本編
逃げたデミを追い掛ける最中、エドワードはエイトに言った。走りながら、お互いの視線は前を向いたまま。それでも彼の心は、表情は、まるで手に取るように伝わってくる。
「あの子はもう、元には戻らないでしょう。彼女を……いえ、エイトさんのためにも、デミさんのためにもちゃんと言いましょうか。デミさんを殺すのは、私に任せて貰えませんか?」
「……」
エイトはエドワードの優しさに涙が出そうだった。彼は、エイトに手を汚させるつもりはない。その罪を、エイトがこれから抱えるであろう悪夢すらも全て、その手で引き受けようと言ってくれているのだ。
――そんなこと、思わねえよっ!
エイトがこれから抱えるであろう悪夢。『愛する彼女をこの手で殺した』という悪夢を、『愛する彼女を殺した相手』へと書き換えようとしてくれている。人間の心はそれだけ脆く、また、そう『改ざん』してしまった方が、きっとエイトが生きやすいと、『生きる希望がある』と老人は言ってくれているのだ。
心が拒否する今の状況ならば、エイト自身、きっとそう思い込むことも出来ると思った。だが、それはしないのだ。それは自分にとって良くないから。愛する彼女にトドメを刺すのは、きっと自分自身の役目だからだ。
「エイトさん。彼女にはもう人の心はありません。今、こうして私達を引き離しているのも、エイトさんが彼女の身体を追うであろう、そしてそのエイトさんを私が追うであろうという、主の読みによる命令の他ないのです。敵の目的が我々の分断であるとはっきりしている今、私達は早くイースさんと合流する必要があります」
「つまり、イースが危ないって、ことか?」
「ええ。彼もかなりの力量ですが、しかしわざと分断させてくるような相手です。何か策があるのかもしれません。先程の口ぶり、特務部隊が彼だけだと見抜いているようにも取れました」
「そうなのか……わかった。オレがやる」
「エイトさん?」
鋭い漆黒の瞳がこちらを向いた。探るように細められたその瞳に、隠し立てをするようなことはしない。心の奥底まで覘かれるその瞳の前では、どんな強がりも意味がない。
「デミを守れなかったこのオレに、あいつの最期を看取らせてくれ」
「……わかりました。辛くなったらいつでも……エイトさんばかりが傷つくのを、私は許すことが出来そうにありません」
「ありがとう。オレは大丈夫だから。だから……デミが、終わったら……オレのことはいいから、イースの援護に行ってくれ」
「わかりました」
「それと、デミとオレのことは手出ししないでくれ。オレは……あいつはオレをいつも受け止めてくれていた。オレも最後ぐらいは、受け止めてやりたいんだ。男として。だからオレを、甘やかさないでくれ」
硬く握りしめたエイトの拳に、エドワードが手を伸ばしかけたが、その手がエイトに触れることはなかった。手を戻したエドワードは、視線も前に戻して言った。
「男として……ですか。わかりました。どうかその言葉が偽りとならないように、私は見届けさせていただきましょうか」
軽薄そうな笑みを浮かべて笑う老人の漆黒に、足を止めた彼女の後姿が映り込んでいた。
大広間の真ん中で立ち止まったデミの身体が、ふらりと不可思議に揺らぐ。その瞬間、彼女はエイトの首筋に向かってその鋭い爪を翻していた。反射的にエイトは、爪を装備した彼女の腕を手刀で弾き、機動力を奪うために、足にもう片方の拳を叩き込む。
バン、と激しい打撃音が響くが、その手ごたえにエイトは舌打ちしたい気持ちになった。彼女の腕と足は、打撃の衝撃で赤く腫れ上がり、皮膚が浅く切り裂かれている。だが、彼女は躊躇うこともなく攻撃を続ける。そこに人間の恐れはなかった。
凶器を装備したデミに対して、エイトは素手である。いくら傷つけたくない相手だと言っても、彼女の攻撃を捌くためには、ある程度彼女の身体へダメージを与えることは致し方ない。デミの攻撃を凌ぐエイトの戦闘センスは本物だ。デミはエイトに対して決定打を与えることが出来ない。その代わり、エイトはデミに対して決定打を放つことが出来ない。小さな傷がお互いの身体に刻まれていく。
――何を躊躇ってるんだ。オレは、今から、デミを……っ
じわりと視界が滲んだ。必死に抑え込んでいた感情の波が、雫となってエイトの双眸から流れ出す。慌てて手で目元を拭うが、それがエイトにとっては大きな隙となってしまった。
視線を彼女に向けた時には、既に命を奪わんとする殺意の爪先はエイトの目前に迫っていた。その血に汚された爪先は、微かに甘い香りを孕んでいる。
「デミ……っ!!」
エイトは思わず、愛しい女の名前を声に出していた。愛しかった彼女。愛しかった。十五年生きてきた自分の人生の中で、それまでは一番大切な女性だった。それまでは……
この声が彼女の耳に入ってさえくれれば、心優しい彼女はその殺意を振りかざすことはしなくなるかもしれない。そう淡い期待と吐き出したいまでの罪悪感が、エイトにその名前を呼ばせていた。
「このままでは殺されてしまうのは、エイトさんの方ですなぁ」
およそこの状況には不釣り合いな、のほほんとした老人の声がエイトの神経を逆撫でする。エイトは苛立ちをぶつけるために声のした方を睨み付ける。
高い天井に煌びやかな装飾が光輝くこの大広間は、この館の主人であるフリン・スペンサーのご自慢の空間らしく、使用人の汗と涙の結晶――涙は主にエイトだけかもしれないが――の磨き抜かれた床と調度品が、所々でエイトとそれに対峙する彼女の姿を映し込んでいる。
そんな輝きに紛れ込むように、老人は部屋を支える大柱の一本に背を預けるようにしてエイトをただ、見詰めている。白髪ばかりの頭髪だが、そこに老いという言葉は感じられない。その年齢にしては鋭すぎる視線には、確かに軍人としての冷徹さと、そして確かな愛情を感じることが出来た。
「っ!」
彼女の爪先が鼻先を掠める。仰け反るようにしてその一撃を避けたエイトを、彼女は執拗に追い詰める。彼女は獣の動きにより近付けるために、その小麦色の健康的な愛らしい手に、鋭いカギ爪を装着していた。
草花を愛で、掃除も洗濯もテキパキこなす、そんな彼女にその凶器だけは似合わなかった。彼女のその細く繊細な手には、血に汚れた武器ではなく、幸せを掴んで欲しかったのに。
エイトはまだ、判断が出来なかった。彼女を『どうするか』。それはきっと、その瞬間になった時に自然と答えが出るものなのだと、そう漠然と考えていたからだ。
『私ね……エイトが軍人になったら、お嫁さんにしてもらうのが夢なんだよ』
その答えに曖昧に頷いただけのエイトは、漠然とその時は考えていたのだ。その『軍人になった』時に、彼女と結婚するのだろうと。その『時』のためにも、親のためにも、自分は軍人にならなければならなかった。それがまず、先決だったから。
後ろに倒れ込む寸前で、身体を捻り、そのまま腕も使って右に避ける。正確に打ち抜かれた彼女の一撃で、一瞬前までエイトがいた場所の床がひしゃげる。いくら爪と『合成』の影響により打撃力が上がっているといっても、その破壊力は想像以上だった。
――こりゃ、本部の特務部隊が動くわけだぜ。こんなもんが家の近所で行われていたなんて……
目標を捉えられなかった彼女は、しかしすぐにエイトの動きに反応して追ってくる。赤に近い短い茶髪が、その驚異的な動きに呼応して揺れている。さらさらとまるで風と戯れるかのように穏やかに、無感情に揺れる。
頭を狙って放たれた右の突きを首の動きだけで躱し、エイトは仕方なく彼女の身体に向かって身を屈ませてタックルを仕掛ける。いくら身体能力が強化されていようと、純粋なる力比べに持っていけば、男女の体格の差に加え、ここ最近の鍛え方も相まってエイトに勝機が見えてくるという算段だ。
細い腰をがっちりと抱え込んで、そのまま床に押し倒す。彼女の爪先が背中を浅く傷付けるが、致命傷にはならないので我慢。マウントの姿勢に持っていったところで、なんとか彼女を抑える方法を思案していると、彼女から『無感情』な反撃を喰らった。
なんの躊躇もなく振り上げられた足にエイトが気を取られた隙に、彼女の爪が怪しく閃く。エイトの目を射抜くように放たれた突きを、搔い潜るようにして避ける。そのまま彼女の腕ごと背中に手を回し、胸に顔を埋めるようにしてがっちりとホールドする。
「……っ」
自然と涙が出た。まるで癇癪を抑える子供のように、母親の胸元で泣き叫ぶようにして、エイトは彼女の胸で泣いた。彼女からの『無感情』な抵抗は続いており、それを防ぐためにエイトも力を抜くことはしない。腕をがっちりと押さえているので、爪先をエイトの身体に深々と刺すことは出来ないのだろう。しかし、浅く浅くなら皮膚を引き裂く程度には動かせてしまう。
それはもう、どうでも良かった。エイトが『迷った』ばっかりに、きっと彼女には、今エイトが受けている傷なんかよりも、もっと酷い仕打ちを与えてしまったのだから。
「っ……ごめん、ごめんな」
ぐしゃぐしゃになった声で謝罪する。その言葉はもう、彼女には届いていないのだ。人間のカタチを留めたまま、人の心を引き抜かれて、そしてゴミ箱のようにしてその容器に獣を詰め込まれた。彼女にはもう、人としての耳も心もない。
「早く彼女の身体を『止めて』おあげなさい。長引かせるのは辛いだけですとも。お互いに、ね」
「うるせえ、ジジイ……」
いくら傷が付こうとも、この時は二人にとっての『最期』の時だった。大切な、愛おしかった彼女の最期。最期、なのだ。誰にも邪魔はさせない。それが例え軍人のジジイでも、この地への潜入を手伝ってくれたジジイでも、この身に男を教えてくれたジジイでもだ。
「……人間は、いったい何を指して『人間』と言うのでしょうね」
まるで公園で空を見ながらする世間話のように、老人は言った。その言葉に奇妙な魅力を感じたエイトは、抱き締める強さはそのままに、老人に鋭い視線を向ける。
「……何が言いたい?」
「いえ、エイトさんが抱いているその身体も彼女ですが……『彼女』という存在は、果たしてその身体のことを言うのか、引き抜かれた心を言うのか、少々考えておりまして」
老人の口調はそのままだ。だがエイトにはその続けられた言葉がやけに艶めかしく感じられた。背に刻まれていく傷が気にならない程に、意識がその言葉に支配される。老人の口元には、酷く歪な笑みが浮かんで見えた気がした。
「……」
止まってしまった涙も忘れ、エイトは目の前の彼女を見詰める。これは、『最期』ではないのではないか?
エイトの心に走った動揺を敏感に感じ取ったのか、デミがエイトの拘束から逃れ手足の反動を利用して一瞬で立ち上がり、そのまま身体を捻って回し蹴りを放つ。注意を血塗れの爪先に削がれていたエイトは、その蹴りをもろに食らう。咄嗟に腕でガードしたが、耳を正確に打ち抜く軌道の鋭い蹴りは、ガード越しにも視界が揺れた。
いくら獣の心臓<余りモノ>が混ぜ込まれたと言っても、その威力は異常だった。元より高かった彼女の魔力は、その心臓<源>を引き抜かれた後も、その身体に名残として巡っているようだった。
「貴方はもう、充分『男』を見せましたよ。エイト」
先程までの嘲笑するような声音ではない。エドワードの言葉は、最後通告だった。
彼は、エイトのことを待ってくれていた。だが、エイトは何度も躊躇い、ついにトドメを刺すことが出来なかった。そのことに対する最後通告。何故ならば、分断されたあの地下から、『彼』の魔力が消えている。
強すぎる魔力が、嘘のように消えているのだ。エドワードは今すぐにでも、地下へと駆け付けたいだろう。この目の前の少女の首を断ち切り、そのままの足で地下へと駆け下りたいだろう。
しかし、老人はしなかった。エドワードは、エイトを、最後まで待ってくれている。エイトのことを認めてくれたのだ。一人前の、男だと。
「……エイ、ト……」
その時、目の前の少女の口から、紛れもない彼女の声が零れ落ちた。獣の唸り声とは違う。しっかりとした人の声。それが犬歯を剥き出しにした彼女の口から、悪戯のように零れ落ちた。とぷりと、その口元から涎が零れた。
「ほぅ……自我が……?」
「デミっ!!」
駆け出したエイトにデミは、簡単に抱き止められた。両の腕が不自然に震えている。まるで己の中から湧き上がる悪意に耐えるように、その爪先が小刻みに震える。
「早く、解放してあげなさい。もう魔力では抑えられません」
エイトはその声には答えずに、デミの瞳を覗き込む。美しい緑の瞳だ。草花を愛し、いつも明るい、優しい彼女の色だ。この色は大切な色。己の赤でも老人の漆黒でも、ましてや特務部隊の青でもない。彼女だけの大切な色。
この色合いを忘れないでいよう。大切に大切に。己の心の奥底に、大切に大切に。この心は確かに彼女に、惹かれていたのだと。大切に刻んでおこう。
「デミ……ありがとう。最後までオレは、お前に助けられてばかりだったな」
愛おしい、褐色の首元に両手を掛ける。ギリギリと力を込めていくエイトに、デミは抵抗しなかった。震える爪先はいつしか異なる震えとなり、その口元から粘度の異なる涎が流れ落ちた。力を失くした愛しい身体を抱き止めたまま、エイトは高い高い天井に向かって吠えた。