第十一章 犬と狐
軍学校で教員をしていたリティスト――弟<殉職者>の『名』を受け継いだ兄<自分>のことだ――は、軍人というわけではなかった。数学という分野を専攻していたリティストは、その頭脳を兵士達に伝えるべく日々講義という戦場へ赴いていた。
末端の兵士ならまだしも、リティストが受け持つのは幹部候補生達だ。専攻の分野ではない学問だろうが、軍人という人種は頭に叩き込むという原始的なやり方でその難問を突破してくるので、リティストとしても教えがいがあるというものだった。
普段は生まれ育った大陸東部の軍部にて講義を行っているのだが、極稀に中央部まで出向くこともあった。その時に出会ったのが、狂犬部隊<フェンリル>だった。
彼等は決して真面目な生徒ではなかった。その中でもリーダーを務めているという若い男、名前ではなくコードネームを平然と名乗った『クリス』は、なんとか常識が通じそうな人間だったので、リティストは彼に講義の後に声を掛けてみた。
いつ何時も警戒を怠らない深紅の瞳がこちらを見る。その奥底に滾る感情の暗さに寒気がしたことを未だに覚えている。しかしそれと同時に、きっと対外的にという判断だろうが、穏やかに緩められた口元に好感が持てたのも真実であった。
『なんですか? 先生』
予想よりも低い声でクリスは返事をした。少し高いとよくからかわれた自分の声が好きではないリティストは、そんなところすらもよく似てしまった弟が不憫でならないと思いながら、狂犬部隊の頭に問い掛ける。
『特務部隊、というのは……良い職場か?』
血生臭い噂しか聞かない職場に配属されたと弟から連絡があったのは、ほんの数日前だ。その連絡を最後に弟とは音信不通になってしまった。いや、全く音沙汰がないということではない。ただ、その『特務部隊』に関わる部分が欠落した情報だけが送られてくるのだ。
本来、特務部隊に配属されたことは家族にすらも公表されない。しかし弟はどうやら、構成員としてではなく初めはあくまで教員としての配属だったようだ。これは後から調べてわかったことだが、潜入の任務の際『高校教師』としての能力が問われ、あまり危険もないことから弟をそのまま構成員として放り込むことになったらしい。
もちろん戦闘能力の問われる職場だ。いくら頭が良かろうが素人そのままの人間を放り込む程、特務部隊も人手不足ではない。確かに人手不足なのは真実だが、それでも戦闘能力を偽るくらいならば学力を偽る方が特務部隊らしい、というものだ。
弟は教員として迎えられながらも、その真面目さから武術にも打ち込み、才能もあったのだろう。次の年には正式に構成員として配属されることとなった。
いくら戦闘能力を凄腕達から認められたとはいえ、それでも兄であるリティストの心には心配は絶えない。
軍部に顔を出しているリティストでも、特務部隊だと明かされた人間と知り合う機会は滅多にない。兵士達の噂や立ち振る舞いから、今ではある程度目測を立てることは出来るようになったが、それでも軍部から正式に特務部隊だと明かされたのは、狂犬部隊だけだった。
『それは……どういう意味で、ですか?』
狂犬達の頭は予想以上に礼儀正しい。その経歴は血塗れで、人間がどこまで狂えばそうなれるのかと思える程の虐殺者だ。しかしそんな猟奇殺人犯に、リティストは教員として接していて……
『……弟が特務部隊に配属されたらしい。僕は、弟の身が心配なんだ』
深紅は人間の本質を見抜いていた。理想や建前なんてものは、一皮剥げば意味のないものだと。獣の頃から続いている虐殺が止まらないのがその証拠だと。理性的に振舞いながら、その深紅は告げていた。『獣は命令には従わない』と。
狂った奥底を見せられて、リティストは彼に魅せられたと確信した。心の奥底に沈めていた心配を獣に伝えた。この獣はきっと、告げ口等はしないと確信したから。
『弟の名は?』
『コードネーム、というやつだろう? わからない、何も』
『……弟、ということはある程度は似ているのでしょう? どこかで会うかもしれません。その時は……』
『その、時は……?』
『俺達狂犬部隊が弟さんのことを守ります。群れを守るのが頭の役目なので』
その声は張ってもいないのに、強く強くリティストの心に沈み込むようだった。