本編
幼馴染で少し気になる女友達であったデミが、屋敷の使用人として働きに出たのは、エイトが平均としては短い学生生活を終えた次の日のことだった。
「はー……軍学校、頭足りねえとか……笑えねえだろ」
ミドルスクールをなんとか卒業こそしたものの、エイトは次の希望進路であった軍学校への入学を拒否されていた。
エイトが住むこの『デザキア』の街では、軍人と言ったら男児の憧れ。危険な仕事のためにイコール老若男女問わず人気があるかと言われるとなかなか難しい職業ではあるが、それでも命を懸けるだけの価値はある輝かしい職種であることには変わりない。
大陸南部にある中規模の街であるデザキアには、軍隊は陸軍のみが設立されている。魔力を遮断する砂嵐に護られた大陸南部一帯の砂漠地帯。そこのほとんどを手中に収める砂漠の国の玄関口であるデザキアには、陸軍以外は必要ないためだ。
南部一帯を吹き荒ぶ砂嵐のために、この地方での移動は陸路に限られる。魔力を動力源にした乗り物の類は、細かい砂塵が入り込むために全て無意味な鉄の塊と化してしまうためだ。
砂漠の移動には危険が付きまとう。それは古からその地を闊歩する殺戮兵器然り、大型に進化した狂暴な野生モンスター然り。
古の時代、今より文明が遥かに進んだその昔、この地方には高度な機械文明が栄えていたらしい。その文明は乗り手のいらない無人の機械兵器達を駆使して、今から考えれば異常なまでの発展を遂げていたという。しかしそれも今では昔の話。今ではその文明は衰退し、主亡き今、その殺戮兵器達は『砂漠の敵を殲滅する』という古からの命令を元に、砂漠を横断する者を見境なく襲っているのだという。
大型の野生モンスターも脅威のレベルで言えば同等である。爬虫類をそのまま大型化したような種類が多く、サソリやトンボといった硬い鱗状の外皮に覆われたその体躯は、単純な体当たりだけでも充分な脅威となる。生物本来の機動力も損なわれておらず、街への実際の被害は機械達よりもこちらの方が多い。人の血肉を好む種類も多いためであろうと、昨日まで在籍していた学校の教科書には書いてあった気がする。
そんな外敵の脅威から街を守るのがデザキアの陸軍の仕事だ。危険地帯である砂漠に面した城壁を昼夜関係なく巡回し、海に面した港からは『他国の人間』という外敵が入り込まないように目を光らせる。本来ならば海軍が併設されるべきところなのだろうが、そもそもこの街――ひいてはこの地方とも言える――を襲撃“出来る”戦艦といったものは世界中でも皆無であった。
この地方一帯を覆い尽くす砂嵐のために、魔力を動力源とする大型戦艦の類は港に近づくことすらもままならない。小型の軍用船等は動力源が魔力だけではないので侵攻は可能だが、そもそも陸地に上がれば主力となるのは人の魔力である。武器に長けた人間を送り込むにもその数を送り込むことが困難であり、そこを理解した上でデザキアの陸軍は魔力に頼らない武器の扱いに長けた人選で構成されている。
わざわざそんな色々な意味で『不明瞭』な土地に貴重な戦力を裂く他国はおらず、今のところは大陸を纏める本部の意向に皆が倣い、表面上は平和な日常というものがおくられている。
空路と海路が遮断されているこの地方では、当然物資も陸路を進むことになる。そこには軍の武器弾薬もあれば、国民の生活品も多く含まれている。また国土のほとんどが渇いた砂漠地帯のために、この地域では収穫の難しい野菜等を確保するために、少ないながらも他国からの貿易品もあるのだった。
砂漠を進む物資の運び人は、古くから続く商人の家系が引き受けていた。彼等は軍隊さながらの武装を整えて死の砂漠に臨む。時にはそこに他国の冒険者等も同乗しているらしいが、この国に害がない者達に対しては砂漠の国は寛容であった。まるで『砂漠の渇きで死ぬのは勝手だ』とでも言うように。
デザキアもそれに倣って、砂漠の玄関口として昼間のみはその門を開放して、訪れる者達に砂塵の中での一滴の水のような、そんな一時の休息を与えているのだ。
そのためこの街には、長い砂漠縦断に向けての準備のために、たくさんの商人や冒険者が立ち寄るのだった。玄関口ということもあり、首都の『デザートローズ』よりもデザキアの市場は活気があるという噂だ。
「オレは無職で、あいつは屋敷の使用人って……」
エイトは今朝聞かされた幼馴染の就職先を思い出し、思わず呻いた。
命を充分に脅かす存在が蠢く砂漠には、それこそ腕に覚えのある者達しか挑むことがなかった。物流が商人達頼みな砂漠の国にとって、そんな彼等はまさに英雄であり、生命線でもあるのだった。
デザキアでも名の通った豪商『フリン・スペンサー』が住む大豪邸。平凡な家の出であるエイトでも名前を知っているぐらい有名なその大豪邸は、とても『珍しい募集』を行っていた。
上流階級に縁のないエイトには詳しいことはわからないが、幼馴染が上気した顔で語った話によると、スペンサー邸の主であるフリン・スペンサーは、使用人に男ばかりを起用しているらしい。それは『女嫌い』もしくは『男好き』ではないかと言う噂が立つ程に徹底的で、異常と言える程には病的だった。
そんな彼が、いきなり「女性の使用人を一人雇う」と言い出したのだ。金持ちの考え等わからないが、どうやら可愛い幼馴染は、その金持ちの気まぐれに上手くしがみつけたらしい。
幼馴染の彼女の名前は、デミと言った。住んでいた家が隣同士だっただけの、本当にどこにでもいるような幼馴染は、年頃を迎えて綺麗になったと思う。
砂漠の民の血を濃く受け継いだその茶髪は赤に近い色合いで、そのよく感情の現れる大きな瞳は愛らしさすら浮かぶ緑色だ。強い日差しに晒された肌は年中小麦色をしており、彼女の元気いっぱいの姿を更に際立たせる。
外見だけでなく中身も元気いっぱいの、それはそれは明るい女の子だったが、その反面草花を愛するという女の子らしい一面も持っていた。思い出されるのはとびきりの笑顔で笑う彼女の顔ばかりで、ただの一度も彼女の暗い表情なんて、エイトは見たことがないかもしれなかった。
その持前の人当たりの良さとでも言うのか、明るさと元気さで大豪邸の使用人という立場を得た彼女は、決意を胸にした表情で、今朝、エイトに宣言して実家を出たのだった。
『使用人として家事の腕を磨いて待っているから。エイトが迎えに来てくれるの、待ってるからね』
普段と同じ笑顔で、そう言った。自分は待っているから、と。
砂漠の国は貧富の差が他の国より激しいらしい。もちろん他国にもスラムは存在するが、この砂漠地帯の国のスラムは、それらを優に凌駕する規模で広がっているらしい。
エイトが住む地区は平凡な家系の家々が並ぶ質素な街並みではあったが、比較的スラムに近い部類に入る。上の階級にのし上がるには、貧乏人には軍属に就くという道が一番手っ取り早い方法で、エイトも“育ての親”からなんとしてでも軍人になるようにと、様々な『教育』を受けて育った。
物心がついた時には孤児となっていたエイトは、生まれついて力が強く、少しばかり短気な性格をしていたこともあり、人から奪えるものを奪いながら、時には巡回の軍人に袋叩きに合いながら、それでも強く逞しく育った。本当の両親は遠い記憶の向こう側で、折り重なるように倒れている姿がぼんやりと浮かぶ程度だ。
そんなエイトのことを拾う者がいた。今のエイトの“両親”であるその夫婦は、スラム転落瀬戸際の立場をなんとか逆転するために、『軍人になれる強さを持った子供』を欲していた。
体格自体は平均的で、むしろ男としては小柄な方のエイトだったが、それでもその強さを確信した夫婦に、すぐさま養子として引き取られた。孤児に出自の証明等何もなく、新たに作られた息子という証明には、幼き頃から名前のなかったエイトに、今の呼び名がつけられていた。その名前の由来が『八』であることをエイトが知ったのは学校に入ってからだったが、それが何を指しているのかはわからなかった。
学校でのエイトの成績は、とても悲惨なものだった。それは無理もない。見た目だけの憶測で年齢を推定されて、その年齢で通うはずである学年にいきなり放り込まれたのだ。その学校は一般的な家柄の子供達が集められたクラスだったので、エイトはたちまちイジメの対象になった。基本的な学習がわからないということもあったが、それよりも今まで道徳的な教育を受けていなかったことが一番の問題だった。
何故周りの人間達がそう言うのかが、エイトには本当にわからなかった。何故人のものを盗ってはいけないのか。何故この学習をしなければならないのか。何故この学校というところに毎日通わなければならないのか。
わからないことばかりの学校生活をそれでもエイトに続けさせたのは、親の『教育』とデミの存在だった。
問題行動の多いエイトのために、しょっちゅう両親は学校に呼び出された。その度にエイトには『教育』という名の体罰が課せられ、それを嫌がろうにも子供が大人の力に敵うはずもなく、捻じ伏せられてまた学校に向かう。
半年もそんな生活が続けば、さすがにエイトも慣れた。スラムで住んでいた頃の自由はなくなったが、安定した衣食住は提供された。学校という場所のルールに従わなければ体罰を振りかざす両親ではあったが、それ以外の面では『まともな親』らしい顔を見せてくれた。
筋肉を強くするために食卓にはいつもエイトが大好きな肉料理が並んだし、昼間のために持たされる弁当もしっかりと栄養を考えられた献立を詰め込まれていた。服装もエイトが好む系統がわかれば、――基本的には動きやすく、それでいて強そうな柄の入った服装が好みだ――ちゃんと好みに合わせて買って来てくれていた。
そして何より、軍人たるもの強くならねばならない、という考えの元の教育なので、同級生や上級生と殴り合いの喧嘩をしようが、教師の前では形式的に怒られるのみで、いくら服を破こうが学習道具を叩き折ろうがそのことについて咎められるようなことはなかった。
おそらくエイトの知らない裏側では、相手の家に謝りには行っていただろうと今になっては思うが、血を流しながらそれでも勝利して帰った自宅で見た、誇らしい笑顔の両親の姿だけは、ずっとエイトの心の中で熱く残るものだった。
そんな学校生活のせいで、エイトは最初のうちは友達を作ることが出来なかった。だが、そんな彼にまたしても助けが現れる。衣食住という生活の基盤を育ての親に助けられたように、学校生活での平穏をデミに助けられたのだ。
彼女はいつも元気で明るい、クラスの人気者だった。飛び抜けて可愛いというわけではなかったが、その天真爛漫な性格から男女共に愛される存在だった。そんな彼女がどういうわけか、エイトのことを熱心に気にかけてくれたのだ。
最初は怖がって遠巻きに見ていただけの彼女が、態度を改めたのには訳があった。それは彼女からその学校を卒業してから直接聞いたことだが、喧嘩を売って来た相手をぶちのめしながらも、雨が降れば倒れたままの相手に自身の上着を掛けてやったり、女性に暴行を働いていた悪漢を叩きのめしたりしていたのを目撃したからだと言っていた。
エイトがクラス中の噂に上がる『悪党』だとは思えなかった彼女は、それからは事あるごとにまとわりついてきた。家がたまたま隣だったことも利用するようにして、朝から夕方の学校の時間は全て彼女に拘束されたと言っても過言ではない。
そのために学生生活が始まって二年も経てば、ほとんど問題行動を取ることもなくなっていた。学校での『普通の行動』というやつを、教えてくれたのは彼女だった。
それまでしっかりとした教育を受けてこなかったエイトには、座学はとても難解なものだった。まず問題文の文字から怪しいので、デミはそこから丁寧に教えてくれた。結局あまり得意ではないまま卒業という形にはなってしまったが、それでも卒業が出来たこと自体、彼女にはいくら感謝してもしたりない。
座学とは逆に、エイトは身体を動かすことは得意だった。スラムで鍛えられた瞬発力に腕力は、同学年では敵無しで、単純なスポーツ競技から、軍人志望の学生のみが受講する体術訓練でも、エイトに敵う人間はいなかった。そんな華々しい成績も、あまりに座学が足を引っ張ってしまい無駄に終わってしまったが。
軍学校には現役で合格しないことには意味がなかった。エイトの育ての親は決して裕福ではない。軍人一本で目標を組んでいたエイトに、軍属以外に出来る就職先と言ったら、両親が忌み嫌う肉体労働のみであった。座学の成績が足りない弊害がここでも出て来て、ついに昨日、両親はエイトを家から追い出してしまったのだ。
軍に入れない出来損ないは必要ないとハッキリ言われ、薄い建物の壁のせいか、はたまた開きっぱなしだった窓のせいか、ささやかな私物と一緒に家の前に放り出されたエイトを、デミが涙ながらに自らの家に引き入れてくれたのだ。
デミの親も決して裕福ではない家柄だ。だが明るい彼女を育てたその両親は、エイトの境遇に同情的だった。
――人間の親ってのは、きっと……こういう人達を言うんだな。
久しぶりに食べる野菜スープの味を噛みしめながら、エイトはおそらく人生で初めて浮かんだ涙もそのままに、獣のように吠えたのだった。
その夜のことはきっと、一生忘れることは出来ないだろう。
うとうとした表情を隠すことなく自室に戻ったデミを見送り、エイトは彼女の両親に呼び止められた。
質素なテーブルセットの目の前に両親が並んで座る。エイトも対面する席に座る。無視してもう帰ろう――帰る場所等もうなかったのだが、それでもこの幸せな空間から自分は出るべきだと思っていた――とも思ったが、彼女の両親の思い詰めた表情が気になって、仕方なく席についたのだった。
『……デミを……娘を使用人としてスペンサー邸に送ることになった』
酷く重い口を開いて、彼女の父親はそう言った。言葉の意味がわからずにエイトが黙っていると、その沈黙の意味を理解した母親が、わかりやすく説明してくれた。
彼女は明日の朝ここを出て、もうこの家には戻って来ないのだと。
普通の使用人にはちゃんと暇は与えられる。しかし豪商であるスペンサーの大豪邸はその括りには入っていなかった。『働いている人間が消える』だの、『まるで軍部のような物々しさだ』だの、なにかと黒い噂が絶えない家であった。しかしその破格の待遇に、デミもこの両親も飛びつく以外に選択肢はなかったのだ。
スラム程でないにしろ、この区域の生活は貧しいものだ。学校という教育も、本来ならば後数年は受けるものなのだという。親の収入だけでは賄えないものは、その子供が働いて工面するしかない。
『エイト君……君はデミのことが好きかな?』
酷く優しい目をして、父親が問い掛けてきた。その言葉に頬が熱を持つよりも先に、真っ先に頷いた。これは彼女を助けるための『約束』だ。しょうもない照れや虚勢など必要はない。
使用人となった女性の将来は、正直あまり明るくはない。特に貧困層から引き揚げられた身なら尚更。その女性を唯一救い出せるのは、上の階級からの婚姻のみだ。
相手は豪商ではあるが、軍人になれば可能性はある。それに、軍人にさえなってしまえば、エイトの親も納得するだろう。あんな親でも親は親だ。育ててもらった恩だってある。頭が悪かった自分に問題があったのも事実だ。
エイトは言葉ではなく、心で両親に誓ったのだ。互いの両親、両方に。