第十二章 古の記録
巨大な顎が水の天井を打ち砕く音を聞きながら、ヤートは己の足元ががくりと揺らぐ感覚に襲われた。
「っ!?」
「ご心配なく! 僕の魔法です。この魔力で覆った地面の下に、魔王の死体を中心にした祭壇があります。実物を目にすれば彼等も攻撃の手を止める。そこで話し合いましょう」
そう言ってリティストがその手をすっと横へ振るった。手に纏った雷がまるで生き物のように地面まで降り立ち、四方八方へと這って行く。這った後には紫の魔力が足跡のように残り、それに呼応するように地面が割れ、本来の湖の底が現れる。
それは巨大な魔法陣に囲まれた祭壇だった。水底全体に描かれた魔法陣には、先程リティストが遺した雷の魔力とはまた異なる魔力が脈動しており、その周りを美しい水草のような緑が彩っている。
どくりどくりと命を奏でるように脈動する魔法陣の中心部は、少しだけ盛り上がっていた。長方形に盛り上がったその場所は、土で出来た棺になっており、そこには蓋というものはなく、その代わりとでも言うように頭上の部分に、炎の結晶のような魔法物質『イグムス』が鎮座していた。
水に覆われた天井がどぷどぷと揺れ、限界が近いであろうことはヤートにもわかった。水を制御し続けているのであろうコメイの表情には、一刻の猶予もないことが伝わって来る。
ヤートは一瞬リティストに視線を投げてから、棺に駆け寄る。ルツィアとサクも続いて棺を覗き込んだ。
「これが、魔王……」
魔王、と呼ばれる存在を、ヤートは見たことがなかった。もちろん、そんな神話のような存在が実在しているとは思ってもいない。比喩表現としての『魔王』であっても、ヤートは見たことがなかったのだ。単なる王ではなく、悪しき言い回しである魔王など。
棺に横たわっていたのは、美貌の若い男性だった。命が尽きているとはとても思えない美しい銀髪は、身体全体を包む大量の淡い蒼の花に彩りを添えていて、細身の身体は王族らしい洗練されたデザインの衣装を纏っている。そして、その胸の上で組まれた手には、禍々しい魔力を放つ剣が握られていた。
「死体もそうですが、その魔剣にも触れないように。まだ魔力は尽きていませんので」
リティストの鋭い声に制止され、思わず伸ばしていた手をヤートは慌てて引っ込める。まるで引き寄せられるように無意識に手を伸ばしていた。制止をくらうまでそのことにすら気付かなかった。非常に危険だと、それだけでもわかる。炎の揺らぎに、険しい顔をした自分の姿が映った。
「……まだ魔力としては“生きて”いますね。これ……」
ルツィアが信じられないと言いたそうにそう零した。ヤートから見てもこの死体は、死んでいるが生きていると思えるものだ。少なくとも都ひとつを生き長らえさせる程度の魔力はまだ残っている。本来、魔力というものは命がなければ“生み出す”ことは出来ないので、この魔力は死体に残った分なのだろうか。それにしては膨大過ぎるが。
「もう限界っ! 開けるわよ!? 良いでしょ!?」
「ええ、コメイ。ご苦労様です」
癇癪を起すように怒鳴ってから、コメイが天井の水の制御を解いた。それとタイミングを同じくして大顎が制御を失くした水を全て飲み込んだおかげで、水底のヤート達が濡れることはなかった。
「クリス! 貴方達の大事なゼウスが、お話をしたいそうですよ! どうか“最後”に、話してあげたらどうですか!?」
遥か頭上の大顎に向かって、リティストが声を張り上げた。果たしてその声が直接彼等に届いたかはわからないが、それでも巨大な獣は動きを止め、乗り出していたその身を湖畔まで戻したようだった。
「コメイ! もうひと踏ん張りです! ほらっ!」
「もう! あんた達みんな人使いが荒いのよ!!」
リティストの指示にコメイは怒りながら、それでも二人で協力して浮かび上がる“地面”を造り出した。リティストの魔力によって固定された土台を、下からコメイの操る水流によって上に浮かび上がらせる仕組みらしい。
先んじて乗って示す二人に続いて、ヤートとルツィアも乗り――未だ棺を眺めているサクの手を引っ張り上げた。
全員が乗ったことを確認してから、水流によって土台はそのまま真っ直ぐ上に浮かび上がる。