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第二章 脱出、船


 電話の相手は数コールで出た。
「……特務部隊所属のクリスだ。至急、本部の科学班に連絡を取りたい」
 科学班とは、全国の軍部にある科学者達のグループで、地方によって多少呼び方は違うものの、文字通り科学的なアプローチによるバックアップを行う専門家だ。ほとんどの科学者達はまともだが、中には軍事医療や生物学を応用した怪しい実験をしている、フェンリルとはまた違った方向の異端者も少なくない。
「……ああ、回してくれ」
 電話の向こうのオペレーターはすぐさま、スタンバイしていた科学者の一人に回線を回してくれた。
『待ちかねたよ』
 クリスの耳に、独特な人を見下した声が響く。まるで人を人だと思っていないようなこの声を、クリスは嫌っていた。
 自分達が犯す殺人と、彼らが実験と称して行う地獄は、絶対に違うものだ。同じ死に向かっている行為なのに、明らかに過程と結果が異なる彼らの殺し方に、クリスは嫌悪感さえ覚えていた。
『さすがはフェンリルの諸君。既に埋め込まれてはいたが、生きたままコアを入手してくれるとはね』
 抑揚のない声には人間的な感情が感じられない。
「申し訳ありませんが本題に入らせていただきます。コアが摘出可能かを調べていただきたいのです……生きたままで」
『……脳に深く根付いたコアを、検体を死亡させることなく取り出せるか、と……君はそう言うのかね?』
「はい。可能かどうか、専門家の意見が聞きたいのです」
 何かを探るような口調の相手に、クリスは勤めて冷静に答えた。端末は既にセットアップを完了している。
『現物を見てみないことにはわからんな』
 科学者はそう断言し、溜め息をつく。
『……で、まだなのかね?』
 イライラした口調で電話越しにクリスを急かす。
「セットアップは完了しています。それでは彼をネットワークに接続しますので、そちらで検査をお願いします」
 クリスはそう言いながら本部へのセキュリティー回線を繋ぐ。これから電話の相手の科学者に、回線越しにヤートの頭を検査してもらうのだ。
 ヤートの左の瞳の奥が青く光る。その瞬間、端末の画面が変化し、クリスの横顔が映し出された。背景はグレーの殺風景な部屋で――ヤートから見た景色だった。
 画面内の自分の両端には、フェンリルのクリスに関する情報が並んでいる。おそらく城塞都市の記録だろう。人喰い、鬼、妖刀使い――どれも断片的な情報だ。
『繋がったようだな。被験者には大人しくしておくように伝えてくれ』
「了解しました」
 クリスは電話を通話状態にしたまま耳から離し、ヤートに要望を伝えた。ヤートは静かに頷くと、目を瞑って動きを止める。
『では始める。あまり脳波を乱すようなことはしないでくれたまえよ。正常に作業すれば五分で出来る仕事だ』
「よろしくお願いします」
 クリスも仕方なくテーブルに腰掛ける。端末の隣で、ヤートと無言の時を過ごす。無音の、会話の無い時間。
――落ち着く。
 そう自然に感じたクリスは、思わず笑みを浮かべていた。横目でヤートの姿を盗み見る。掘りの深い顔立ちに、成熟した男性の魅力がある。つい見とれてしまいそうになり、クリスは端末に目を落とした。
 端末にはセットアップ後のメイン画面が映っていた。本部の科学者に回線は全て持って行かれているようだ。
 クリスは占拠された回線のデータを呼び出した。城塞都市と同盟国のデザートローズでのみ扱っている通信網で、セキュリティーレベルは最高。軍事関係なのだから当然だ。更に高レベルの暗号化により、この通信も当事者同士にしかわからない。これなら明日も平穏な船旅になるだろう。
 クリスは小さく息をつき、画面に表示されているセキュリティのチャンネルを記憶する。暇であるのが一番大きな理由であるが、こんな些細なことが自らの運命を左右することもあると、クリスは今までの経験上理解していた。
 かなりレベルの高いチャンネルに舌を巻く思いで、自分達の無線を比較する。通信網の違いはあるが、暗号化に関しては同レベルだ。
 クリスは良いことを閃いて、検査が終わるのを待ちわびる。コスト削減の素晴らしい計画だ。
『終わったぞ』
 かなり耳から離れていた携帯端末からの声に、クリスは姿勢を正して返事をした。端末の画面に視線を走らせたら案の定、自分の姿が映っている。今から頼み事をするのだから、これくらいは当然である。
「はっ。ありがとうございます。結果の方は?」
『結論から言おう。無理だ』
「……」
 頭をガツンと殴られたような感覚を覚えた。いや、それはヤートの方だろうか?
 彼は頭を抱えて黙っている。その瞳に例の光はもうない。
『脳の深くまで、まるで突き刺さるようにコアが寄生しているんだ。コアを摘出することは、彼の人間らしい営みも奪ってしまうことになるだろう』
 電話の声は、普段の彼にしては沈痛な声音で話していた。わかっている。彼はヤートの今後が辛いのではなくて、他国の科学者に技術で負けたのが辛いのだ。
「そうですか」
『君には悪いがね、彼には本部での解剖の運命しかない』
「……」
『聞いているのか? これは命令だ』
「わかっています!!」
 声を荒げながらクリスは、ヤートを片手で抱きしめた。悲痛な表情を浮かべた彼を、優しく抱きしめながら通話を続ける。
「俺達は命令を遂行します……そこで、少しお願いがあるのですが、彼の通信回線にフェンリル全員分の無線を繋がるようにして貰えませんか?」
『簡易的にならすぐにでも出来るが、それで構わないかね?』
「はい。ありがとうございます」
 少し嬉しい声を出したクリスに、科学者はつまらなそうに小言を言った。
『ふん。馬鹿な若い男女じゃあるまいし……これから死ぬ相手と無線で繋がったところで、何になる』
「……」
 ヤートの瞳からまた光が洩れた。美しいオッドアイのような輝きに、クリスは思わず息を呑んだ。
『終わった。私も忙しい。そろそろ切る』
「お忙しいところをありがとうございました」
 彼の色の戻った瞳を見つめたまま、クリスは通話の切れた携帯端末をポケットに戻した。片手はヤートを抱いたまま、自由になったもう一方の手で彼の髪を優しく撫でてやる。立ったままの不安定な体勢だが、ヤートへの距離感としてはこれくらいが良いだろう。涙こそ流していないが、自身の余命宣告をされたヤートの表情は暗い。
「……出ていようか?」
「……すまない」
 伏し目がちにクリスが聞くと、ヤートは下を向いたまま絞り出すようにして答えた。テーブルに置いていた端末の電源を切り、それごと部屋を出る。扉を閉め、廊下に一人立ち尽くす。
――俺達は命令を遂行する、か。
 クリスは小さく笑うと、ロックが待つ船室へと戻った。
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