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本編


 彼女の身体を抱き抱えて、エイトは地下への階段を駆け下りる。デミの身体を抱える役目を譲りたくなかったエイトは、この階段を駆け上がっていた時に決めた通りに、エドワードを先に行かせていた。
 デミを丁寧に抱き上げているエイトの隣を走り抜ける老人の姿は、正しく軍人のそれで。ここまでの道すがらはやはりエイトに速度を合わせていたらしい。これではきっと、イースも合わせてくれていたに違いない。
 二人の何も言わない優しさに今更ながらに涙が出そうになる。今日はやけに涙腺が緩い。これもきっと愛しいデミのせいだ。デミがこんなに柔らかくて甘い香りを腕の中で伝えてくるから、エイトの心が潤って、その雫がきっと、こんなにも……
「くそ……くそっ……」
 止まらない嗚咽だった。ここにはエイトの情けない声を聞く者は誰もいない。この邸宅にいる誰も、もう意識がないのだから。意識があるのは地下で戦う三人だけだ。それ以外の者達は、皆、廊下や部屋で倒れたまま眠りについている。
 エイトの暗黒の学生時代に、光を与えたのはデミだった。穏やかな、まるで陽だまりのような彼女の声に、差し伸べられたその小さな手に、エイトは救い出されたのだ。その声には決して獣のような声は似合わず、その手には他者を傷つける凶器等似合わない。
 自分を助けてくれた彼女を、エイトは助けることが出来なかった。その身体に幾度となく『躊躇い傷』を刻み付け、多大なる苦しみを与えながらその“命”を断ったのだ。許されるはずがない。
――命って、何なんだろうな。デミ……
 エイトは抱えたデミの身体に視線を落とす。血に汚れた顔面は拭き取り、彼女に似合わない爪は外した。腕や足は傷跡だらけになってしまったが、それは敢えてそのままにした。これは自分の罪だからだ。
 老人は言った。人という存在は、『果たしてその身体のことを言うのか、引き抜かれた心を言うのか』と。このデミの“身体の心臓”は尽きてしまったが、その“命”は合成によって混ぜ合わされた獣のうちの心臓<余りモノ>だ。デミの心臓はまだ、あの獣の中で生きている。
――デミっ! あの獣の中で、お前はまだ生きてるのか!?
 緑がかった液体に浮かんだ獣の姿を思い出す。水槽から出た姿ではなくそちらの姿を思い出すのは、きっとあの『瞳』のせいだろう。水槽の中で獣が見せていた、驚愕に大きくなった瞳。あれがもし、デミの心から来る反応だったとしたら。獣に心を移されたデミが、水槽越しに自らの姿を見て、その惨状を悟っての瞳だとしたら。
――絶対、助けるからな!
 その手に抱えた彼女の身体が、やけに重く感じられた。それはまるでエイトを責めるように、重く重くエイトにのしかかっていた。 









「エイト! 来てはいけません!!」
 エドワードの叫び声に、エイトは思わず後ろへ飛び退った。一瞬前までエイトがいたその空間に、巨大な爪痕が刻まれている。大型の獣のものであるそれは、先程までエイトを襲っていたデミの爪先とは、比べものにならない程に巨大だった。獅子の爪先から繰り出されたのだから当然だ。
 エイトは地面にデミの身体を寝かせると、“消失した魔力の源”の姿を探す。だが――
「あかんで。ここの主サンには逃げられてもた。特務部隊失格やわ。このままやと失うん、この目ぇだけで済まんかもしれん」
 ぶるりと震える素振りまで見せて、イースがエイトに微笑み掛けた。聞き捨てならない言葉が並んだが、イースからは悲壮感は感じられない。
「エイトの前では随分格好をつけるのですね。私が先に着いた時には、八つ当たりのようにあの獣へ攻撃を放っていたのに」
 そう言って薄く笑うエドワードのことを、イースは軽く睨んだが、やはりその表情には暗いものは感じられない。
 どうやらイースは獣との戦闘に苦戦しており、その隙をついてこの邸宅の主であるフリン・スペンサーには逃げられてしまったらしい。実験場も生み出したモノすらもあっけなく捨てて逃げたのは、この状況を己の身と共に押さえられることを嫌ったからだろう。
 フリンはイースの所属はわかっても、その目の秘密は知らないはずだ。彼は生きてこの場を脱しさえすれば、己の罪の記録が公になるとは夢にも思っていないだろう。だが、当の目を持つ本人としては、本部への『献上品』は完ぺきを求められる。状況の証拠だけでなく、その身を連行するために、彼は今、ここにいるのだから。
「あーあ、どないしよかなー。僕、ほんまに首飛ぶかもしれん。あの逃げっぷりやったら、ここから逃げ出した後の算段もつけてるやろしなぁ」
「この現場の記録があれば、それだけじゃ駄目なのか?」
「この映像記録だけやと、頑張れば誤魔化せるねんなぁ。元々僕ら特務部隊は南部の軍とは仲良ぉはないし、街の利益取るってんなら胡散臭い特務部隊の証拠よりも、自分らで疑惑の商人を監視しましょーってなるやろな。それこそ軍に戦力として合成獣を提供してもろて、警備は南部の軍が担当するとか、な」
「おそらくその線はないでしょうな。デザートローズの上層部では、既に『獣』を使役しての戦闘は時代遅れと言われております。まだ爬虫類型や軍用犬型はちらほら配属されていますが、違う形に取って変わるのも時間の問題でしょう」
「……へー? その『違う形』ってのが、どうか僕が思ってるモンと違ってることを願うわ」
 怪しく笑う二人の視線が歪に絡まる。そこに火花とも探り合いとも取れる独特の熱さを感じて、エイトは視線を真正面に戻した。
 エイトはもう、まんまと逃げることに成功したフリンのことは考えないようにする。この場にいない人間のことはもう、考えても仕方がない。一番痛手であろうイースすら、もう彼のことは意識の範疇から除外しているに違いない。彼は今、エイトの数歩前でエドワードと共に、巨大な獣――デミの心臓を宿した獣と対峙している。
「特務部隊とは恐ろしいものですね。エイトさん、あの獣から確かに、デミさんと同じ魔力の波長を感じます。さすがにあの巨体のままでは危険な生物ですが、その心臓とそこに直結した頭部程度なら、なんとか助けることが出来るかもしれません」
「はぁっ!? じいさん何言ってんねん!? 何が『助ける』や! せめてあの獣ぐらいは持って帰らんと、僕の首が吹き飛ぶんやぞ!?」
「目が引き摺り出されるのですから、今さら首から下なんてどうでも良いでしょう」
「良くないわ! 確かにこんな時代や。魔力と科学を駆使したら、生きたままって前提で首から上さえ残ってたらなんとか生活は出来るやろうけど……って、まさか! この獣の中の子を、それで『助ける』って言うんか?」
「それが『助ける』ことになると、エイトが許してくれるのならば、ですが……」
 そこまで言って、エドワードの鋭い瞳がこちらを振り返った。老人越しにこちらを見据える獣の瞳は、やはり優しい彼女そのもので。エイトが戻ってくるまでの間、相当暴れたのだろう。空間のあちこちに獣の爪痕が走り、そしてその強大なる獅子のところどころに、生々しい剣撃の痕が刻まれていた。じくりと赤黒い血が滴るのは、生物としての理を歪められた故だろうか。
 エドワードもイースも、そして獣も、エイトの答えを待っていた。しかし――
「それって、デミはどうなるんだ?」
 大事な説明がなされていないのだ。獣の心臓とおそらく頭部を引き剥がす。獅子の身体の部分はもちろん、その上部の山羊の部分の上半身。そこでデミは、『生きて』いるのだろうか。
「獣の身体の器官を引き剥がすので、もう人間の頃の彼女のようにはなりません。言葉を話せず、その醜悪な山羊の頭部で物事を……理解、出来ると良いのですが……」
「あの子の魔力は心臓だけやろ? ならあんな頭、いらんやん。それこそ心臓に身体<人形>繋いで――」
「――あの瞳を見るに、ある程度の感情は脳に移っているようなので、引き剥がすのは心臓だけでなく頭部も必要だと判断しました。イースさんが言うように、心臓だけならばまだいくらでも、『人型』に寄せられたのですが……」
「デッカイ山羊の頭やからな。それにあの声帯やと、出せても唸り声か鳴き声や。まぁ、エイトくんがそっちの趣味なら、啼き声ぐらいは出すかもやけど」
「気持ちを通じ合わせるのはその瞳のみ。それでもエイト。貴方は彼女を『助け』ますか?」
「よぉ考えや。エイトくん。心臓と頭だけの命を繋げるには、生命維持のための装置にずっと繋ぎっぱなしになるってことや。そうなったら彼女にはもう自由はない。もちろんこの獣の姿のままってのもナシやで? それは僕も、このじいさんも命令に反することになるから見逃せへんわ。あくまで『合成獣』としての危険性がなくなった状態なら、持って帰ってエエでって言ってるねん」
 二対、いや三対の真剣な瞳にエイトは晒される。全ての闇を飲み込んだような漆黒が細められ、暗がりから湧き出たような青が同情からか淀む。その瞳に浮かぶ四角からは、無機質な起動音が響いていた。
 目の前の、困惑に揺れる緑と目が合った。思えば彼女の瞳は、ずっとそうやって困惑に揺れていた。緑がかった液体に揺れるその瞳も、そこを突き破って獅子の足でこの地を踏みしめた時も、エイトの前で、その緑はずっと揺れていた。驚愕に、そして――
「デミ?」
「エイト。もう彼女は、人としての喜びを感じることは出来ません。貴方のその愛情も、彼女に真の意味では理解してもらえなくなってしまったのです」
「僕もあんまり、その選択は賛成したないわ。エイトくんまだ若いんやし、エエ女も男もこれからいっぱい――」
「――黙れよ。お前ら二人共……デミの目を見もしないでっ……デミがあんな目をしてるのは、お前らのせいじゃねえのか!?」
 エイトの言葉に、こちらを見る二対の目の質が変わる。全ての闇を飲み込んだような漆黒は鋭いものとなり、暗がりから湧き出たような青は、その口元と共に歪められた。
「なんやな、お前……けっこう鋭いやんけ。自分が来るまで僕らが『何した』んか、わかってもたんや?」
 イースはエイトに向き直ると、犬歯を剥き出しにして笑った。端正な顔立ちの悪い笑みは、人間の根本に恐怖を植え付けるには充分で。それはイースが初めて見せる、人殺しの狂気だった。悍ましい過去の犯行を語った時にすら感じなかった、重く深いその悪意が、鍛え抜かれた身体から滲み出ている。
 銀の剣をだらりと持ったまま、彼は身に着けていた使用人の服を脱ぎ捨てる。下に漆黒の制服を着込んでいたイースの表情は、正真正銘『特務部隊』の顔だった。冷徹で、一切の私情を挟まない。軽薄そうな口元は歪み、そこから流れる言葉には、その意味の奥底に確かな悪意を隠している。
 彼はもう、獣に視線を向けることすらしない。その視線はエイトのみに注がれていた。それは隣のエドワードも同じ。彼等は、わかっているのだ。獣は自分達の脅威になりえないということを。
「……デミに……何したんだよ?」
 『彼女の目』には深い『困惑』と、『恐怖』が映っていた。言うならば、その二つの感情のみに揺れていた。そこにエイトへの愛情等、最初から浮かぶこともなかったのだ。あるのはただ、『人への困惑』と『人への恐怖』。それは獣としては当然の反応で。
 しかしそれを植え付けた者は、この目の前にいる二人なのだ。獣はなにも最初から、人を恐れることはない。そこに恐れを抱かせる、それだけのことをしなければ。
「この獣……あー、デミちゃんと混ざる前な。凄い暴れるからこの培養槽に入ってるんやけど、なんとか暴れさせてフリン・スペンサーごと自滅してくれへんかな思て、これに使う水にもちょっとずつ僕の魔力混ぜ込んでたんやわ。でも全然暴走せんくてなぁ。どうやらずっと眠らされてたみたいやわ。おかげで一か月は時間無駄にしてもた。まぁ、それでも、エイトくんらと会えたから良かったっちゃ良かったんやけど」
「イース、お前……最初からここの存在わかってたのかよ!?」
「まぁ、ある程度はわかってへんと潜入なんて危ないことせんからな。もっとハッキリしてたらそれこそ、最強の狂犬部隊が直接乗り込んで来るぐらいするやろけど。とにかく僕の任務はこの合成獣を無力化してこの施設を破壊することや。当人は逃げてもたけど、それだけやっとけばしばらくは合成獣も造れんやろ。邸宅の改修もせなあかんし、数年大人しくさせといたら、当面の安全は保障される」
「おや、そんな生ぬるいことで上層部が納得するのですか? 彼等の目的はフリン・スペンサーの首と、この施設の記録でしょう?」
「それは、そうやけど……エイトくんに同情するんは本音やし。どうせ僕の目はこの任務までや。それなら『任務の真実』をエイトくんのために、『目を瞑って』無かったことにするんも悪くないわ」
「……フリンのことはどうでも良い。デミをどうしたって聞いてんだ」
 気を抜けば獣のような唸り声を上げてしまいそうになる。やはり自分は獣だと、エイトは改めて思い知った。目の前の緑を見詰めながらエイトは、学生時代に呼ばれた自身の悪評のことを思い出していた。
 幼い頃から体格は、年齢にしては小さかった。だが、その小柄な体躯を武器に、エイトは他者を寄せ付けないまでの強さを手に入れたのだ。例え井の中の蛙だろうが、エイトがその学校内で敵無しであったことは事実なのだ。軍からやってきた講師にもたくさん褒められたのだから本物であろう。
 獅子程の強靭なる体躯も、鷹のような鋭い瞳もない。己にあるのはこの小柄な体躯だけ。鍛え上げた若い肉体と、足りない頭。そして――残骸<引き剥がされたモノ>に手を伸ばす躊躇い。
 エイトはハイエナだと呼ばれていた。しかし、エイトはハイエナではなかった。ハイエナにはなれなかったのだ。彼等のように食べ残された残骸に手を伸ばす、引き剥がされたモノすらも食らう。その光景を直視出来ない。
 憎しみに赤を濃くするエイトを見て、イースの笑みが大きくなる。その表情が全てを語っている。彼の魔力を源とする、残酷な裏切りを。
「液体越しやと埒が明かんから、さっきあの子の理性を眠らせたんやわ。そしたら全然飼い主のこと狙わんくてなぁ。腹立つで。せっかく魔力使っても意味ないんやもん。やから、ちょっと……魔力の枷を強めたんやわ」
「魔力の枷、だと!?」
 イースの魔力は『対象の脳の一部を眠らせる』力がある。その魔力を強めるということは、生命活動に支障が出るのではないのか。
「僕ら特務部隊にとっては、あの子の脳なんて必要ないからな。継ぎ接ぎの技術見れたらそれでエエから、パーツは下半身だけで充分や。やから行動を統率してる頭をクラッシュさせたろう思て」
「そんなことしたら、デミはっ!」
「あー、仮に心が脳にまで到達してたとしたら、あの子の心は壊れてまうやろな。でもな、べつにエエやろ? だってお前はその時、ここに居いひんかった。最初から醜悪な獣の頭やったって言ったら、それでお終いやん?」
「っ! ふざけんなっ!」
 軽薄そうに笑う青に向かって、エイトは拳を叩き込む。だがエイトの拳は空しく空を切り、身体を捩じって避けたイースが、その腕をぐいと抱え込み拘束する。腕を捻り上げられて、エイトは苦悶の声を上げながら無様に地面に押さえつけられる。
「ふざけてんのはエイトくん、お前やろ? あんな山羊の頭、持って帰ってどないすんねん? 人間はな、『相手から人間らしい反応が返ってきて、初めて満足する生き物』なんやで? そんな人の真似事すら出来ん獣の頭を持って帰っても、愛せるのは最初だけやで。僕が言うんやから間違いないわ」
「貴方のその目……やはりあの者の目でしたか……」
「っ……目、だと?」
 どこか納得したように肩を竦める老人には、エイトに説明しようとする素振りはない。あくまで『事態を理解はしたが、詳細までは興味がない』とでも言いたそうなその態度に、エイトは時折走る激痛に耐えながら聞き返す。エイトが隙を見て立ち上がろうとする度に、イースが関節を極めてくるためだ。
「僕のこの目ぇ、キレーやろ? これはな、僕の恋人の目ぇや。このじいさんに殺された」
「!?」
「その節はどうも。とてつもない手練れでしたので、思わず私も本気で相手をしてしまいました」
「そのせいで恋人は、首から下どころか鼻から下が吹き飛んでもうた。それでも非戦闘員が犠牲を出しながら回収してきたのは、そいつの目に映像を記録する機械が埋め込まれてたからや。情報の詰まった脳と目だけになったあいつは、記録の回収のために延命されてた。記録を引き出す“処置”をした後、廃棄処分されるあいつを僕は引き取ったんやけど、ずっと部屋の培養槽に浮かんだままのあいつに、僕は『疲れて』もうた」
「何を問い掛けても応えは返らず、しかしその瞳だけは一人前に感情を映す。そうでしょう?」
「全くもってその通りやわ。じいさんも僕以上にえげついことしおる。脳と目ぇだけになってもても、最初は僕も愛してたで。そりゃそんな見た目になってもても、持ち帰るくらいには真剣に愛してたんやもん。でもな、その姿の相手に欲情は出来んかった。一年も経てば生身を纏った他人に目移り<逃げ>もしたなる。そんな生活を続けてたら、いつしかあいつの目は、僕のことを軽蔑するようになってた。任務で疲れて帰ったら、あいつの目がいつも問い掛けてくるねん。そんなん、耐えれへんやろ?」
 イースの声に嗚咽が混じった。その青き美しい瞳には、無機質な四角が浮かんだまま。その四角から逃げ出すように、感情の雫が零れ落ちる。
「貴方は本当に……特務部隊ですね。決して私情を挟まず、任務を第一に行動出来る。私のことは最初からわかっていたのでしょう? よくも僅かな殺意も見せずに、私の前に立てましたね」
「それはお互い様やろ。それに僕はもう、“吹っ切った”からな。物言わぬ目線に耐え兼ねて、気が付いたらその脳みそを叩き潰してた。もう、自分が何をしたかったんかもわからんわ。だからな、エイトくんは僕みたいになったらあかんねん」
 イースがその青の瞳で、エイトの顔を覗き込んで来る。部屋の照明は白のまま、その白に染まりもしない暗闇に淀んだ青だった。綺麗な色だと出会った時にはエイトも思っていたが、それが今は、どこか哀しくそして暗い。まるでその瞳に落とし込まれた深い憎悪に染まったように。その憎悪はきっと――
「……嫉妬だ」
「へー、お前ほんまに鋭いな。これも全部じいさんの教えか?」
「ほぉ……正解ですよ。エイト。お若いのによくわかりましたね」
 その瞳は嫉妬に満ちていた。それとよく似た瞳を見せつけられた後だから、エイトにもその感情はよくわかっていた。自分にとって一番大切なその人が、どこからともなく現れた他人に奪われていく。そんな現実、耐えられない。でも、今の自分は人の形すらしていなくて……
 嫉妬の憎悪を宿した緑が、目の前で揺れている。それは『エイトへの困惑』だった。鋭すぎる女の勘が、エイトの心に巣食った想いを敏感に嗅ぎ取って、失くした言葉の代わりに問い掛けていたのだ。『何故?』、『どうして?』、『なんでその老人に愛情を抱いているの?』と問い掛ける。
「それは……」
 咄嗟に言葉を紡ごうとして、それがまるで彼女への言い訳のように思えて、エイトはそこで口を噤む。緑の瞳は真っ直ぐエイトを見据えたまま。責めるようにも失望したようにも、その緑を揺らしている。
――オレの言葉はもう、言い訳にしかならないのか?
 愛しい彼女だった。愛しかった。この身に愛を教える男がいなければ、ずっとずっと愛していた。今でもデミのことを愛している。しかしそれは、胸を焦がすような狂おしいまでに求めるこの気持ちとは違っていた。
 彼女は――エイトを求めはしても、エイトを押し上げる存在ではなかったのだ。彼女はエイトの学生生活を救いはしたが、助けはしなかった。
 学内で孤立するエイトの隣で、彼女はいつも一緒にいた。しかしそこに他の輪を繋ぐことは決してしない。彼女はきっと、エイトのことを……独り占めしたかったのかもしれない。
 学内でも登下校中も、彼女はエイトを独占することに成功した。頭が足りないという問題は、勉強以外にも問題があったようだ。自分に友達がいないことはずっと理解していた。だがわざわざ作る必要性は感じていなかった。それは何故か。デミがいたからだ。例え異性でも女友達でも、それは特別な友達であり、唯一無二の、彼女がいればそれで良かった。
 でも、本当は……
 エイトは心の奥底では、友達を求めていたのだろう。だから気さくでまるで兄のような、イースの存在に安心感を覚えた。今ならわかる。その安心は、心の平穏に他ならない。人の心に敏感なエイトが、彼女の心を蝕む小さな嫉妬を、見抜けないはずがないのだから。他の女を排除していた彼女の心に、エイトは気付かないフリをして、そしてそこに微かな疲れを感じていたのかもしれない。
 そして彼女は、思い描く未来のために仕方なく使用人となったのだろう。本当ならばどこかで働きながら、エイトの軍人になるという夢を一番近くで見守って、他の人間を寄せ付けずに、二人だけの未来をつくるはずだった。しかし――
 エイトの目の前に、軍人が現れた。その軍人は老人で、正確には退役軍人だ。デザキアではなくデザートローズの所属ながら、その多大なる功績のおかげで、軍の上層部にも口を利くことが出来る立場にある。彼は約束してくれた。エイトをデザートローズの軍へ迎え入れると。さすがに家族までは難しいだろうが、エイト一人ならば問題はないだろう。
 エドワードはエイトの望む全てを与えてくれる存在だった。軍人という立場も、そこに至るための技術と心得も。そして何より、寂しさを抱えたこの心に深い愛情を与えてくれる。
 それはまだ子供であったエイトの心を育むには充分で。何もかもが未熟なエイトを、エドワードは怒ることもなく包み込んでくれるのだ。そこにあるのは愛情だけ。そこには決して嫉妬はない。醜い独占欲も他者を拒絶する幼き女もいない。
 軍部に所属する人間は、男性が八割だと言われている。それはこのデザキアの街に限ったことではない。大陸全土の都市において、女性の軍人の割合は男性に比べると圧倒的に少ないのだ。それは男女の筋力の差の違いもあれば、単純に命の危険のある仕事に対する意識の違いもある。娘の軍隊入りを諦めさせたという話なんて、腐る程聞いたことがある。また、軍の中でも妊娠の問題がある女性は、長期の遠征に配属しにくいという話もあるらしい。
 デミはそんな男ばかりの環境に、一種の安心を感じていたのかもしれない。男ばかりの軍という環境ならば、愛するエイトを奪われる危険も相対的に低くなると考えたのだろう。だが、デミは――この点においてはエイトも、エドワードに出会うまではそうだったが――幼かった。男性を好む男性だって、世の中には存在するということを、幼い彼女は考慮していなかった。
 獣に心臓<心>を奪われて、動揺と共に緑がかった液体に揺れるデミの瞳に、もう会えないのだろうと諦めた愛しい男の姿が映った。その瞬間の彼女の喜びは、きっとエイトが考える以上の幸福だっただろう。しかし彼女はその次の瞬間に、抱えていた動揺等どこかに吹き飛ぶ程の、『新しい動揺』を叩きつけられることになる。
 『その人は誰?』と問い、『どういう関係なの?』と問い、そして『なんでそんな顔でその人を見るの?』と問い詰める瞳。彼女の声ははっきりと、エイトの心に響いてくる。その揺れる緑がそう告げている。
「オレはこの人とデザートローズに行く。そこで軍人になる。もうこの街には戻らない」
 そう言葉に出した瞬間、心の中に燻っていた迷いが消え去った。気持ちを言葉に出したことで、自分の中の気持ちが固まったようだった。
――オレはもう、戻らない。この街にはオレを、愛してくれる人はいないから。
 独占的にエイトを愛しながら、他者の輪から孤立させた幼馴染は、もう人ではなくなってしまった。醜悪なる山羊の頭を借りて、その緑の瞳をずっと、エイトへと注ぐのだろう。嫉妬の光を宿した緑を、朽ち果てるまで晒すのだろう。それは愛であって、愛ではない。
 エイトを幼き頃から育てた両親も同じだ。彼等は手に入れた息子が軍人になれないと知った途端、手のひらを反して捨て去ったのだ。そこには元より愛はなかった。ただ、育てた。そこに愛を見出そうとしたのはエイト自身だった。いつしかその言葉を『恩』と言い換え、勝手に生きる目標としていた。
「デミ……デミのことは本当に愛してた。いつも明るくて優しいお前のことが、オレは本当に大好きだったんだ。でもな……ごめん」
 山羊の頭が悲鳴を上げた。その切り裂くような悲痛な声に、エイトは思わず目を瞑る。獣の足が一歩踏み出す気配がする。そのまま一歩の跳躍でデミの心を宿したあの獣は、エイトの眼前に易々と迫ることが出来るだろう。そのまま嫉妬に狂った巨大な爪で、その獅子の爪先でエイトを粉微塵にするのだろう。
「……デミ?」
 獣の腕が振り下ろされることはなかった。獣の腕は大きく振り上げた姿勢のまま、ミシミシと音を立てて止まっている。その腕のところどころに走る傷跡から、どろりとした赤黒い液体の脈動が覘く。
「エイトを本当に愛しているというのなら、せめて見送ってあげなさい。それが“今”の貴女に出来る、最良の選択です。獣にその憎悪は擦り付けて、綺麗な心で愛する彼と一緒にいてやれば良いのです。私はエイトとデミさん、二人の幸せを願っておりますので」
 獅子の爪が振り下ろされることはない。太陽のように明るい瞳が、一瞬顔を覗かせる。ミシミシと震える身体の脈動が、えらく寒々しく獣の傷跡を這い回る。
――あれは、憎悪だ。
 赤黒き、目に見える憎悪だった。獣の四肢にまるで巻き付くように、その憎悪はカタチを成していた。寒々しくすら感じる魔力が、獣の動きを封じている。その身体の最期の時を、待っているかのようだった。獣は、動かない。
「デミ……お前をその獣の身体から解放する! だから! その心だけでも、オレと一緒に行こう!」
 山羊の口が開いた気がしたが、そこから彼女の声が聞こえることはなかった。悲鳴とも、断末魔ともとれない酷く哀しいその声を掻き消すようにして、エイトは獣の首元へと飛び掛かる。
「エイト! これを!!」
 エドワードが叫んだ瞬間、エイトの目の前の空中に、赤黒く脈動する大剣が現れた。獣の太い首すら切断する、首切りのための刃であった。エイトが両手でその大剣を握ると、赤黒い柄がどくりと震えた。そこからは深く重たい、エドワードの魔力が感じられる。
 空中で大剣を振り上げる。いやに時間が長く感じた。
――デミっ!
 エイトが大剣を振り下ろす瞬間、緑の瞳が諦めたように閉じられた。そこから流れる大粒の雫には、エイトはどうか、見ないフリをしていたかった。
 強大なる魔力が切断面から溢れ出て、白の空間を埋め尽くしていく。獣の体内から行き場を失くした魔力が流れ出て、エイトはその膨大な波に流されていく。
 心がこんなにざわつくのは、きっと切り落とした彼女の憎悪のせいだろうか。
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