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本編


 色々と思い悩んでいる間に、どうやら眠ってしまっていたらしい。
 柔らかなまどろみに抱かれながら、目を開く前に漂う香りに嗅覚が反応する。仄かに香るこの香りは……何だ?
「……?」
「……おや、起きましたか。おはようございます、いや……こんばんわですかな」
 何がおかしいのかふぉっふぉと笑うエドワードの姿を認め、何故だか無性に嬉しくなる。まるで捨てられたと怯える子犬のような反応に、エドワードはすぐに察して微笑むと、その手に持ったティーポットを備え付けの机に置いて、エイトが横になっているベッドに腰掛けてくれる。
 そのまま優しい手つきで髪を撫でられ、「眠り姫は目覚めのキスが必要ですかな?」と悪戯を思いついたようなキラキラとした眼で問われた。
 その問いに対する答えの前に唇を奪われて、その中にほろ苦い茶葉の味を認識する。部屋に漂う香りと同じその味は、まるでこの老人のような深い味わいを秘めていた。ほろ苦く、くすぐる味わい。
「にが、い……」
「それは失礼。この地方のものではないので流通価格で言えば高級茶葉になりますが、エイトさんには些か早かったようですな」
 やはりふぉっふぉと笑われる。もういい加減慣れたその反応に、エイトはぐっと腹筋に力を入れて起き上がる。窓には相変わらずカーテンがひかれているが、どうやら今の時刻は夜らしい。カーテン越しの空が暗い。
 机の上のティーポットへと、エドワードはベッドからそのまま手を伸ばしている。礼儀作法にうるさそうな見た目をしているくせに、随分と軽い態度でティータイムを楽しんでいるようだ。
「……呑気に紅茶を楽しんでるのかよ、やっぱクソジジイだな」
 先程までの甘い空気など忘れたふりをして、エイトは起き抜けに悪態をついた。いかにも金持ちの趣味といったその行為が、エイトを卑屈にさせていた。
「……紅茶は、お嫌いですかな?」
 老人の目が細められる。
――違うんだ。そんな目をして欲しいわけじゃなくて……
「……ち、ちが……」
「何が違うのですか? 私の問いに答えてください。紅茶はお嫌いですかな?」
「……好きも、嫌いも……飲んだこと、ねーよ」
 日々の暮らしで精一杯のエイトの家では、紅茶なんて贅沢品は飲んだこともない未知なるものだ。そういったものがあるという知識はあるし、見たらわかるものではあるのだが、その味が好きか嫌いかなんて、おそらく同じ学校に通っていた人間も知らないのではないだろうか。
「それでしたら、試してみましょう。最初は苦いかもしれませんが、この苦みの中に微かな変化を感じ取るのがまた、乙というものですな」
 慣れた手つきでカップに注ぎながら、エドワードはそう言ってエイトに向かって微笑んでくれる。子供の癇癪なんてどこ吹く風。まるで全てを見透かすように、丸裸なエイトの心を乾いた手で包んでくれるのだ。
「……いただき、ます……」
 恐る恐るカップを受け取る。おそらく私物なのだろうか、豪華な装飾もなく、なんの変哲もないカップだ。口をつける前に香りを嗅ぐと、仄かに苦い香りが漂ってくる。
 目を瞑ってぐいと飲む。手に持った感覚で火傷をする程の熱さではないと判断したのもあるが、とにかく目の前の老人に見られたままのこの状況が恥ずかしかったのが大きい。ごくりと動く喉仏を見られてるなんて……
 先程のキスと同じ香りが口の中に広がる。香りと同じく少し苦いが、嫌な味ではない。むしろ好きだ。深くて、ほろ苦い。やっぱりくすぐられるような味わいがある。
「……美味しい」
 直球過ぎる感想しか言えなかったが、それでもエドワードは満足してくれたようだ。にこやかな笑顔は、心からのものだろう。自分の趣味を共に楽しむのは、いくつになっても嬉しいものなのだろうか。
「楽しめそうですかな? 何事も、試してみないとわからないものでしょう?」
 ふぉっふぉと笑いながらそう言って、頭を撫でてくる。笑顔のまま「何事も、ねぇ?」と意味ありげに言ってきたのは無視して、エイトは空になったカップを机に置いて、乱れたままだった服を直しながら立ち上がる。木製のベッドがギシリと軋んだが、エドワードはそのまま腰掛けたままだ。
「これからどうすんだよ?」
 動きがない老人にそう問い掛けると、ようやくエドワードも立ち上がる。ベッドを挟んだ狭い室内で、老人の鋭すぎる瞳の漆黒が増した気がした。
「明日、スペンサー邸への潜入の手筈が整いました。私とエイトさんは貧しい祖父とその孫という設定で、なんとか使用人として働きたいと転がり込んで来たという形ですな」
「よくもまあ、そんな身元もわかんねえような二人を入れる気になったなぁ、スペンサーって野郎はよぉ」
「デザートローズの陸軍が偽造に関与しているのですから、問題はありません」
「そういや、ずっと気になってたんだけどよ……なんでデザートローズの軍人様が、こんな街の商人の家に用があるんだよ?」
 すっと、部屋の温度が下がった気がした。瞳の中の真実の光はそのままに、老人から流れる空気の質が変わる。老人は嘘をついてはいない。そしてこれからもつくつもりはないだろう。しかし、その痩身から流れ出る気配には、明らかに人殺しの空気が孕んだ。
「……エイトさんは、フリン・スペンサーの黒い噂を聞いたことはございますかな?」
 相変わらずの鋭い瞳でその名前を呼ぶ時、老人の表情がキッと引き締まった。その姿は正しく特命を受けた軍人そのもので。
「……働いている使用人が消える、とかは聞いた」
「なるほどなるほど。それならば話は早いですなぁ。どうやらその噂は真実のようでして……」
「なんだとっ!?」
 老人の肯定にエイトは思わず叫んだ。極めて不自然なタイミングでなされた、極めて不自然な求人募集が、エイトの不安を更に増幅させる。
「落ち着いてくださいな。“まだ”デミさんは無事でしょうて。どうやらいなくなった人間は、ある“実験”に使われているようでして、その準備のために一週間程掛かるようなのです」
「ならデミが雇われたのは昨日からだから、あと……」
「長くて五日、いや、もう日付が変わるので四日ですな。助け出すことも考えるならば、早ければ早い方が良いでしょうが」
 思いもよらなかったエドワードの言葉に、エイトの中で焦りが大きくなる。今すぐにでもスペンサー邸に殴り込みに行きたい。だが、さすがにそれが焦りからくる無謀な作戦だということは、今のエイトでも理解出来ていた。我慢をするということは苦手なことだが、デミの身の安全が掛かっているのだから仕方がない。
 焦りをなんとか逃がすために、気になっていた疑問を目の前の老人にぶつけることにした。
「そんな内情、なんでデザートローズの軍が知ってるんだよ? それに実験って何?」
「おや……失礼。動物のように飛び出すかと思っておりました。順番にお話ししましょうか。まず、何故我々がスペンサー邸の内情を知っているかということですが、これには我々陸軍とは違う『特務部隊』が関係しています」
「……特務部隊って、“あの”?」
 エイトは思わず聞き返した。エドワードの言った『特務部隊』という存在が引っ掛かったからだ。
 特務部隊は軍部の管轄にある、陸軍とはまた違った系統の部隊の名である。表立った所謂『軍人さん』という働きを担当する陸軍に対して、特務部隊とは裏側、つまり暗殺や誘拐といった暗部の仕事を請け負う部隊である。
 そのため構成人数は多くはなく、一人一人が高い能力を持った少数精鋭で構成されているという噂だ。そう、噂なのだ。
 裏側の部隊があるというのはエイトのような学生でも知っている都市伝説のような扱いで、そのような部隊が実在しているとは、さすがに思ってもみなかった。
「そう。特務部隊は実在しています。特に危険な“狂犬部隊”は今回出てきていませんが、どうやら末端の非戦闘員達は既にスペンサー邸の周囲を嗅ぎまわっているようですなぁ」
「なんでまた、そんな物騒な連中がウロウロしてんだよ?」
「それは、あの邸宅で行われているという実験の証拠を掴むためです」
「実験?」
 ベッドを挟んだまま険しい顔をするエイトに、エドワードは少し休むようにと、机の傍の椅子を勧める。正直、話の内容に興奮し過ぎて座っていられる状態ではないが、少し落ち着くためにも一度、深呼吸をしてから勧められた椅子に座った。
 ベッドが部屋のほとんどを占める狭い部屋だ。入り口とベッドの間の空間にあるその机には、まだ中身の残っているティーポットが置かれている。まだポットの表面は暖かい。どうやらエイトが起きたのと、ティータイムの用意が出来たのはほとんど同時らしい。
 空にしていたカップに再び紅茶が注がれる。少し冷えたその香りが、エイトの心を落ち着かせる。苦みの中に潜む深みが、すっきりと鼻腔を抜けていく。
「どうやら『人を別の生物と混ぜ合わせている』とのことです。なんともおぞましい。人間の所業ではありませんな」
「な、なんだよ……それ」
「エイトさんは合成獣というものをご存じですか? 子供向けの空想話にあるような、そういったものでも良いですよ」
「……」
 エドワードが言いたいことを理解したエイトは、黙ることしか出来なかった。
 エドワードは『軍の知識としての合成獣』の話ではなく、子供向けの架空の物語や御伽噺のことを言っているのだ。だが、エイトはそういった話の知識はなかった。そんな『軍人になること』に必要ないであろう話を語る両親ではなかったし、唯一の友達も女のデミだけだった。話す相手がいないのだから、そんな情報はどうやっても耳に入ることはない。
「……っ、すみません。私としたことが軽率でしたな。エイトさん……」
 おそらく複雑な表情になっていたに違いない。エドワードが珍しく慌てた様子でエイトの前に屈む。目線をしっかりと合わせてから「すみません」と丁寧に謝られて、エイトはこういったことも今まで受けたことのない態度だと考えていた。
 とにかく丁寧に相手に向き合うその姿勢が、どうか自分だけに向いていたら良いのに。
 心の中でそんなことを思いながら、エイトの心をどこまでも理解してくれる老人に首を振った。
「何も、気にすんなよ。オレの家庭はどうやらおかしかったみたいだからな。今更、気にしてねーよ」
 言葉にしながら強がって、その頭を片手で優しく撫でられて。頬に熱を感じた時には、それを隠すことすら出来ずにそこにもう片方の手を添えられて。
 そっぽを向こうにも強引に視線を合わせられる。老人とは思えない力に、軍人という強さを感じて、ジンと身体の芯が熱くなった気がした。
 エイトの瞳を漆黒が覗き込む。その黒に赤が混ざる様に脳から溶かされそうになりながら、エイトはもう一度小さく「大丈夫だから」と続けた。
 ほっとしたような笑みを残して、エドワードは頭をもう一度撫でてくれた。
「合成獣とは一般的には、二つの種類の生物を掛け合わせて生み出す製法が主です。獰猛なる闇の眷属を手懐けるために、軍用犬と掛け合わせる等といったことが一般的でしょうか」
 砂漠の地であるこの地域ではあまり見かけないが、平野部の都市ではそういった『軍用生物兵器』が存在しているらしい。倫理的に問題があるために、掛け合わせる種類は極限られたものしか許可されていないと聞いた気がする。あまり覚えていないが。
「こういった掛け合わせでは、生物の生まれに手を加えて生み出す形になります。雄の遺伝子と雌の遺伝子を人工的に混ぜ合わせて、全く新しい種を生み出すのです。しかし――」
 エドワードは言葉を選んでいるようだった。出来るだけエイトにわかりやすく話してくれているようだ。やっぱり軍人というものは、頭も良くないといけないんだな、と考えさせられる。
「スペンサー邸で行われている実験は違う。奴はどうやら、生きた対象を『そのまま引き裂き、継ぎ接ぎ』しているようなのです」
 言葉の意味を考えて、エイトは吐き気がしそうだった。
 今まで生きてきた中で、話を聞いただけで吐き気に襲われるなんて経験はしたことがなかった。生きたまま身体を引き裂き、そしてそれを別の生物と結合する。そんな悪魔のような計画を、デミの身体に行おうというのか。
「それに、デミを……っ!?」
「あの娘の魔力に惹かれたようですな。スペンサーはどうやら『水の魔力を持った人間の娘』を希望したようなので」
 砂漠の国の人間は、魔法を行使する機会は他国に比べて少ない。家の外を吹き荒ぶ砂嵐により、砂漠の国――首都のデザートローズのみは例外で、街中の砂嵐の除去に成功しているという――では、魔力を動力源とした乗り物や魔道具が浸透していないせいだ。
 室内の照明や、水回りといった生活のための設備は問題ないが、移動のための乗り物は古き良き馬車や、大型に改良された動物に引かせるものが主流となっている。
 そんな難儀な砂嵐の影響は、国民生活だけでなく陸軍の中でも健在で、他国ならば魔法による軍事演習があるところが、この街の陸軍では存在しない。屋外での戦闘で使用出来ない魔法よりも、この街の軍隊では近接戦闘の能力が高い者が優遇されるのだ。
 砂嵐は魔力を遮断するだけでなく、物理的にも戦術的幅を狭める。細かい砂塵が入り込むため、この街では遠距離での狙撃は“ほぼ”不可能と言われており、部隊の編制も敵からの射撃や遠距離からの魔法攻撃はほとんど考慮されていないのが現状だ。
 学校で習った授業の段階での話ではあるが、おそらく間違いはないだろう。講師として来ていた現役の軍人達は、その魔力のほとんどを自らの肉体や武具の強化に充てていた。
 筋肉量は男女の違いが大きいが、魔力に性差はほとんどない。デミは砂漠の民にしては珍しい、水の魔力に適正があったようだ。この乾いた大地の国民には、地や風といった類の魔力に適正がある者が多い。
 エイトは残念ながらほとんど魔力がない、という適正結果だったが、元より近接戦闘に特化した訓練ばかりを行っていたので問題はなかった。もしかしたら頭の悪さと魔力の低さに繋がりがあるかもしれないと、今更ながらに思ってしまう。
「許せねえ……早くデミを助けねえとっ!」
「ええ、そうですな。そのためにもまずは……」
 エドワードの口元が怪しく歪むのを見てとって、エイトは全身に鳥肌が立ったのを自覚した。
「エイトさんの戦闘訓練をしましょうか」
 老人の放った冷たい殺気は、エイトが産まれて初めて受ける類の悪意であった。
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