第六章 過去


 壁をコツコツと叩く音が響いている。
 そこは軍の無機質な廊下で、その音は落ち着きの無い人間が、指で壁を叩いている音だった。崩れることを知らないセットされた茶髪が、指と同じリズムで揺れる。時々内ポケットから手鏡を取り出しては、髪型が乱れていないか手櫛で整えている。
 廊下の壁に背中を預けながら一連の動作を繰り返す彼は、ヤートの記憶とほぼ同じ外見をしている。物憂いそうな金色の瞳が、彼の魅力を更に引き立たせる。
 壁の隣の扉が開いた。その瞬間彼は、そこから出てきた人影を抱き締める。出てきた人影は一瞬驚き、相手が彼だとわかると、照れたように顔を赤らめた。
「待ってたよ、僕の可愛いお姫様」
 歯が浮くような台詞をサラリと口にし、抱き締める力を少し緩める。
「せ、先輩。ここ、軍の管轄ですよ?」
 真っ赤になりながらしどろもどろに反論する女性に、彼はニヤリと笑って抱き締めていた手の片方を下ろしていく。その手が女性のスカートまで下りた時、彼女は飛び退くように彼から距離を取った。
 当然の反応だとヤートは思った。あれはただのセクハラだ。
「な、何するんですか!?」
「僕の大好きなことさ。その奥は軍の管轄なんかじゃないだろ?」
 慌てる女性を尻目に、彼は笑いながら先程までスカートを触っていた指を意味ありげに動かした。勢い良く更に赤面する彼女をひとしきり笑ってから、彼は言った。
「早くしねーと新人訓練遅れるぜ?」
「あ! は、はい!!」
 パタパタと走っていく女性を笑って見送ると、彼は欠伸をしながら反対側に向かって歩き出した。
 特務部隊の新人の制服か、とヤートは気付いた。先程の女性の服装は、軍部から支給される新人用の制服だった。漆黒のジャケットにスカート、そして脚を守るロングブーツ。それなりの働きを見せると、ある程度の私服の着用を許可される。
『あの可愛くもねーつまらない女と仲良しこよしをするのが任務だった』
 空間に響く彼の声に、ヤートは胸の奥を掴まれたような気分になる。惨殺の次は、偽りの好意を見せつけられるのだろうか。
 景色が変わって、軍の兵舎らしき一室になった。女性用らしく、軍部にしては可愛らしいデザインのベッドや小物が並ぶ室内。先程の女性が、可愛いパジャマ姿でベッドに座っていた。他人の記憶の中だとはわかっていても、少しばかり緊張してしまう。なんとなく、居心地は悪い。
 女性のセミロングの茶髪は緩くカールが掛かっており、顔立ちもフェミニンな雰囲気が漂う。一般的に言うところの美人の部類である。そんな彼女を『可愛くもねー』と一蹴する彼は、女には相当困らない生活をしているのだろう。先程の言動からもそれは滲み出ている。
「悪い、待たせた」
 いきなり部屋に一つしかない窓を開けて、外から彼が侵入してきた。ヤートは慌てて開きっぱなしの窓まで駆け寄って、下を覗き込む。窓の数的にここは五階。普通に登ってこれるような高さではない。
「大丈夫だよ。でもまさか、部屋に来たいなんて言うとは思わなかった」
「大事な話があるからな。これくらいの高さ、僕には関係ないよ」
 ニッと白い歯を出して笑う彼に、彼女も照れたように笑った。
――ちょっと待て、大事な話?
 なんとなく嫌な予感がして、ヤートはこの空間からなんとしてでも立ち去りたくなった。
 そんなヤートの考えはよそに、彼は女性をベッドに押し倒した。赤面ばかりしている女性の目が丸くなる。彼はいつになく真剣な口調で話し出した。
「君を愛してる。離したくない……僕の為に生きて欲しい」
 真剣な表情で、彼は言った。にこりともしない彼の強い瞳に、女性も真剣な表情になる。もう赤面していない彼女の顔立ちからは、意思の強さを感じられた。
「はい……嬉しい」
 そう言って涙ぐむ彼女の目尻に、彼はゆっくり優しい口づけを落とした。涙の味に「しょっぱい」と小さく言う彼の表情は、見る者を魅了する笑顔だ。
 甘い雰囲気に包まれた部屋の照明が落とされる。ベッドサイドの優しい間接照明がぼんやりと空間を照らすなか、微かな布擦れの音と女性の押し殺した声が聞こえてくる。
 自然に始まった情事はすぐに光景と共に掻き消えた。
『上からの命令で、僕は新人の彼女と親しくなり、彼女にとってこの世で一番大切な存在になった』
 そう語る彼の声は冷たい。
『だが……』
 彼の言葉が一瞬詰まる。この一瞬の間こそが、彼の本心の手掛かりのような気がした。
『本当に大切になってしまうこともある』
 そう続ける彼の口調は、いつもと変わりがないように思えた。暗闇になっていた場面が展開する。
 燃えるような夕焼けが眩しい公園で、二人は向き合っていた。黒のジャケットを羽織った彼の背中には、銃器が入った鞄が背負われている。新人用の軍服姿の彼女は、彼にしがみつくようにして泣き出した。
「……わかってくれ。君が大切なんだ」
 彼が小さな声で、突き放した。彼は努めて冷静に振る舞っているように感じた。
「でもっ……でも!! 南部で任務なんて」
 頭を優しく撫でられながら、彼女は涙で揺れる瞳を向けている。
「二週間もすれば帰ってくる」
「私は! あと一週間もすれば新しい配属先が決まるのよ!? もうここには居られない! あなたみたいに本部にいられるのは……一握りのエリートだけなのよ!?」
『猟奇殺人鬼もいられる』
 縋るような目をしてそう叫ぶ彼女の言葉に、映像ではない彼の声が答えた。
 映像の彼は困った顔をしながら、彼女を見たまま黙っている。そんな彼に、女性は更にまくし立てる。
「エリートのっ……新しい彼女が出来るなんて耐えられない!! ……あのレイル先輩とも、同じ任務なんでしょ!?」
「あいつは関係ない。ただの同僚さ」
 そこだけは即答する彼に、彼女は一瞬嬉しそうな表情になった。だがすぐに表情を戻し、念を押すように続ける。
「ホントにホント?」
「ああ。僕が欲情するのは君だけだ」
「……もう。またそんなこと言って」
 照れ笑いを隠すことも諦めた彼女は、彼に強く抱き着いた。笑顔を返す彼に、彼女は囁くように宣言した。
「浮気なんか出来ないように、南部に配属されるように頑張るから」
 幸せそうな彼女を最後に、風景は暗闇に戻った。
『僕は彼女を戦場から遠ざけたかった。死なれたくなかったから』
「だが……それは男のエゴだ」
 彼の言葉に、ヤートは思わず反論した。呟かれた言葉に、彼ではなくナオが反応する。
『ロックは彼女を守りたかったんだと思うよ?』
「そうだとしても。この女性は特務部隊の人間だ。ならばもっと別の守り方がある」
 ヤートがそう言うと同時に、真っ暗な空間に彼の声が響いた。
『南部で一悶着あるのは想像出来た。だから彼女にはより安全な場所で力をつけてから一緒になりたかった。手元で一緒に戦い、守ってやりたかった。それが彼女にとっても一番だと考えたから』
 優しい彼の口調には、彼女への愛が満ちている気がした。
『それは、大切な人全てに言えることだった』
 空間が歪む大きな音がして、ヤートは音と共に開いた亀裂に吸い込まれた。吸い込まれる途中、まるで走馬灯のようにクリス、レイル、ルークというフェンリルの面々と、自分の姿が消え行く空間の端に流れたのを見た気がした。
6/22ページ
スキ