第十二章 古の記録
青空を映す水面越しに、それはそれは大きな――軍用トラック程度簡単に噛み砕けるような口を持った獣が、光のない空洞にしか見えない瞳をこちらに向けていた。
その獣はまるでどろどろと溶ける赤色の泥を纏った狼のような見た目で、こちらを向いたその身体からは今も、泥状の粘液を垂れ流している。だらしなく開いたその口には、鋭利な犬歯がずらりと並ぶが、その隙間からも例の泥状の液体がぼとりと零れた。
「……あれが……フェンリル……」
コメイの呟きに、思考が吹っ飛んでいたヤートははっと我に返った。
「フェンリルだと!? なら、あれはクリス達が呼んだのか!? まだ雷神の召喚を確認すらしていないのにか!?」
水面の向こうは都の中だ。いくら湖に隔たれた水底に自分達が消えたとしても、この状況を確認すらせずに、フェンリルという精鋭達が先んじて召喚獣を差し向けるなど、有り得るはずがない。
召喚獣の召喚はイコール都の破壊を意味する。召喚の際の魔力の流れや光を確認出来なかったことを考えるに、彼等は遠く離れた場所であの大狼を呼び出したはずだ。その地点からあの獣がここまで歩いてきたというのなら、それだけでも大災害と充分に言えるだろう。
「と、とにかく! ここから湖の上に出て、俺達が無事で、召喚もまだしていないということを伝えれば、リーダー達もフェンリルをひっこめ――」
「――彼等の目的は“ここ”の制圧です。城塞都市でのゼウスの確保から始まった今回の作戦は、最終的には“ここ”……魔王の死体にイグムスを用いてゼウスを接続し、雷神ディアスを支配下に置くことが目的です。そのサポートのために僕達も、イグムスをここまで運び込みました」
サクの言葉を遮ったリティストの声は、妙に落ち着いているようにヤートには感じた。その言葉の内容には自分自身のことが含まれていたが、今のヤートにとっては大した問題ではなかった。それよりも、気になることがあったからだ。
「イグムスを……ということは、本部の作戦を遂行すれば、ヤートさんの命は……」
頭の回転の速いルツィアがヤートと同じ結論に達したのだろう。言いづらそうにそう言葉を零した。
雷神ディアスを召喚するという目的は、本部もリティスト達も同じなのだ。命の尽きた魔王と同じく、自分もまた、目的のために部品のように使われる。だが、フェンリルはどうだ……?
「フェンリルの四人は、その命令を遂行するためだけに、俺をここまで連れてきたのか? 俺を、ここで殺すために? 本当に、そうなのか?」
ヤートにはそうは思えなかった。確かに狂暴な猟奇殺人犯達だ。言動にも大いに問題があるし、軍紀違反なんて日常茶飯事で……
――そうだ。軍紀違反なんて、彼等の中では日常茶飯事だ。この状態にも、何か他に意図が……
「私も、ロック達がヤートさんを殺すためにここまで来たようには思えません! 召喚を続ける以上、あの獣の近くに四人はいるはずです! 話を聞きに行きましょう!」
力強く弓を握り締めながら、ルツィアが縋るように言った。その言葉にサクも頷き、リティストも諦めたように溜め息をついて言った。
「先手を打たれてしまった以上、今から雷神の召喚を行う隙は与えてもらえないでしょうね。それならば僕は、もう一つの可能性に賭けましょう」
「賭ける……?」
「ゼウスが自らの意思で、僕達の復讐に協力してくれる可能性です。彼等が何故狂犬と呼ばれるか、一度敵対して<向き合って>みてください」
リティストがそう言った瞬間、頭上に広がる水の蓋が、巨大な顎によって噛み千切られた。