だった。石造りからは暖かみを感じられず、テーブルの傍の椅子は辛うじて灰色に着色された木材だと気付く。
「東部は昔からスコールが多い気候でして、そのために石造りの建物が主流なのですよ。ひやりとした独特の凄みがありますが、職人の技を楽しんでいただけると光栄です」
椅子を勧めながらエドワードがそう言うので、エイトも頷いてその椅子に座る。座ってしまえば外と何も変わらない室温だ。寒いと感じたのは視覚からの感覚に引っ張られただけなのだろう。慣れない環境に少しばかり緊張しているとエイトは自覚していた。
エドワードも対面の席に座る。椅子の数的に二人掛けの席のようだが、石造りのテーブルは広い。宿もここに至るまでの道すらも、ずっと隣にいてくれた老人が少し遠く感じてしまって、エイトは渡されたメニューに目を落としながら、小さく溜め息をついた。
「看板に書いてあったのはこのパスタですよ。エイトさんはこれで良いですか?」
「ああ。オレはそれで良いけど、あんたは?」
「私は、そうですな……これにしましょうかな」
そう言ってエドワードはエイトの持っているメニューの一品を指差した。メニューの文字は読めたが、このメニュー表には写真や絵が載っていないので、どういった料理かはわからなかった。
「挽肉を使ったトマトベースのパスタです。エイトさんの頼むものと違って、これは赤みのある料理になりますな」
「ふーん」
店員を呼んで注文するエドワードを見ながら、エイトは自分に、もしも祖父がいたらと考える。
エイトを引き取った両親の親は、エイトを引き取った時には両方とも既に亡くなっていた。貧しい生活のせいだろうが、スラム街やそれに近しい地域の寿命というものはとても短い。孫の姿を見ることが出来るなんて、なかなかないのではないだろうか。
学校の教本で見た家族の話では、祖父母というものは孫に甘いらしい。いつも優しく微笑んで、親とはまた違う『愛情』を注いでくれる。長く生きているからこその生活の知恵なんてものもあるらしい。大概のことには寛容になる程に、深い人生経験を積んでいるのだ。
穏やかに笑う漆黒の瞳。白髪ばかりのその頭だが、そこに老いというものを感じさせない軍人の顔を持つ。鍛えらえたその身体には、若さだけではどうにもならない強さを秘めて、その乾いた手先には心が擽られるような熱を帯びる。
話に聞いていた『老人』というイメージとは全く違う。学校で、エイト達よりかは“裕福”な家庭の子が言っていた祖父の話は、『重い物を持とうとして腰を痛めた』だとか、『胃が弱ってるから油物を食べる気にならない』だとか、およそ目の前の老人とは無関係な話ばかりだった。
そんなことを考えているエイトの鼻に、香ばしい香りが漂ってくる。店内にはそれなりに客が入っているが、エイト達以外はもう食事を始めている。今しているのはきっと、エイト達の頼んだ料理の香りだ。肉を炒めているであろう香りをその中に嗅ぎ取って、エイトの胸が高鳴る。香りだけでもとても美味しそうだ。耳を澄ませば油の跳ねる音まで聞こえてくる。
「……油……」
「どうされました?」
ふと気になって呟いた言葉に、エドワードは穏やかに反応してくれた。エイトのどんな調子も見逃さないかのように、優しい視線をずっと向けてくれている。
「あんたって結局いくつなんだよ? 胃、とか……油物頼んで、良かったのか?」
なんだか途中で恥ずかしくなってしまって、意図せず上目遣いになってしまった。そんなエイトの態度にエドワードは、初めて噴き出すように笑った。店内に響く程の笑い声で、穏やかな空気に店員達も優しい笑みをこちらに向けてくる。
「エイトさんにいらない心配をされないためにも、年齢ぐらいはお伝えしましょうか」
まだ笑いが抑えられないようで、そこでエドワードは言葉を区切る。少し治まるまで待ってから、エイトの目を見て言葉を続ける。細められた漆黒には、孫を想う色合いなんてものはない。そこにあるのは確かに、情欲の色。いくつになっても失われない、いやらしい雄の色合いだ。
「私は六十二歳になります。どうやらエイトさんは散々心の中で、私のことを老人呼ばわりしておられるのでしょうが、厳密には『初老』と呼ばれる年齢ですな。もちろん胃腸の働きも問題はありません。パスタも好きな料理のひとつですよ」
「……ジジイには変わりねえだろ」
図星だったがなんとかそう返していたら、丁度良いタイミングで料理が運ばれてきた。本当に助かった。
テーブルに皿が置かれて、それを見てエイトは思わず、大きく鼻から息を吸い込んだ。ニンニクの利いた白色のソースがかかったパスタが、高級そうな白い皿に盛りつけられている。既に匂いから楽しめる料理だが、その色彩も素晴らしい。灰色のテーブルとコントラストはばっちりで、より一層彩りを加えているようだった。
「美味そう!」
「エイトさんの料理はクリームソースですので、違う味を楽しみたければ私の分も少しどうぞ」
エドワードの前に置かれた皿には、オレンジとも赤とも言えそうな色合いに染まった挽肉がかかったパスタが盛り付けられている。エイトの分だけでなく、この皿もなかなかの量だ。
「元より東部のパスタ料理は、他の人とシェアすることを考えて作られています。量も多めになっているので、これだけ食べれば育ち盛りのエイトさんも、お腹いっぱいになるでしょう」
そう言って、小皿に自分が頼んだパスタを取り分けてくれるエドワード。取り分けた量的に、確かに胃腸が弱っているようには見えない。セットでついてきたサラダもずいと押しやられた。しっかりと『残さず食べろ』ということらしい。
「老人扱いしたのは悪かったって。じゃあ、いただきます」
不貞腐れながら食べ始めるエイトに、エドワードも笑い、パスタに手を伸ばすのだった。エイトがこれまでほとんど経験したことのない、暖かい食事というものが、老人との時間にもあった。