第十一章 犬と狐
どうやらこの都の建物に使われている金属は、防音に優れた素材らしい。表面に走る幾何学模様からして、他の地方では夢物語のような、冗談抜きに“未来的な”物質なのであろうことは安易に想像出来た。
扉一枚挟んだ先の廊下には全く気配すらしなかったというのに、後輩の過去を話し終えたクリスはその狂犬らしい鼻を利かせて「そろそろ腹を空かせた犬共が動き出すな」と笑い、外に出る際はルナールの特務部隊と行動を共にするようにと言い残して部屋を出て行った。
さすがにヤートも知らない土地――地理的な問題だけでなく、政治的な安全面での問題の方が大きい――を単独でうろつくことがどういう結果を招くかはわかっているので、素直にそれに従う。
「……リーダー、なんだか怖かったですね」
作戦中はそう呼ぶようにと徹底されている狂犬達に倣い、クリスのことをそう呼びながら、サクが不安げにこちらを窺うように言った。
「そうだな……さすがのクリスも、同僚を疑うのは気が引けるのかもしれないな」
リティストの部屋に二人で残されたものの、身体の疲れに反して神経は高ぶったまま。異変があるまで休んでおきたい気持ちもあるが、どうにも寝付けそうにはなかった。それはどうやらサクも同じだったようで、彼は宛がわれたベッドではなくソファに腰掛ける。
「俺だって……ルツィアが過去に殺しに加担していたって聞いただけで、過去の話だったとしても胸が……ひっくり返りそうでした。それを現在進行形で疑いながら行動するなんて……正気じゃ出来ないですよ」
「……精神的な強靭さは、並の軍人以上だろうな。それだけ一人一人に課せられる“モノ”が大きいんだ。それは責任なんて言葉では説明出来ない、もっと深くて、重たいものだ……」
――きっと闇に堕ちた人間にしか抱え込めないような歪みなのだろうな……
ぐっと奥歯を噛みしめ、両手で顔を覆う。小さく、だが長く息を吐くことでようやく気持ちを落ち着かせて、ヤートは改めて“闇に堕ちた人間”の部屋を見渡す。
この部屋は、歪んでいた。恐ろしく深い、闇によって。
部屋の壁。家具の上。そこかしこにある『弟の写真』。しっかりと角と並行になるように並べられたそれらからは、几帳面な性格が見て取れる。だが、それ以上の“人間らしさ”は感じ取ることが出来なかった。
いや……それこそ、ヤートがまだ“人間”である証明なのかもしれなかった。狂犬達が口を開けば、『この部屋こそ“人間らしい”悪意に満ちた部屋だ』と零すのかもしれない。それはヤートにはわからなかった。
この部屋には悪意が渦巻いていた。弟を殺した相手に対する殺意があった。
――犯人が憎いのは、当たり前だ……
心の中に宿った感想は、誰もが持つ感想で。それはつまり、ヤートやリティストやフェンリルが、皆が共有する感想で……
――憎い相手を、特務部隊ならどうする?
特務部隊なら。自分が知っている狂犬と呼ばれる彼等なら、きっと惨たらしい報復を加えるだろう。その牙は犯人だけではなく、その周囲すらも巻き込み血の宴へと発展する。
そこまで頭で考えた時、ヤートは自分がとんでもなく遅れを取っているのではないかと思い至る。
「ど、どうしたんですか? ヤートさん」
ヤートの様子がおかしいことに気付いたのか、サクが慌てて立ち上がり尋ねる。
「ルツィアは、まだリティストさんと?」
「どうでしょう。まだあの部屋にいるなら、リーダーもあっ……」
そこまで答えてサクも気付いたようだ。続きが言葉にはならなかったが、その目が大きく見開かれている。
「過去の事件の被害者遺族に加害者側の人間、それに救援に遅れた人間が顔を合わせて……何もないわけがない」
そう言って勢いのままに扉に手を掛けたヤートだったが、それより一瞬早く、部屋の扉は横にスライドした。
「あら、お二人共どうしたのよ? あたしの気配、気付いちゃった?」
扉の前の廊下に立っていたコメイによって、その勢いを殺されてしまった。