本編
悪意の渦巻く晩餐を終え、エイトは一旦部屋に戻ってから一人、シャワールームに向かっていた。
共に部屋に戻ったエドワードは、『新参者が探索している』と言い訳出来るこのタイミングで、邸宅内の探索に出てしまった。一緒に行くと申し出たのだが、さすがに二人でウロウロするよりは、老人が一人の方が警備の人間も警戒しないだろうと言われてしまい、それもそうだとエイトも納得したのだった。
「えーと、この扉……か」
エイトの目の前には、『シャワールーム』とだけ書かれた札の掛かった扉がある。豪奢な廊下に釣り合いのとれたその扉は、他の部屋へ繋がる扉と同じく、美しい装飾の刻まれた木製の扉だ。とても使用人のためにある扉には見えない。
意を決して扉を開けると、そこには水捌けのよさそうな大理石のスペースが広がっていた。どうやらここが脱衣所らしい。スペースの奥には曇りガラスの扉があり、その向こうがシャワールームになっているのだろう。ガラスに妨げられた視界の向こうで、暖かな湯気が立っているのが伝わる。
「君、新人さん?」
エドワードに教えられた通りに大理石に囲まれた共用の脱衣スペースで服を脱ごうとしたところ、いきなり知らない男から声を掛けられた。
声の方向に振り向くとそこには、まだ若そうな青年が立っている。服を中途半端に脱いでいたので、どうやらこれからシャワーを浴びようとしていたようだ。
砂漠の民には珍しい白い肌に、短い金髪のその青年は、いやにエイトの目を引いた。この場所にいるのが彼だけだから、という訳ではない。
青年からはひやりとした“何か”が伝わってくる。それが殺気なのかはエイトには嗅ぎ分けられなかった。この青年からは、流れ出る気配が多すぎる。汚らわしい血の匂いのようでいて、酷く甘い臓腑の匂いのようでもある。負なる匂いであるのは間違いないのに、それが彼から滲み出る“感情”には結びつかなかったのだ。
「は、はい……」
とにかく目立たないように。そうエドワードには言い聞かされていた。自分はこの邸宅の使用人で、位は一番下。そう意識して対応する。慣れない言葉遣いなので硬い雰囲気になってしまった。それを緊張と悟ったのか、青年は優しい笑顔を浮かべてくれた。まるで『緊張しなくて良いよ』と言ってくれているようなその瞳は、闇を溶かし込んだような青色で。
「僕はイースって名前やねん。ここで働いてまだ二ヵ月のぺーぺーやけど、仲良ぉしてな」
イースと名乗った青年は、砂漠の国にて古くから伝わるイントネーションでそう言った。南部では広く使われる方言で、エイトが通っていた学校でも使用している者は多数いた。しかし上流階級や軍部では使用している者が少ないことから、幼い頃からそういった階級を目指す者として、この大陸での標準語を教え込む家庭も多い。
エイトの親はもちろん後者だったため、エイトは知識としてその方言を知っているだけで、自身は使用することはなかった。たまに聞き慣れない言葉に聞き返すことはこれまでもあったが、やり取りに不自由することはないだろう。
「オレは、エイトです」
名乗られたので条件反射で名乗りながら、青年の顔を見上げる。
青年はすらりと高い長身で、おまけにスタイルも抜群に良かった。鍛えてはいるが無駄な筋肉はどこにもついていない。白い腕で短い金髪をかき上げる姿が絵になる男前だ。中途半端なところで止まっていた服を脱ぎ、上裸になったイースが笑う。
「そっかーエイト君か。よろしゅうな。さ、僕に見惚れてんと、さっさと服脱ぎやぁ。このシャワールーム、人数に対して狭いから、はよしないっぱいになってまうで」
「あ、はい」
さっさとボトムも脱ぎ出したイースに頷き、エイトも服を脱ぎ始める。このシャワールームは棚に服を置いておく造りらしい。背後でイースが扉を開けて、シャワーを浴びに行った気配がする。彼の言葉の通りなら、使用人の仕事がほとんど終わったはずのこの時間は、これから混み合うことになる。
あまり知らない人間が密集している状態に良い気持ちもしないので、エイトもさっさとシャワーを浴びることにした。身体にフィットするお気に入りの服を畳んで――エドワードに畳み方を教えられた。さすがに使用人として、それくらいはしろとのことらしい――、シャワールームへの扉を開ける。
大理石に囲まれた空間には先程の脱衣所で慣れたつもりだったが、シャワールームは更に豪奢な造りになっていた。使用人達が使う箇所の装飾とは思えない。本当の金持ちの成せる業に、エイトは息を呑んだ。つまみを捻ればお湯が出る。夢のような環境は、想像以上の贅沢な空間として目の前に存在している。
一番奥のスペースで、イースがシャワーを浴びているようだった。扉から入って左右に並ぶようにして五人分、つまり十人が同時にシャワーを浴びることが出来る造りのシャワールームで、個別スペースとして身体の大部分が隠れるように仕切りがされている。見えているのは足首だけだが、あの白い足はきっとイースのものに違いない。
シャワーが立てる水音のみが、空間に響いている。隣にわざわざ行くのもあれなので、手前のシャワーを使用しようとしたエイトの耳が、水音とは異なる微かな雑音を拾った。
ジー、ジーと、微かな機械音。水滴や湯気が付きもののシャワールームに、そんな機械音が響くことはおかしい。耳を澄まさなければ聞き落とすような微かな音だが、エイトの野生の勘はそんな小さな違和感も聞き洩らさない。
この空間の音の発生源は奥だけだ。一番奥の、シャワーの音。そこに混じって機械音は聞こえてくる。
足音を忍ばせて、エイトは奥のスペースに近づいていく。奥の仕切りから見える足は、やはりイースのもので間違いない。他に何か機械の類が置いてあるということもなさそうだ。
個別のスペースは背中の部分に仕切りはない。中央の歩くスペースからは丸見えなので、そこから覘き込めば済む話なのだが、このシャワールームには正面に鏡が設置されていた。そのため背後から忍び寄ったとしても、鏡越しにこちらの姿を確認されてしまう。
「……」
エイトがどうするべきか悩んでいると、シャワーの音が止まった。キュッキュとつまみを捻る音がして、シャワーを終えたイースが顔を出す。
「っ……なんやエイト君か。音がせんからまだ脱衣所でのんびりしとるんかと思ったわ。こんな豪華な内装見る機会なんかなかなかないからなぁ。どや? 凄いやろ?」
「ああ、まあ……」
笑いながらそう言ってくるイースに、エイトは曖昧な返答しか出来なかった。イースは何も持っていなかった。このシャワールームには身体や髪を洗うシャンプー等は完備されているので、そのことに関して不自然はない。だが、彼の唯一、瞳だけは例外だった。
イースの瞳には、常人ではない紋様が浮かび上がっていた。それは仕切りから顔を出したほんの一瞬の出来事で、普通の人間ならば見間違いだろうと考えるような些細なことだった。しかし、エイトは彼から流れ出る“常人とは違う気配”を既に感じ取ってしまっている。
「……なんや? 言いたいことでも、あるん?」
曖昧な返答だけをして通路を譲る気配のないエイトに、イースの表情が歪む。人懐っこい先程までの空気が一転し、冷たく突き刺さるような、他者を寄せ付けない強者の気配を孕ませる。
「……あんた、何モンなんだ?」
取り繕うことは止めた。この見下すような鋭い瞳の前では、小手先の演技等全て見破られてしまうだろう。しかしそれはエイトにとってもだった。
エイトもイースの小さな嘘を見抜いていた。彼はきっと、本来の目的で雇われた使用人等ではない。
「お前……脱衣所に入って来た時から思とったけど、ほんまに嫌な目つきしとんなぁ」
予想に反してイースはそう言って笑った。その笑みに悪意以上の感情を見つけて、エイトは彼から目を離せなくなる。その美しい闇を湛えた青が、エイトに近づき、そして――
まるで確かめるかのようなキスだった。ついばむように落とされるキス。肩を、背中を、そして腰から太ももに、撫でるように下ろされる白き手には、所々に傷が入っている。幾多の戦場を経験しなければ、こんな傷はつかないだろう。
「お前みたいな嫌な目、嫌いやないで」
耳元で囁かれたその声に、エイトはようやく身体の自由を思い出す。
「……っ」
突き飛ばすようにイースの身体を撥ね退けると、エイトは頭から吹き飛ばされかけた疑問を口に出した。
「あんた、軍人だな? 特務部隊か?」
男に身体をまさぐられる経験は、残念ながら初めてではない。甘い甘いあの空間で、クソジジイにエイトは言われた。『貴方は男に好かれるヒトのようだ』と。まるで誉め言葉のように、頭を優しく撫でられながら、そう甘く口づけを落とされた。
心の狼狽は、あの人のためのもので。この胸の高鳴りは、今許されるものではない。
心のさざ波を静めながら、エイトはイースに問い掛ける。彼の鍛え抜かれた筋肉は、正しく軍人のそれ。砂漠の民には珍しいその白い肌には、数多の血が染み込んだ匂いが付き纏う。綺麗に手入れされたその指先が、エイトの首元にかかる。
「……可愛いガキの口から聞くには、随分アレな単語が出たなぁ? 僕のこと、誰から聞いたん?」
指先に力が入り、エイトの首に不自然な圧力が掛かる。指先だけの力なのに、エイトの全身を拘束したかのようなプレッシャーを感じる。触れているのは右手の指先だけ、刺されるような視線は青く、しかしその中心からあの機械音が響いている。
「その目……義眼か?」
イースの瞳の中心に、不自然な四角い輪郭が映されていた。そこから微かに機械音のようなものが聞こえる。青の中にエイトの赤が混じり込む。
「僕の質問に答えたら教えたるわ。誰から聞いた? 旦那さんか? それとも、外の……デザキアの軍か?」
「……どちらも違う。オレは誰にもあんたのことは聞いてねぇ」
「ならなんで、僕のこと軍人ってわかったん? それによりにもよって、陸軍やのおて特務部隊やなんて」
「あんたからはすげえ血の匂いがしたんだよ。街歩いてる巡回の陸軍からは嗅がないくらいの匂いで、鼻が曲がりそうだ」
「……はーん、なるほどねー……お前、勘の鋭い悪ガキって奴やな」
そこでようやくイースは、エイトの首筋から指を離した。シャワールームは防音仕様らしく、二人の声は大理石に吸い込まれるようにして消えていく。外部に漏れる心配はない。
「僕、お前のこと気に入ったわ。特別に教えたる。でもさすがに……場所移すか。シャワー浴びたら僕の部屋においで。ほんまに、なんでも教えたるわ」
扉の向こうの脱衣所の扉が開いた気配がした。人の気配に敏感なのは、エイトだけではないらしい。イースはそう言ってまた人懐っこい笑みを浮かべると、エイトの肩を意味ありげに叩いてから、ガラスの扉を押し開けた。
「それで? エイトさんはこれからその、イースさんの部屋に行くのですかな?」
部屋に戻ったエイトの様子がおかしいこと等、エドワードにはものの数分で視抜かれた。心配そうに声を掛けられて、誘われるままにベッドに並んで座り、頭を撫でられながら瞳を覗き込まれる。
漆黒の瞳に捕まってしまっては、そこに真実以外あってはいけない。心の熱を掴み取られたエイトには、もうこの老人に抵抗する術など残されていないのだ。
「あ、ああ。多分あいつ、特務部隊だ。シャワー浴びてる最中も、すげえ血の匂いがしたし……」
「……一緒に浴びたのですか?」
ぴくりと眉を動かした老人に、エイトはぶんぶんと頭を振って否定する。頬に熱が一気に集まり、いらないタイミングで狼狽してしまう。
「ち、違う! あいつが先に浴びてて、ちょうど鉢合わせたんだよ!」
「エイトさん? シー、ですぞ」
狼狽えるエイトを後目に、エドワードは悪戯気に自身の口元に人差し指を当ててそう言う。そしてその指先は自然と外れて、エイトの顎へと添えられる。漆黒の瞳は細められたまま。咎めるように、疑うように。
「っ……ほんとに、一緒に浴びたりは……してねーよ」
「それでは、何をされたんですか?」
口元をいやらしく歪めながら、エドワードは意地悪に聞いてくる。この目は多分、わかってやっている。エイトがどこで誰とどんな話をしていたかなんて、この老人には筒抜けな気がしてならない。
「き、キス……された……」
「ほぉ……それはそれは」
てっきりまた口づけを落とされるかと身構えていたエイトだったが、老人はそのまま身体を離し立ち上がると、テーブルに置いたままにしていた自身の鞄に手を入れる。
ごそごそと鞄をあさり中から小型の弾丸を取り出したエドワードは、それをエイトに差し出した。
「これは?」
「これは私の魔力が詰まった銃弾にございます。何かあった時にはこれが、エイトさんの助けとなるでしょう。お守り代わりにどうぞ」
エイトは学生時代に格闘術を教えてくれた軍人が言っていたことを思い出しながら、素直にその“お守り”を受け取った。南部の軍人の習わしで、お守りとして一つの銃弾を渡すというものがあるらしいのだ。
「ありがとう」
「素直でよろしい。おそらくそのイースという者は、特務部隊で間違いないでしょう。彼等が今この街で、事を起こすとは思えませんが、警戒しておくに越したことはありません。何か引き出せそうならお願いしましょうか。私のことはどうか内密に」
「わかってるよ」
そう頷いてエイトも立ち上がる。扉に向かおうとしたエイトを、エドワードが後ろから抱き締めた。その行為に言葉以上の心配を感じて、エイトは振り返りながらその乾いた頬に軽くキスをしてやる。珍しく驚いた顔をしたエドワードに向かって笑顔を送り、「大丈夫だっての。ジジイもたまにはよく寝とけよ」と言って扉を抜けた。