第十二章 古の記録
縛られたルツィアの目の前で、リティストが狂犬への復讐を語る。
大事な弟を殺された挙句、その責任をどこにも追及することが出来なかった彼は、憎しみを加害者ではなく傍観者へと定めた。
複雑な情勢によって加害者である南部の軍人にも東部の女学生にも何も出来ない不満を、唯一手の届く範囲にいる特務部隊フェンリルへと転化したのだ。
大人しく彼の憎悪をただ聞かされていたルツィアからすれば、それは異常ながらも理解出来る流れでもあった。加害者である自分自身でも、同じ立場ならば安易にそう“流されていた”と思うのだから。
彼の弟を助けるために派遣されたのは、特務部隊の中でも精鋭中の精鋭フェンリルだ。そんな者達が何故、自分の弟の命ひとつを守ることが出来なかったのだろうか。
懇願すれば本部が彼等に罰でも与えるかもしれない。名前も顔も知らない加害者よりも、名も存在も知っているフェンリルの方が、血生臭い噂ばかりの狂犬達の方が、リティストには責めやすかったのだ。何より、そのリティストの言葉が“対象に届く”ということが、一番重要だったのかもしれない。
とにかく、彼はわかりやすく責めやすいものへと、憎しみの対象を変えたのだ。それは自分の心を守るための防衛手段のようなものだろう。目的も手段もなく、ずっと憎しみを募らせるよりも、そちらの方が楽だから。
加害者としてルツィアは、ただ、彼の憎しみに塗れた言葉を黙って受け止めている。憎しみに支配されたこの男の矛先を、今更フェンリルから逸らすことは出来ない。ここでルツィアがどれだけ悪いのは自分だと懇願しても、きっと彼は感情のない笑みを浮かべて宥めるだろう。彼にとって目の前にいるルツィアは、どこまでいっても『守るべき女生徒』なのだ。まるで呼び名を同じくした弟が、死する瞬間すらもそう思っていたように。そう、思い込むことに努めているのだ。己の心を守るために。
しかし、そうしながらも彼は、その行動に大きな矛盾を抱えていた。
「貴女にはこれから起こることをここ<特等席>から見届けてもらうと同時に、ゼウスをおびき寄せるために人質になってもらいます。彼はまだ、特務部隊には染まっていない。貴女の姿が湖の底に見えたら、きっとコメイの制止なんて振り切って助けに来るでしょう」
「……ヤートさんならそうでしょうね。私のことは、憎くないんですか?」
少しだけ目に力を込めてリティストに尋ねると、彼はふふっと小さく笑い、やや間をおいてから口を開いた。
「……貴女の命を奪うことは、僕の計画にはないんです。だから、貴女はこれからのことを見届けて、どうか本部に情報を持ち帰ってやってください。『特務部隊フェンリルは消滅した』と、ね」
「私を証人に……というよりは伝令役にして、本部と交渉するつもりですか?」
召喚獣を呼び出す際、基本的には平原などの障害物がない場所が推奨されている。その理由は単純で、呼び出した召喚獣がその巨体によって建造物を踏み壊してしまうからだ。戦闘行為なんて行えば更に、その被害は増えることになる。
空中に浮遊するような存在ならまだしも、雷神ディアスは大型の獣の姿をしているようだ。家屋程度なら平然と踏み潰せるその大きさは、ただそこに立つだけでも充分に災厄と言えるだろう。そんなものを呼び出し、それから南部の軍、それが終われば東部の街を攻撃するつもりだとリティストは言っていた。
雷神ディアスを呼び出したら最後、この都は機能停止する。本部との連絡も途絶するだろう。その瞬間、本部はこの都を攻撃対象と認識する。だが、リティストの計画が成功すれば、本部の手足となるべきフェンリルはもう、命を落としているというのだ。
手足となるフェンリルが壊滅するなんて、とても想像出来ないが、それでもその状況を仮定した場合、本部には作戦の立てようがなくなってしまう。この都は砂嵐によって視界を守られ、そもそも東部と南部とは折り合いが悪く、お世辞にも一枚岩とは言い難い関係だ。
そんな穴を埋めるための特務部隊が、現地で戦死などとなってしまったら……召喚獣の脅威もあるため、本部はある程度の譲歩をしうる可能性もある。
――願うのは、南部軍の壊滅? それとも、東部の街<故郷>の蹂躙? 本部には手を出さないことを条件に、反逆を見逃せとでも言うの?
充分にあり得る話だった。狂ってしまった人間の考えに、常識なんてものは通用しない。平和が常識たりえるのは、きっと幸運なことなのだろう。たくさんの犠牲の上に、平和というものは成り立っている。
「はなから本部は僕への当てつけのために、貴女をフェンリルに配属したようなものですからね。それくらいの仕打ちは許してもらえるでしょう」
「……いったいいつから……」
いったいいつから計画されていたのだろうか。そうルツィアが呟いたその瞬間、頭上を覆う水の壁が、どぷりと怪しい動きを見せた。
驚いてその揺れる水壁を見上げると、水面に広がる波紋のように表面が揺れ、そして――大人一人が余裕を持って通れるような大穴が空いた。穴の向こうから細い陽の光が差してきて、異様な眩しさをルツィアは感じた。
穴の直径にしてはえらく細い光の筋だ、と目を凝らすと、光を遮っている影のようなものがあった。その影はどんどん大きさを増し、やがて穴からヤートとサク、そしてコメイが落ちるようにして出てきた。どうやらこの穴は水面へと続いていたようで、三人は飛び降りる形でここまで来たらしい。
演習ではまだ実物を見ていないが、本部からの情報によれば、ヤートは地属性の魔法を使うらしい。そうなるとおそらく、この水の動きはコメイの魔法に間違いないだろう。その証拠に彼女はその手に雷を纏いながら、周囲に水の塊を浮かべている。その数個の塊を穴に向かって放ち、頭上の蓋にした。
「ルツィア!」
普段は頼りないくせに、こういう時だけ一直線に、サクがルツィアに駆け寄って来る。それをリティストが特に制止することはなかった。彼の目的はヤートをおびき寄せることなので、サクの存在などどうでも良いのだろう。
「大丈夫!? 怪我してない!?」
「うん……私は大丈夫。それより、ヤートさんを!」
守って、と言い掛けたルツィアより先に、リティストが動いた。その手には武器のようなものは持っていない。だが、彼はどうやら遠距離からの魔術を得意とするらしく、真っ直ぐヤートに向かって突き出された手――その手からも雷が迸っている――から岩の刃を無数に放った。
それをヤートは大剣で弾き、その背後からコメイが同じく刃状にした水弾を放つ。
狙い違わず飛来する水弾をリティストが後ろに跳んで避ける。その隙にサクによってルツィアの拘束は解かれた。幸いにも弓は無造作に地面に転がされていたので、すぐさま拾って矢を構える。
「コメイ……約束より少し、早いですよ」
「仕方ないじゃない。熱ーい男に従いたくなっちゃったんだから」
「……ふっ」
思わず、といった様子で予想外に響いたその小さな笑いに、ルツィアは言葉を掛けようとして――遥か頭上から轟音が響いた。