本編
エイトはデザートローズの陸軍へ無事入隊した。正確には軍人のその下。訓練生というポジションだ。
スペンサー邸でのあの出来事は、公には公表されることもなく、エイト達が退却してからいつの間にか戻っていたフリンによって、地盤沈下のための事故として処理されたようだった。
その際、使用人のほとんどが亡くなってしまい、また地下にあった非常時の発電装置も破損してしまったために、大規模な邸宅の改修工事が来週からスタートするらしい。もちろんこれは、フリンによる嘘である。
使用人のほとんどは眠っていたために状況を知らない。だが彼は万全を期すために、その使用人達の全ての命を奪ってしまった。地下施設も爆撃により埋めてしまったらしく、これはしばらくは実験を行うことも出来そうにない。さすがに怪しい報告ばかりで、デザキアの軍内でも問題視される声が上がっていたようだ。
一応の目的である合成獣を始末したエドワードは、任務の功績を称えられた席でエイトの入隊を認めさせたのだが、彼からすれば合成獣の――いや、フリン・スペンサーの脅威はまだ去ったわけではないということだ。
「フリンはまだ生きていて、おまけに地位もそのままですからね。デザートローズの陸軍としては任務は成功と言えますが、特務部隊の彼からすれば失敗もいいところでしょうに」
いつものティータイムを愉しみながら、エドワードはそう言ってエイトにティーカップを渡してくれる。エドワードの言う『特務部隊の彼』というのは、もちろんイースのことである。
イースも混乱に乗じて特務部隊の南部支部に難なく逃げ切ったようだが、当初の予定通りにその視力を奪われてしまったらしい。先日、大胆不敵にも彼からの郵便物がエイトの宿舎に届いた時には驚いたが、そこはさすがに特務部隊といったところで、彼は軍の検閲すらも全てすり抜けて、エイトに『後日談』を伝えてくれたのだった。
「でもイースのやつ、けっこう楽しそうだぜ? 視力が無くなった途端に、鼻が利くようになったんだと。副業でやってる店が繁盛して困ってるって……そういやあいつ、目が見えねえのにどうやって手紙なんて書いてんだ?」
「エイトはイースさんのことがお気に入りですからね。私としては少しばかり面白くはないですが、彼もエイトにとっては必要な存在でしょうし。恋敵になるからと言って、周りの人間を取り上げてしまっても、そこには『成長』も『信頼』もないのですからなぁ」
「やっぱりエドワードはオトナだよなぁ。オレもそう、考えれるように頑張らねえと」
エイトがにっと笑い掛けてやると、エドワードは少し驚いたような顔をした。
「エイトは初めて会った時と比べたら、見違える程に良い男になりましたとも。精神的にも成長しましたし、今でも充分『自信に満ち溢れて』います。軍の同期達もエイトのことは褒めていますよ。なかには淡い恋心を持った者もいるようですが」
「相変わらずじじいは情報が早えなぁ。退役してんだから、毎日剣術指導になんて来なくても良いだろが」
「そこは、エイト。私の口から言わせたいのですか?」
そう言って怪しく笑った唇から、優しい口づけを落とされて、エイトは思わず窓際を盗み見た。
ここはエイトが住むデザートローズ内の軍人用の宿舎の一室。エドワードの推薦ということもあり、エイトは個室を与えられているのだ。部屋のグレードとしては平均的なので、広さや家具の質は大したことはないのだが。
軍での訓練や座学で一日の大半が潰れるのが今のエイトの生活だ。時間の空いた夜は教官に頼んで剣術の指導をお願いしたり、独自にトレーニングを重ねている。そしてその後は、エイドワードとのティータイム。二人きりの一日の終わりに感謝する、甘き甘き一時だ。
ティーセットはテーブルに避難させてから、質素なシングルベッドへエイトを押し倒したエドワードは、ふっと優しい笑みを落とすと、その視線を窓辺へと向ける。
インテリアに特にこだわりのないエイトの部屋は、必要最低限の家具だけが並ぶ、異常に物が少ない部屋だ。そんな部屋の窓辺には、この空間唯一の『飾り』が飾ってあった。
それは切り落とされた山羊の頭だった。正確には脳の一部とそれに繋がった、脳の大きさにはおよそ不釣り合いな小さな小さな心臓だ。それは山羊の頭の一部であり、それに繋がった人間の――少女の心臓だった。
とろみのついた液体の中に浮かぶ、『無機質な彼女』。まるで瓶の中の飾り物のようなその心臓と脳は既に、機能を停止してしまっている。生命の維持には充分の、デザートローズの科学者が作った持ち運べるサイズの培養槽に浮かんだ彼女は、エイトが『彼女を愛した』ら死んでしまった。
「エイトはまだ、彼女を愛しているのですか?」
エドワードの問い掛けに、エイトはこくんとひとつ頷いた。その手をベッドの下に伸ばして、ずるりと『彼女』を引っ張り出す。他の人に見られないように隠すように言われたそれを、腕一本の力だけで引っ張り出した。
それは、デミの身体だった。獣に心臓を奪われた後の、彼女の見た目を維持した身体。その身体をデミに『見立て』て、エイトは欲望を吐き出した。デザートローズに着いて初めての夜に、愛していた彼女を抱いたのだ。窓辺に浮かべた彼女の脳に向かって、愛の言葉を囁きながら、その脳が、心臓が、朽ちていく様を見詰めていた。
彼女の身体はやけに柔らかく、ぶにりと甘い弾力があった。愛しい彼女に服なんていらない。この愛を受け止めたくて、彼女もエイトを求めたはずだ。だからずっと、一緒にいる。この彼女の身体と脳と心臓があれば、それは彼女が生きているという証明になるのだから。この彼女ならばエイトのことを、孤立させるようなことはしない。嫉妬の瞳で彼女はもう、エイトを見ることはしないのだから。
「明日からはハーブティーにしましょうか。飲む以外にもハーブには、様々な用途がありますので」
「なんで? この前から飲んでるこの紅茶、すげえ美味いぜ? なんだか飲んだら頭もスーってするし、それに……エドワードのこと、もっと……欲しくなるし」
「エイト。私はもう年だからと、何度も言っているでしょう……本当に、貴方という人は……」
そう言いながらも深い口づけをくれるエドワードの腕の中で、エイトは甘えるようにねだる。本当の愛を、心からの愛をくれるのは彼だけだから。こんなにも愛おしい彼からは、いつも紅茶の香ばしい香りがする。
「イースさんからのお手紙ですが、まだ残しているのでしょうか?」
「? ああ。エドワードも見たいのか?」
「ええ。あのおちゃらけた彼が、いったいどんな字を書くのか気になりまして」
「けっこう綺麗だった気がするぜ? ちょっと待ってろよ」
エイトはそう言いながらベッドから立ち上がり、手紙を保管している棚の前まで歩く。いやに頭がぼーっとする。訓練の時にはそんなことはないのに、エドワードと部屋にいるといつもそうだ。心も身体もろくに動かず、彼のことで頭がいっぱいになってしまう。
棚の引き出しを開けて、四つ折りにされた手紙を取り出す。途端に紅茶の香りが強くなる。ふわりと漂う茶葉の香りが、エイトの視界を蝕んでいくようだ。
ぐらりと世界が回る感覚を覚えながら、エイトは視界いっぱいに広がった手紙の文章を、ぼんやりとただ見詰めていた。
『心から愛するエイトくんへ。
まあ、なんや……最初にちょっと気持ちが乗り過ぎたんは謝っとくわ。悪いな。
今エイトくんは「こいつ、手紙の文面まで訛ってる」とか思ったやろけど、残念。正解やわ。
身体の調子はどうや? デザキアでは色々あったけど、デザートローズっていう新しい土地で元気にやってくれてたら嬉しいわ。
僕はしばらくは視力に頼らん生活に慣れるために、デザキアで一般人生活をすることになってん。副業感覚でバーを始めたんやけど、これがなかなか繁盛しててな。また機会があったら遊びにおいで。
エイトくんのご両親のことを勝手に調べたんやけど、どうやらまた新しい子供拾ってあくどいこと考えとるみたいやったから、僕の方でちょっとだけ軽く叱っといたったわ。
これだけやとただの近況報告やな。こんなんのために手紙書いてたら、特務部隊失格や。でもな、こんなことを簡単に文面に書いてんのも、絶対バレへんて自信があるからやで。
さて、ここからが本題やわ。
エイトくんが慕うエドワードのじいさんやけどな。エイトくんが無事に陸軍に入ったら、出来るだけ、少しでも距離を取ることをお勧めするわ。
僕が調べれば調べる程、あのじじいは匂うんやわ。多分陸軍が極秘裏に制作してるであろう“新兵器”にも関係しとるし、もしかしたら被験者かもしれん。その新兵器の中身までは、さすがに割れへんかったんやけどな。
まだ断片的な情報しか得られてないけど、あれはヤバい。おそらくな、精神を犯す兵器やと、僕は思ってる。
デミちゃんの最期、思い出させたくなんかないけどさ、よー思い出してみ? あの赤黒い魔力はじいさんのものやった。
あの最期、デミちゃんの身体を抑えてたんは、あの子の心でもなんでもなく、じいさんやったんや。
寒気するような魔力やった。あんなんどう考えても真っ当な手段で作り出した魔力ちゃう。
それにな、じいさんからプンプンするあの香りな、加齢臭なんかとちゃうで。調べてみたら幻覚作用のある“薬草”の類やったわ。趣味の優雅な紅茶にしては、えらい鼻にくる香りやなて思っててん。
じいさん自体はもう男として終わっとるから影響ないみたいやけど、あの香りに長期間中てられてたらきっとおかしなってまう。
頭の中が女の子の……いやエイトくんなら男の子とか、言うのは癪やけどエドワードのじいさんのことで、頭がいっぱいになってるとかないか?
それか毎日毎日欲求が抑えられんとか、そんなことはない? おいおいさすがに欲求くらい、何のことかわかるやろ? エイトくんだってホラ……もう、立派な軍人さんなんやから。もうオトナやろ?
自覚症状が出てもうてるなら、早く中和なりしなあかん。まだそんなことはなかったとしても、あのじじいの香りには近寄ったらあかん。
陸軍にせっかく入れたエイトくんに、こんなこと言うんもあれなんやけどな。それに、本心から愛してもうてるんやろ? あのじいさんのことを。
でもな、僕にはエイトくんが大切なんやわ。エイトくんに嫌われたとしても、僕はエイトくんの安全のために、敢えてそれを言うんやわ。
だから早く逃げてくれ。あのじじいに利用されるんは、僕だけで充分や。この目と引き換えにこの手紙を出したんやからな。
どうかお互い、真の意味で“無事”に、また出会えることを願ってるわ。その時はまた話せたらエエな。いつか訪れる“その時”に、敵同士ってのだけは勘弁やわ。
追伸。この手紙入れた封筒は、エイトくんの魔力に反応して開くようになってる。せやから他の人には見られへんで。僕ら二人の内緒や。イース』
「おやおや、さすがは特務部隊ですなぁ。私の魔力に気付いただけでなく、それを媒介する得物にまで目星をつけているなんて。やはり特務部隊は、少数精鋭ばかりの危険極まりない連中ですな」
エイトの手から滑り落ちた手紙を、老人がするりと拾い上げる。その鋭い瞳で文面を睨み付けると、歪に歪んだ口元が、エイトへ愛の言葉を落とした。
「エイト。貴方は私のものですよ。貴方の身体はもう、この魅惑の『オリエンス』の虜。私の出身地の近くにある『魔法の畑』で収獲される茶葉なのですが、効力は……主な市場である若者達から言わせれば、『惚れ薬』というやつです。脳の働きが緩慢になるので、今のエイトには何を言ってもわからないでしょうな」
エドワードの乾いた手がエイトの頬を撫でる。身体は床に倒れたまま、感覚すらもぼんやりとしてきたエイトの瞳に映るのは、欲望に歪んだ老人の笑顔だった。
「こんな汚らしい『人形』は捨ててしまいしょう。“枕”が変わると眠れないと、我儘を言うのも終わりです。貴方はデザートローズ陸軍所属のエイトなのです。もうデザキアの人間ではない。これまでの貴方の人生は、きっと地獄だったことでしょう。しかしこれからはその地獄に、私が付き合いましょう。大丈夫、ずっと一緒ですよ」
愛おしそうに絡められる指先。ぴくりとも動かせない瞳に唇。その上に順にキスを落として、老人はまた微笑むのだった。
闇が広がる夜の空が、部屋の窓から小さく覗いている。その闇を溶かし込んだ漆黒が、満足そうに細められるその後ろで、窓辺に飾った彼女の残骸が、咎めるように浮かんでいた。その身の残骸を拒絶するかのように、培養槽にごぷりとひとつの気泡が浮かんで、消えた。
その心に確かに芽吹いた愛情という感情は、その気泡と共に脈動する悪意に塗りつぶされた。
END
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