本編
スペンサー邸の朝は早い。使用人の仕事等今までやったことのないエイトは、エドワードと同じく終日、庭の手入れをする『庭師』というポジションを担当することになった。炊事洗濯、掃除等が得意ならばそちらに回される手筈だったようだが、エドワードが気を利かせるまでもなく、壊滅的な家事スキルを披露した結果、なんの問題もなく二人で庭の一部分を担当することになった。
「問題なんて、ありまくりだっての!」
エイトは、悲惨な惨状を共に見ていたエドワードとイースの苦笑を思い出しながら、抱えていた大量の木の枝を放り投げた。投げ捨てた枝が、朝から何往復もして積み上げていた枝の山の上にバラバラと落ちる。
家事なんてもの、生まれてから今まで経験したことがなかったエイトは、見事なまでに家事のスキルも才能もなかったのだった。今まで親の姿を見ていてはいたはずなのに、見様見真似にも形にすらならなかった。
呆れた様子で『せめて皿洗いくらいはなぁ』と言った、イースの力のない笑顔が頭から離れない。エドワードは何も言わなかったが、それでもその漆黒にはいつものような力がないように思えた。彼は庭師としてのスキルを早々に見せつけて、一人で充分だという太鼓判を押されていた。
庭師のスキルだってエイトにはない。だからエイトはエドワードのお手伝い、もとい雑用係として主に肉体労働を担当することになったのだ。今はエドワードが切り落とした木々の枝を、焼却用の材木置き場に何度も往復して運んでいる。斬新なデザインにでもしているのか、えらく木々を切り落としていた。
枝を捨ててエドワードの元に戻ると、彼は作業を中断しており、庭に咲いた花を座って眺めていた。遠目から見たら庭の手入れが終わって休憩している、人畜無害な老人そのもの。いつも優しい、争いごとなんて以ての外な、一般市民にしか見えない。だが彼は、恐ろしく強い軍人なのだ。昨夜聞いた『狂犬部隊』なんてのも、エイトからしたら霞んで見える。
「おや、エイト。お早いお帰りだね」
周りを見渡しても人影はない。庭師は自分達の他に後二人いるのだが、前庭――手入れした草花を砂嵐から守るために、広い範囲をガラス製の屋根が覆っていた。門から入り口まで歩いている時には気付かなかったが、まるで石造りの通路を挟んだこの前庭は、二つのショーケースが並んだように見える――を担当しているのはエイトとエドワードだけなので、この広大な庭に二人しかいないのは極自然なことである。それでもエドワードは警戒して、設定通りの言動を貫く。
「ああ。あんなのオレにとっては朝飯前だっての」
「家事も朝飯前だと良かったのに……」
そう言ってふぉっふぉと笑われて、エイトは思わず設定のことも忘れて老人の頭をコツンと殴った。歴戦の戦士である老人は、設定通りに黙ってその拳を受けている。見える範囲に人がいないにも関わらず、その漆黒の瞳をわざわざ丸くさせる演技まで見せるのだから心配性だ。
「そ、それは言うんじゃねーよ!!」
身内に対しての言葉遣いがあまり分からないが、エイトは手が出てしまった手前、その気恥ずかしさと動揺を誤魔化すように声を荒げた。問題があったら老人からなんらかの訂正が入るかと、ちらりと横目で老人の姿を確認する。彼は「痛たた……」と頭を摩ってから、「エイト。そのすぐ手が出る癖を直しなさい」と至極真っ当な文句を言った。うん、これは多分大丈夫だったんだろう。身内への返答としては問題なしのようだ。
「ご、ごめんなさい」
さすがに手が出てしまったのはエイトが悪いので、素直に謝る。するとエドワードは優しく微笑み、エイトの頭を撫でてくれた。まるで本当の孫と祖父のように。きっと本当に自分に祖父がいたとしたら、こんな風に――いや、きっとこんな穏やかには育ててくれなかっただろう。あの親の親だ。まともに孫を可愛がる保証はない。
「エイトは優しい子なんだから、すぐに手が出てしまうと損をしてしまうよ。お前の言葉には優しさが詰まっているんだから。その拳は人を守るためだけに使いなさい。いいね」
「う、うん」
「家事は時間がある時に私が教えてあげようじゃないか。お友達になったイースくんも、厨房が担当なんだってね?」
エイトの担当を決めるために、炊事の技術を見るために厨房に通された際、料理人の恰好をしたイースがそこにいたのだ。彼はエイトを見た瞬間目を丸くしていたが、更にその後、エイトの壊滅的な家事スキルに更に目を丸くしていた。整った顔の人間に、まさかあんな表情をさせてしまうとは。
「うん。まさかイースが、あんなに料理が上手いなんて思わなかった」
大惨事と言えるエイトの“仕事”の後片付けをさらりと終えて、イースはそのままこの邸宅の主のための朝食を作り始めた。手際良く出来上がっていく料理達は、その見た目もさることながら、とにかく無駄のない作業手順に目がいった。あれは料理が得意、なんて単純なものではない。職人技――プロなのだ。刃物のプロ。
ひやりと、背筋を嫌な汗が伝う。
「……特務部隊は裏側の仕事を請け負う機関です。その任務は主に暗殺が多く、獲物の懐に擦り寄るためにあらゆるスキルを使います。相手との関係が濃密になれば、獲物に毒入りの手料理を振舞うことも容易でしょう。昔、特務部隊の人間と話した時に言っていましたよ。『出来ないことを出来ると言うのは難しいが、出来ることを出来ないと言うのは簡単だ』と」
この時ばかりは軍人の口調に戻ったエドワードの言葉に、エイトはうすら寒いものを感じていた。その存在全てを獲物の暗殺のために研ぎ澄ましている。そんな存在がよりにもよって、獲物の邸宅の厨房を任されている。それは正しく特務部隊の方針の賜物であるのだ。イースがその気になれば、この邸宅全ての人間に毒を盛ることなど容易いだろう。彼は一番最初に、邸宅の主の首を取る算段をつけていたのだ。
「あいつはフリン・スペンサーを殺すつもりなのか?」
「……特務部隊は、南部の軍とは基本的には敵対関係にあります。わざわざ軍との関係を悪化させる危険を冒してまで、豪商の一人を殺すとは考えにくいですが、任務の都合上必要とあればすぐにでも殺せる、ということでしょうね」
「砂漠の国は秘密主義、だからな」
「……まぁ、そういうことですな」
エドワードのはぐらかすような返答が気にはなったが、エイトは敢えてそこで話を終わらせた。視界の遥か向こう側、邸宅内へと繋がる大扉が開いて、そこから話題の人物――イースが現れたからだ。大きなカゴを脇に抱えている。扉からの距離はかなり離れており、エイト達の声が彼に聞こえることはない。その瞳に仕込まれた四角にも、口元を鮮明に映し出せる距離ではないだろう。
軍人の顔からすっかり優しい祖父の顔になったエドワードが、気付いていないフリをしながらエイトに、「こんな豪勢な邸宅の庭を手入れ出来るなんて、腕が鳴るわい」とそれらしいことを言ってくる。イースは真っ直ぐこちらに歩いてくる。まだ距離は遠い。使用人の仕事はどうしたのだろう。もしかして、もう秘密も暴いて――邸宅の主も始末したとでも言うのだろうか。
「エイトくん! 僕、これから昼飯なんやけど、一緒にどう? あ、おじいさん? 厨房でちらっと見たけど、初めましてー。僕、厨房担当のイースって言います。厨房の残ぱ……じゃなかった。余りで弁当作ったし、三人で食べません?」
所属を知っているエイト達からすれば白々しい程のセリフを吐きながら、イースは満面の笑みで歩いてくる。いつの間にか昼の時間になっていたようで、開いた扉から何人かが庭に出てきている。スペンサー邸の昼食の時間は基本的には自由時間とされており、昼食は食堂以外にも庭や自室で食べることを許されているようだ。
イースにはエドワードのことは身内だとしか話していないので、彼からすれば周りにいる同僚と老人に対するカモフラージュのセリフである。そのためエイトも彼に合わせる。エドワードは敢えて知らないフリを演じてくれる。
「エイト。彼は?」
「使用人仲間のイースだよ。昨日……友達になった」
友達という言葉の響きに少し心がどきりとして、エイトは思わず言葉に詰まってしまった。そんなエイトにイースは笑って、「昨日シャワールームでバッタリ会って、話してたら楽しかったんで部屋でも話してたんです。お孫さんを夜遅くにすんません」とフォローする。
「イースくんだね。私はエドワード・ディマーです。孫と仲良くしてくれてありがとう」
「いえいえ。エイトくん、優しいエエ子なんで。どうぞ、コレ。今日の余りの具材詰めたサンドウィッチです」
「これはこれは、気を遣ってもらってすまないね。エイト、いただこうか」
「あ、ああ」
満面の笑みを浮かべるイースのことは、正直信用して良いのか怪しいところだ。エイトは人の嘘に敏感だ。イースは抱えていた大きなカゴを地面にどさりと置く。しっかりと手入れされた庭の草花はちゃんと避けている。そんな細かい気配りが、どうしてか彼の裏側を感じさせる。美味しそうな香りが開かれたカゴから漂うが、エイトの嗅覚はそんな餌には惑わされない。彼の真意を知りたくて、エイトは先に腰を下ろしたイースを見下ろす。
真上に昇った太陽の光が、イースの短い金髪を明るく照らす。その下の青の瞳は、相反するように闇を抱えていた。例の四角は見えないが、まるで裏側の悪意がそのままその瞳に滲み出ているようだった。淀んだ青が、エイトを――いや、二人を見上げる。
「……何してるんや? さっさと座りぃや」
もう、先程までの造り上げられた親しみやすさも感じない。ひやりと背筋を伝う、この空気は殺気だ。どっかりと地面に腰を下ろしているのはイースだけだ。立ったまま、すぐに動けるのはエイトとエドワードの側のはずなのに、それを許さない魔力の圧を感じる。
「……貴方は、特務部隊の『睡魔』ですね。その節はソウジュがお世話になりまして……」
そこにはもう演技は必要なかった。陸軍としての口調でそう言ったエドワードから、おぞましいまでの魔力が溢れ出す。溢れ出す魔力が目に見えることはない。だがはっきりとそこにあると認識させる程に、彼から溢れ出る魔力はしっかりと形を成していた。哀しい、深い憎悪の魔力だった。
「ソウジュ……? あー、あのデザートローズの陸軍のオッサン、じいさんの同僚かなんかか? 確かそんな名前やったな。ならじいさん、僕の作品見てくれたん? どうやった? エエ出来やったやろ?」
「貴方には人間の心はないようですなっ!!」
歪に口元を歪めたイースはまるで別人のようで。エイトとエドワードから距離を取るように飛び退った彼の手には、いつの間にか銀色に光る細身の剣が握られている。エドワードも武器こそ持たないものの、鋭い瞳で受けて立つように構える。
「お、おい! こんなところで何してんだよ! イースもジジイも、ここはスペンサー邸の中なんだぞ!?」
手入れの行き届いた草花を挟んで向かい合う二人の間に割り込み、エイトはそう声を荒げた。本当に、いったい何を考えているんだと怒鳴りそうになる。
――こんなとこ、誰かに見られたら……っ!?
そこでエイトはおかしなことに気付いた。庭には数人が出て来ていたはずだ。それなのに今は、人の気配を全く感じない。歩いている者も庭に座る者も、誰もいない。
その理由は、周りを見渡してすぐにわかった。歩いていたであろう者も、座っていた者も、皆が皆、地面に倒れ伏していた。倒れ込んだままピクリとも動かない。
ぐるりと庭を見渡していたエイトの瞳が、イースを捉える。彼の口元は歪に歪んだまま。口から零れる涎の代わりのように、その手に握られた銀の剣から雫が滴る。
「誰かに見られる、なんて……僕がそんなミスするワケないやろ」
「エイトさん。どうやら彼の魔力は既に発動しているようです。彼の魔力は『脳の一部を眠らせる』能力です。あの剣――いえ、正確には彼の手からなのですが、滴る液体に触れてしまうと、脳を毒されてしまいます。接近戦は得策ではありません。おそらくもう、邸宅の者は皆、彼の手にかかっています」
「同僚さんの死体、ちゃんと調べ上げたんやなぁ? 自分の手で同僚の頭、調べ上げるんはどんな気分やった? ちゃんと綺麗な断面にしたん? それとも頭蓋骨は溶かして脳を丸裸にしたん? どうしたんか、僕に全部教えてや」
「脳を眠らせるって何だよっ!? それに、誰の話してんだよ!?」
挑発的な笑みを浮かべるイースの口から、闇に絡め捕られた言葉が零れる。それを自らの耳で聞きたくなくて、エイトは遮るように大声で言った。まるでいやいやをするように両手で耳を塞ぎ、駄々をこねる子供のように、自らが受け入れたくない言葉を拒絶する。だが、いつもは優しい老人が、いつもよりは硬い口調で、そして憐れむように答えをくれる。いつも答えをくれるのは老人だ。こんな時でも、どんな時でも。
「ソウジュはデザートローズの陸軍所属。私の良き友人でした。彼は陸軍の軍人であると同時に、密かに特務部隊にも籍を置いておりました。しかし上の利益関係の、とてもつまらない些細な理由で、彼は特務部隊の中で粛清の対象となりました。その時、彼を粛清したのがこの『睡魔』です。陸軍への見せしめのために、彼の脳の大部分をその魔力で『壊した』。過剰な眠りの魔力により脳の大部分を壊された彼は、ただ前進するだけの、肉の塊になっておりました」
「上の連中が言ってたんやわ。『ソウジュのオッサンは真っ直ぐ過ぎる。歪みを知らない人間は、本当に真っ直ぐは進めない』ってな。その言葉を僕なりに表現してみたんやけど、どうやった?」
「貴方達特務部隊は、いつもそうやって殺して尚、死者を愚弄するのですね。エイトさん。こちらへ。そのサンドウィッチには魔力は込められていないようですが」
「へー、よぉわかったな。そこのエイトくんと約束したからな。僕の邪魔せんなら危害は加えんで。ちょっと面倒やから使用人らには眠ってもらったけど。あ、安心せえや。ほんまにちょっと『眠らせた』だけやから、全部終わったら起きるって」
歪な口元はそのままに、そう言ってヘラヘラと笑うイースに、エドワードも構えを解いた。友人の仇を目の前にしても、自らの任務のために私情を捨てて合理的な判断を下す。今の話を聞いただけでも頭に血が昇りそうなエイトには信じられないが、どうやらエドワードはイースへの仇討ちを今のところは堪えるようだ。
「貴方の目的は?」
「この邸宅で造られているであろう、合成獣の抹殺。そしてその証拠を持ち帰り、フリン・スペンサーを豪商の地位から引き摺り下ろす」
「なるほど……ならば私達と目的は合致しているのですね」
エドワードが暫し考えるように黙った。その姿にイースも剣を腰の鞘に戻す。二人の魔力ももう、溢れ出す程ではなくなっている。エイトは足元に残されたままのサンドウィッチには目もくれず、エドワードの元へと駆け寄る。
「うわぁ、エイトくん。そりゃ傷付くわぁ。目的一緒なら、僕と一緒に行こうやぁ」
勝手に項垂れているイースのことはとりあえず無視だ。作戦の立案はエドワードの役目なので、エイトは彼に従う他にない。昨日までは二人が殺し合わずに仲良く目的の達成が出来れば良いのにと、気楽なことを考えていたが、イースはエイトが考えていた以上に狂った人間だった。
それは、もしかしたら特務部隊全体に言えることなのかもしれない。軍部のことを何も知らないままだったら、エイトはもしかしたら軍部の全体がそうなのかもしれないと思っていたかもしれない。軍部に所属する軍人は、皆、人の死を愉しむ狂人達だと。
しかし、それは違うとわかっている。老人は狂っていなかった。そして、自分もこれから狂うつもりはない。
「オレはエドワードの作戦に従う」
「へー……んで? そのエドワードさんはどないするつもりなん? 先言うとくけど、あんまり……時間ないで?」
イースがそう言ったその瞬間、邸宅から激しい地響きが鳴った。低く響くその音は、地獄の門が開くように長く、そして暗く響いた。まるで獣の叫びのように、エイトには聞こえた。
地響きの余波の影響か、まるで誘うように邸宅の扉が音を立てて開いた。扉の向こうには豪奢なエントランスが広がっており、そのなんら変わらぬ煌びやかな空間から、確かな殺気がじわりと庭へと流れ出てきた。
「……いったい貴方は、何をしたのです?」
訝しむようなエドワードの視線に、イースはふっと笑った。これまでの笑みとは違い、まるで自嘲のような笑みだ。
「僕は脳の一部を眠らせることしか出来ん。特務部隊の人間からしたら、欠陥品もエエとこや。やけどな、例え一部でも。上手くやればこんな邸宅、簡単に墜とせるねん」
彼の声に獣の咆哮が重なる。甲高いその遠吠えが、やけにエイトの耳を刺激した。
「合成前の人間を毒したら、その合成先も毒されるやろ?」