第十二章 古の記録
きっと、今までが異常だったのかもしれない。狂犬と呼ばれる特務部隊フェンリルと対峙して、恐怖を覚えなかったことが。
水面に浮かび上がったヤート達の前に、巨大なフェンリルの鼻先が寄せられる。閉じられた口の端からは未だドロドロとしたヘドロ状のものが零れてはいるが、今はそれが開かれる素振りはない。窪みに存在すらも闇に沈んだ瞳の上――大狼の頭の上に、見慣れたはずの四人の姿があった。
「クリス……どうしてだ? まだ、雷神ディアスは召喚されていないぞ」
「どうしてですか!? リーダー! ロック! こんなことしたら、南部や東部の軍を刺激してしまいます!」
ヤートがようやく絞り出した言葉が、隣から放たれた悲痛な叫びに掻き消される。見ればルツィアが、今にも零れ落ちそうな大きな雫を目に溜めて、心の底から叫んでいた。その悲鳴のような言葉に反して、あくまで無感情な声がフェンリルの頭上から降ってくる。
「ルツィア、今からリーダーが本作戦の指示を与える。役立たずの同期と一緒に、聞き逃しはナシだぜ」
仮にも恋人という間柄のはずの男が、今まで聞いたこともない程に冷え切った声で悲痛な声を制した。役立たず、という言葉に反応し顔を顰めたのは、本人ではなく自分とルツィアだけだった。
静寂が空間に降りたところで狂犬達のリーダーが、その鋭さを隠しもしない深紅の瞳をこちらに落とす。途端に水面までもが凍り付いたような殺気に塗れ、ようやく役立たずと形容されたサクが息を呑んだ。
「ヤートさんはゼウスを起動しイグムスを掌握。ルツィア、サク両名は直ちに本部へと戻りこう報告しろ。『ルナールにて狂犬部隊が反乱を起こし、都の民を殺害の後、召喚獣を召喚。本部との交渉を求めている』と」
「なっ!? どういうことですクリス! まさか貴方の方が本部を敵に回すと言うのですか!?」
「そ、そうよ! どうしてですか!? っ……まさか、ヤートさんを、守るため……?」
突然の“命令”に狼狽するばかりのリティストの横で、それなりに流儀に慣れつつあったルツィアが、喰って掛かるようにして……しかしヤートと同じ考えに至ったのか、最後にはそう絞り出した。
「……この都の水底でイグムスと……魔王と接続してしまえば、俺の命は助かる……そういうことだな? そのために、君達はわざわざ本部と……『世界』を敵に回すと、そう言うんだな?」
やはりこの聡明なる男は、最初から最後までヤートの命のことを考えてくれていたのだ。始まりはあの城塞都市で氷の道を走る車上にて、その瞳の鋭さに貫かれた時からで。その時からずっと、彼はヤートの命が奪われない方法を探してくれていた。
「クリス……貴方の狙いはわかりました。それならば提案があるのですが、ここはどうか……雷神ディアスの召喚を見逃す、というのはどうでしょう?」
「召喚するならば“終わり”だ。雷神ディアスを呼び出してしまえば、お前の望みは何一つ叶いはしないぞ。リティスト」
「終わり、というのは……?」
水底での言葉通りに今のところは『話し合い』をしてくれているリティストに安堵しながら、しかし所々に悪意や殺気を満遍なく散りばめる特務部隊達の言葉に、ヤートはそれでも口を挟んだ。話題は自分の命の話なのだ。こうでもしなければこれまでのように流されるようにして、自分の命のための作戦の方向性が勝手に決められてしまう。
「雷神ディアスは都全体に流れるエネルギーを消費して呼び出せる神の名を持つ召喚獣だ。都のエネルギーってのは、そこに住んでいた人間……今は全員湖の中の死体だけどな。それと魔王の死体から都に流れた電力“全て”を意味する。つまり、呼び出しちまったら……おそらくそこに接続してるヤートさんも危ないってわけだ」
「それによ……きっとリティストせんせーもわかってるだろうが、この都……電力が尽きた方がヤバいんだろ?」
少し不貞腐れた様子でそう言ったロックに、レイルも同意する。その表情は……いつもの目だ。任務にて煌めく、殺し屋の瞳。
「さすがに魔法資料館でお勉強しただけはありますね。そうです。この都のエネルギーが尽きた時……つまり魔王の死体が本当の意味でただの屍になった時、この都に眠る数万の機械兵士が“新たなる”エネルギーを求めて動きだします。それこそ、大陸全土が文字通り蹂躙されるでしょう」
「お前……雷神を召喚して、その後……“全部終わった”後は、どうするつもりだったんだよ?」
無感情に肯定したリティストに、ロックが冷たく吐き捨てるように問う。その隣で、おそらく話がまだ飲み込めていないのだろう。ルークが百面相をしながら腕を組んで唸っている。
「復讐をやり遂げた後のことは……正直何も考えていませんでした。僕にとって、今生きていることは全て、弟の復讐のためだけですから。その後この身体がどうなろうと、悔いはない」
「……その弟をまがりなりにも復活させられるとしたら、どうだ? 俺達につく気にならないか?」
そこで獣達の頭は、ふっと表情を和らげた。これはヤートにでもわかる。わざとだ。交渉のためにわざと血の通った人間のフリをする、獣の姿がそこにはあった。
「……それはもちろん、僕もイグムスをここに運び込みながらずっと考えていました。そもそも、イグムスを『予定よりも先に』奪ったのは、その実験をするためでもあったからですし。ですが、結果は散々でしたとも。イグムスは脳を取り込む。その習性を利用して、生前の弟を知る人間を数人犠牲にしましたが、出てくるものは全てゴミ同然の脳を持たない身体だけ。記憶という極めて可能性の低い部分を生体に“繋げる”という実験は、これから先もおそらくは……難しいでしょう」
「それは、弟の部分が記憶という脳の……それも他者の脳からの情報だったからだろう。本部にはまだ、保管されているぞ。あの日戦死した弟の頭部と身体がな」
「なっ!?」
「傷跡がどうにも珍しい『武器』でつけられていてな。南部にて生成の噂があったバイオウェポンの可能性があると嗅ぎ付けて、研究のために保存されていたんだ。先日のデザートローズの件でおそらく近いうちに廃棄処分にはなるだろうが、今ならまだ間に合うはずだ。本当に、言葉通りの『まがりなりにも』繋げただけの見た目、にはなってしまうだろうが……俺は、『人』という存在という意味では、『姿形』、ましてや『生きている状態』に対して偏見はないつもりだ。愛する者が報われるならば、『想う姿』それこそが『人間』だと俺は考えている」
まるで慈愛に満ちた聖人のような言葉を、おぞましい殺戮者が無表情に述べる。しかしその言葉は、真なる意味で公平で。つなぎ合わせた元死体でも、そこに命が蘇れば――果たして本当の意味で本人の意思が蘇るのかは疑問だが――それは人だと、クリスはそう言っている。出自や姿形、ましてやどういう状態で過ごしているかも、彼にはなにも関係がないのだ。
「あの傷を……浄化もせずに、研究材料にしたの……?」
言葉を失くしていたヤートやリティストとは異なり、“その現場”の当事者であったルツィアは、また違った意味での衝撃を受けているようだ。
浄化という言葉と南部のバイオウェポン、そしてデザートローズというワードが出たことで、その現場を詳しく知らないヤートにも安易に想像できた。おそらくリティストの弟を殺した犯人はデザートローズの陸軍所属である老人エドワードだと。
あの禍々しいバイオウェポンの一撃を受けて、肉体は本当に大丈夫なのだろうか……
獣の頭はルツィアの言葉には反応を示さない。静かに交渉相手の返答を待っている。
「……それは……本当ですか? 弟の身体が、本当に?」
「ああ。手に入れるには本部との交渉か、特務部隊らしく暗躍することになるが……」
「ふふ……それはなんとも……特務部隊らしいですね」
リティストに穏やかな笑みが浮かんだ。
その表情が答えだった。なんとか穏便に――あくまでこのメンバーの中だけでの話であって、対本部に関してはまったくもって穏便ではないのだが――話がついたことを察して、コメイが溜め息をつきつつ「これからは本部との睨み合いが始まるのね。あたしの結婚、どうなるのよ……」とボヤいている。
「よし……交渉成り――」
『――あかんわ。そんなん。ボクの家族だけ、どうやっても戻らんやん。そりゃあかんで』
無線越しに臓腑を鷲掴みにするような冷たさを伴った声が流れ、雷神召喚の鍵を埋め込まれた各々の“パーツ”が威圧的なまでの黄色い光を放った。