第六章 過去


 リチャードは内心動揺を隠せなかった。目の前の女から無線を渡された瞬間から、リチャードの心には警告音が鳴り響いている。
「無線を受け取った。用件はなんだ?」
 冷静なふりをしながら、リチャードは無線の相手を消去法で考える。
 まず目の前のレイルは消える。そしてリーダーであるクリスも消える。彼ならばこんな回りくどいことをせずとも、先程話す機会は腐る程あった。残りは――フェンリルは四人編成のはずなので、残りの二人の内のどちらか。
――このどちらかが、きっと腹違いの弟なのだろう。
『やっと繋がったか。久しぶりだな。兄さん』
 懐かしい、聞きたくもなかった声が無線越しに流れてきた。いつもヘラヘラとしているのは変わらず、軽い口調の中に潜む鋭さと危険な香りも、昔のまま。
「生きていたようだな」
 リチャードは、レイルの存在を気にしながら言った。彼女に自分達の繋がりを悟られては、いろいろと面倒だ。
『僕は悪運が強いから。兄さん程じゃないかもだけど、あの“悪魔”よりは強い』
 自分達共通の父親を悪魔と呼ぶ彼に、リチャードは同情する。
 彼は強き父親の、一面しか見ていない。確かに最低の男だったが、軍人としては最高だった。少なくとも、あんな死に方をするべき人間ではなかった。
「口を慎め。愚か者が」
『はっ、口調まで似てきたんじゃねーか? 毎日女とヤりまくってんのかよ?』
「あまりふざけるなよ? 俺は低俗な話は嫌いだ」
 腹が立つので本当なら叩き切ってやりたいが、レイルの目があるので出来ない。この程度なら、まだ大丈夫だ。
『嘘つけ。あの悪魔の血が入ってるなら、性欲には勝てねえはずだぜ? それか……まだ怒ってんのか? 僕がお前の初恋の女を犯したこと』
「黙れ!! 今その話は必要ないはずだ」
 思わず出た大声に、レイル以上に自分自身が驚いていた。小さなこと、自分自身も忘れていたこと――と、どうやら思い込んでいたらしい。
 一度開いた悲しみの記憶は、濁流となって心を支配する。リチャードの空気に静かな怒りが混ざるのを、ロックは無線越しにも気付いたようだ。
『無線を渡した女は、僕の大切な人だ。もし傷付けてみろ? 誰にも真似出来ない程グロい殺し方してやるからな?』
 ロックの脅し文句を、リチャードは鼻で笑い飛ばした。
 やはり彼は腹違いでも弟で、父親の血を引いている。低俗な考えに、彼の精神を疑う。不本意ながらも共に住んでいた頃は、問題はあっても聡明な面だけは評価していたのに。
――そうだ。あいつは聡明だ。
 急にある可能性に思い至り、鋭い視線をレイルに向ける。リチャードは無線を耳から外し、そのまま手で握り潰すと、座り込んでいたレイルに近付いた。
 異様な空気に、レイルはいち早く状況を理解して立ち上がっていた。警戒した目を向ける彼女に、リチャードは片手を伸ばしながら笑って言った。
「可愛い犬だな。頭が少々高過ぎないか?」
 目まで笑えていたかはわからない。演技は得意だが、嘘は嫌いだった。
 リチャードの言葉に呼応するように、レイルの両腕が光り輝く手錠によって拘束された。手錠に引っ張られるようにして、彼女の身体は座り込んだ姿勢に戻る。何の魔力の流れも感じず、目を見張るレイルに、リチャードは冷静な表情で言った。
「いきなりで戸惑うのも無理はない。昨日の光の拘束術を覚えているな? あれを簡易的に再発させただけだ」
「……マジで、いきなり何なんだよ?」
 舌打ちしながらそう言うレイル。リチャードはそんな彼女の前にしゃがみ込み、外套のフードを半分程後ろにずらす。
 片目と美しい赤髪が見えたところで、彼女の身体が抵抗の雷をほとばしらせた。静電気のように指先に走った感触に、リチャードは思わず苦笑する。
 心底嫌そうで、そんな表情は嫌いではない。つまらなそうに薄められたエメラルドグリーンの瞳に、一瞬だけ、一瞬だけ被虐的な喜びの色が浮かぶのを夢想してしまった。
――さすがは暗殺者だな。
「お前のリーダーが『女を送る』と言った。そしてお前の同僚は『お前を犯すな』と言った」
「……犯すのか?」
「俺は例え敵だろうが犯すようなことはしない。個人的に興味が湧いただけだ。よく顔を見せろ」
 縛られているというのに彼女は、潤んだ瞳でこちらを見ている。どうやら真正のマゾヒストらしい。弟が好きそうなタイプだ。
 だが――
「――違うな」
 リチャードは一言そう言うと、レイルの光の拘束を解いて塔の前に戻った。気が抜けたように金網に倒れ込むレイル。
「……ちょっと感じちまったぜ。どうしてくれるんだよ?」
 そんな小さな抗議が聞こえたので、リチャードは喉の奥で笑いと、返事を噛み殺した。
 かつて自分が愛した相手を奪った弟。本能的にお互い気付いていた。
――俺達はよく似ている。
 かつての初恋の相手は、自分を見ている瞳と同じ瞳で弟を見ていた。犯されていた。
 あの瞳は一生忘れることは出来そうにない。弟と離れるその時まで、何度、何人のその瞳を見て来ただろうか。
 人は、愛しい者を見る時の瞳は、本当に穏やかになるものだ。
 レイルの目を見て確信した。弟の言う大切という言葉の意味を、声を、もう一度反芻する。
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