本編
老人――エドワードは、一言で言うと軍人だった。しかし“元”で、しかもこの街の軍人でもない。
デザキアから砂漠地帯を進んだ先にある砂漠の国の首都『デザートローズ』。そこはデザキアと異なり『陸軍』と形だけの『空軍』があり、エドワードはその陸軍所属だったらしい。
定年により退役した後は、その陸軍に通いながら技術指導等を趣味で行っていたらしい。そんな彼にデザートローズの陸軍は、ある密命を下した。
それがスペンサー邸への侵入だった。侵入の形は武力行使以外ならば何でも良いというとても大雑把な命令で、エドワードは単身、使用人を装って侵入することにしたらしい。
「なんでジジイ一人にそんな命令出すんだよ? もう退役してるんだろ? 軍隊なら他にも適任なんていくらでもいただろうが」
「エイトさんは本当に口が悪いですなぁ。仮にも軍人を目指すのならば、その口の利き方も矯正するべきでしょうなぁ」
口ではそう言いながらも、エドワードに気にした様子はない。心底おかしそうに笑うその姿は、孫を可愛がる老人そのものだ。
今二人は、エドワードが寝泊まりしている宿の一室にいる。スラムと目的地であるスペンサー邸の丁度中間の位置にあるこの宿は、宿のレベルとしても中間くらいの『お手軽で旅人に人気』な当たり障りのないものだった。
「本当でしたら、この街のウリである海を望める港の宿を楽しみたかったのですが、さすがに任務中にはねぇ」
光の少ない漆黒の瞳に少しばかりの感情が浮かぶ。つかみどころのない老人の心境が少しだけ顔を出したような気がして、エイトは横になっていたベッドから身を起こした。
中くらいのレベルの宿と言っても、裕福ではなかったエイトにとって、この宿のベッドの柔らかさは素晴らしい寝心地である。老人一人で部屋を取っていたために、急遽部屋の変更を申し出たが、希望の人数の部屋は満室だったようで、特別に今夜だけは一人部屋に二人の宿泊が認められたのだ。本来ならば罰金ものらしい。
「それにしても商売人ってのはケチだよなー。狭いベッドで我慢して二人で寝てやるって言ってるのに、あんなに偉そうに『特別ですよ』って言わなくても良いだろうがよ。我慢してやってるのはこっちだってのによ!」
先程の宿の店主とのやり取りを思い出し唇を尖らせるエイトに、エドワードは「おや?」と首を傾げて振り返る。彼は部屋の窓辺に立ったままカーテンの隙間から外を窺っていたが、そこから離れながら困ったように笑って言った。
「エイトさんはどうやら、軍隊のことで頭がいっぱいなようですな? 年齢はおいくつでしたか?」
「じ、十五だけど……なんだよ!?」
何を言いたいのかはわからないが、どうやら馬鹿にされているということはわかった。そんなエイトの反応に、あくまで優雅に笑うエドワード。品の良いその立ち振る舞いは、エイトが今まで接したことのないもので、その動作の一つ一つに困るぐらいに目を奪われる。
ティーポットでも持っているのが似合うだろうその細指に誘われるように顔を向けて、それに気付いてなんだか無性に恥ずかしくなって、拗ねるように顔ごと扉に視線を向けた。
「エイトさんは、どうやって子供が出来るか知っていますか?」
「っ!? な、何っ、何言ってんだよ!?」
突然の問いにエイトは思わず、エドワードに顔を向けて――その吸い込まれるような漆黒の瞳に捕まった。この世の闇も、汚れも、苦しみすらも全てを飲み込んだ漆黒だった。年齢の数だけ生きただけでは、きっとこの闇には染まらない。
漆黒の中に幾多の赤を見た気がして、エイトは思わず息を呑み、その赤に己の赤き瞳が溶け込む様を食い入るように見詰める。見詰めたまま、気が付いた時には口づけを落とされていた。
「っ……ぇ、ど……」
掛けたかったのは抗議の声か、それとも甘く溶けたような相手の名前か……
薄くなんとか開けたその口に、更に深く差し込まれる。バクバクと煩い心臓に火照る顔とは対照的に、頭の中では酷く穏やかに、エドワードを受け入れる自分がいた。
いくら相手が元軍人と言っても、筋肉量は若いエイトの方が多い。本気でなりふり構わず暴れたら、さすがのエドワードも諦めて離れてくれるだろう。何より今も絡まり合ったままの視線には、こちらを案じる光すら見える。
自然に流れる涙を乾いた指先が拭ってくれる。潤いの少ないその指先が逆に扇情的にエイトには映った。漆黒の中で赤が淫らな色に染め上げられている。こんな色、知らない。
男同士だ。今日初めて会った。相手は爺さんだ。退役してはいるが軍人だ。この街の人間じゃない。オレは幼馴染のことが好きなはずだっただろう。こんなことしてる場合じゃない。
心はそう悲鳴を上げるようにどくんどくんと大きく震えるのに、頭の中の穏やかな自分が、まるで首輪でも掛けられたかのように受け入れる。
このしわがれた手に触れて欲しい。潤いの少ないその舌先が心地良い。世の闇を全て納めたようなその瞳に、オレの痴態が映っている。乾いた色気のあるその声に、名前を呼ばれて芯から震える。
「エイトさん……知っていますか?」
「な、なに……が……?」
唇を解放されて、呆けたままでエドワードを見上げる。彼を受け入れた心を表したように、ベッドに押し倒された淫らな姿勢だ。ほんの少しでも離れるのが酷く不安に感じて、思わずその腕を掴んで引き寄せた。
もう一度短く唇を合わせて、エドワードは優しく「我儘な獣さんですなぁ。出会った時にはまるで、ハイエナのような気配だったのに」とふぉっふぉと笑う。そしてすっとその瞳を細めて、低い声で「可愛いですよ、エイトさん」と愛の言葉を零すのだった。
「子供はどうやって出来るか、ですよ。口づけも初めてのエイトさんには、難しい質問でしたかな?」
また楽しそうに笑うエドワードに、エイトは恥ずかしさで拗ねることしか出来ない。男女が一夜を共にすることで子供が出来ることぐらいは、さすがにエイトにもわかっている。でも……
「……詳しくは、知らない……」
エイトは知らないのだった。同級生で友達と呼べるのは女のデミのみだ。年頃の異性の友達に、そんな話題が振れるわけもなく。親も特に異性との間で問題があったわけではないので、エイトには何も教えなかったようだ。なにより身体を鍛えている方がずっと、異性といるより楽しかったのもある。もちろんデミのことは別問題だが。
「そうでしょう、そうでしょう」
うんうんと頷きながら、エドワードは優しい手つきでエイトの短髪を撫でる。また面積の広がった漆黒に囚われて、エイトの赤が色っぽく揺れる。
「スタンダードな手順でいくと、一つのベッドで男女が愛し合うことで、子供は出来ます。愛し合うというのは――」
そう言いながらエドワードがエイトの耳を舌先でくすぐる。酷く甘い声が出て、その声にますます羞恥心が高まり、頬の熱量が増した気がした。意地悪な舌先が首筋まで下がったところで、続く言葉をそのまま紡ぎ出す。
「こうして相手の心も身体も愛おしんで尽くすのです。相手の心も身体もぐずぐずに蕩けさせてあげるのです。気持ち良いですか? エイトさん?」
普段だったらこんな勝手なこと、絶対に許しはしないのに。どんな相手と喧嘩をしたって、どれだけ無様にマウントを取られようが、絶対にされるがままにはさせなかった。どんなに不利な状況になったって、最後には絶対的な暴力で、相手の権限を全て叩き潰してきたのだ。それなのに、この筋肉に衰えすら見える老人には、されるがままになっている。
――だって、愛されてるから……
エイトはわかっていた。自身が愛されているということを。産まれて初めての真の意味での愛情を、与えてくれたのは幼馴染の女でもなく、今日初めて会った老人だった。
名前しか知らない。所属を明かしてはくれたけど、それを証明する術はない。名前だってもしかしたら、本名じゃないかもしれない。年齢だって、見た目の年齢しかわかっていない。
しかし、この耳元で流れる言葉だけは何故か、信用出来ると確信していた。エイトの中の獣に近い鋭い勘が、老人の声が、瞳が、嘘偽りなく真実を述べていると告げていた。
「……きも、ち……いいっ」
目から流れる雫を舐めとられ、その優しい瞳に甘えるように縋る。すぐに求めていた口づけを再び与えられて、嬉しさに身を捩る。
エドワードの手が胸から腹、そして腰へと這い下りる。その異質な感覚に、エイトはびくりと震えて身を離した。答えのわからない若い身体が、しかしその答えを知っているかのように熱くなる。
「おやおや、随分お利巧にしていたのに、ココから先は許してはくれませんかのぉ?」
ふぉっふぉと笑って身を起こしたエドワードに、エイトはふくれっ面でそっぽを向いた。恥ずかしいし、なんだか自分が自分じゃなくなる気がした。熱く滾る下半身が、まるで獰猛な獣のように熱を持っている。
その時、部屋に電子音が響いた。それはエドワードが持って来ていたのであろう、部屋の隅に置いてあった黒い鞄の中から響いている。デザインが古臭い。いかにも老人が持っていそうな手持ちの鞄だった。
「お若いですなぁ。私も久々に楽しめました。お楽しみの途中で申し訳ありませんが、少し席を外しますので、お一人でなさるなり、なんなりと」
エドワードはそう言って、音が鳴り響く鞄を持って部屋から出て行った。あの音はおそらく携帯端末の着信音だ。廊下に出た程度なら声は少しは聞こえるかと思い、乱れた服もそのままに部屋に一つの扉に身を寄せる。
この部屋はベッドから扉まで一直線の造りだ。歩きにくい自身の身体に難儀しながら、それでもエドワードの声を少しでも聞きたくて息を潜める。
しかしその声が聞こえることはなかった。声どころか廊下には人の気配すらしない。いい加減、木製の扉にぴったりつけた耳が冷たくて、エイトは諦めて立ち上がり、服装と同じく乱れたベッドに戻るのだった。
「……クソジジイ」
悪態というにはあまりに甘いその響きに、エイト自身どうすれば良いかわからなくなっていた。