落陽異伝 -邂逅
夢小説設定
落陽異伝(らくよういでん)本作品の夢主は「終焉なき」本編と異なる”可能性”を辿った同一人物であり、英国出身です。
カタカナでの名前を推奨しております。
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突然現れた獣に誰もが絶句した。
白い虎だ。整然と並ぶ牙は唾液でぬめり、鋭く天地を向いている。顔の正面についた黄金色の両目は猫のように瞳孔が細く、鼻上に寄ったしわがその肉食獣の剣幕を表現していた。太い四肢に備わった爪が石畳みを穿つ。
小型の自動車ほどの大きさがある獣。それが突如、霧の漂う地下室に現れた。
殺意をむき出しにして。
それでも兵士は躊躇わなかった。手にした敵の所有物を白虎に向け、発砲。顔面を正確に狙ったそれはしかし、白い毛皮に塵一つつけることなく明後日の方向へと弾かれる。
「な……!」
兵士は驚愕の声を発しようとした。発しようとしていた。
半開きになった口へと獣の拳が突っ込まれる。しかし人の顔面ほどもあるそれが兵士の口に収まるわけもなく、兵士の頭部を吹っ飛ばした。脳漿が飛び散る。首の断面から血が噴き出す。悲鳴を上げるかのように天井へと噴出したそれを鬱陶しがるように、虎の爪が男の胴体を袈裟斬りにした。左肩から右太股へ一振り、指先の爪が一つの胴から幾本もの肉塊を作り出す。
――それが人間だったことを忘れるほどの残骸が、霧立つ地下牢の床に散らばる。
「……ゥウウ……」
兵士がいた場所を前脚でなじりながら虎は一呼吸置く。そこにあった人間の姿を見失ったかのような動き。けれどその両耳が音を拾い上げ、虎は新たな人間の気配に顔を上げる。
首を回した虎と目が合ったのは、黒服を着たポートマフィアの構成員だった。
「ひ……!」
虎の黄金色に射竦められた構成員は微かな悲鳴を上げて後退する。ザリ、と靴裏が石畳の上の砂を踏む。
虎が後退する男へと鼻先を向けた。次の獲物へと狙い澄ましたようだった。飛びかかろうと全身を低くし、後ろ脚を踏ん張る。後ろ脚の蹴り出しと共に前脚を前方へ向け、そこにいる獲物を全体重をかけて潰すつもりなのだ。
構成員は逃げようとする。虎から背を向け、地下室の出口へと駆け出て助けを求めようとする。けれど人間の逃走能力と虎の殺戮能力は天地ほどの差がある。虎に見定められた人間が逃げ切れるわけもなかった。
虎の後ろ脚が床を蹴る。前脚が前方へと伸びる。爪が逃げる構成員の背へ突き立てられようとする。
瞬間。
――虎が真横に吹っ飛んだ。
ドウッと地下室の壁に虎の胴が叩き付けられる。生じた風圧に霧が一瞬晴れた。
「駄目だよ敦さん」
幼さのある通りの良い声が地下室全体に響き渡る。
「見失っちゃ駄目だ。彼らはあなたの殺す相手じゃない」
構成員達は全員揃って腰を床についていた。虎が吹き飛ばされる風圧に耐えきれなかったのだ。三人の黒服は、揃ってそこに立つ人影を見上げる。
虎がいた場所に、少女がいた。
敦と同じ程度の年の子供だ。幼さの残る頬、欧州を思わせる鼻立ち、背の半ばほどまである髪は透き通るような亜麻色。白いブラウスに赤いリボンタイが映える。左腰に提げられた最新式の拳銃と黒いパンツと同色のベストによって、彼女がポートマフィアの人間であることが知れた。それでも男達は動けなかった。
その両目は――花を抱いていた。
薔薇の紋様を刻み込んだ赤の玉が、眼窩にはめ込まれている。人の目ではない。獣の目でもない。美しいがおぞましい、人ならざる者の目。
「ウウ……!」
虎がよろりと立ち上がった。突如現れた少女を見据え、睨む。それに少女が動じることはなかった。凛然と両足で立ち、堂々たる様子で虎へと向き直る。
「敦さん」
丁寧な呼び声に少年が化した虎が反応することはない。警告じみた唸り声を上げる白い獣へ、少女は短くため息をついた。何かを思うように目を細める。
「……仕方ない」
少女は一度顔を伏せて目を閉じた。敵意を剥き出しにした獣を前に視界を閉ざし、そして何かを呟く。
「異能力――」
それは誰かを呼ぶ声に似ていた。
瞬間、黒服達は同時に脱力した。三人共が一様に上半身を揺らがせ、そして重力に逆らわず床に頭を打ち付ける。頭蓋骨がへこむ音と共に血が床を塗らした。が、それはさほど広がることなく小さな湿地を作るだけになる。脈拍がそこには反映されなかった。
頭を床に叩き付ける前に、彼らは事切れていた。
「三人分でどこまでできるか……”予備”はあまり使いたくないんだけど」
独り言を言い、少女は顔を上げた。薔薇色の眼差しが虎を正面から見据える。
「――おいで、敦さん」
挑発に似た呼びかけに虎が吠える。
「グルアアァアアアァアァァア!」
ダッと虎は真正面から突っ込んできた。四肢を大きく一度動かすだけで、その巨体は狭い地下室を瞬時に移動する。少女の鼻先に爪が迫る。
しかし虎が爪を振り下ろして裂いたのは、少女の残像だった。
突如消えた標的に虎が目を見開いて驚愕を露わにする。瞬間その背骨を衝撃が打ち砕いた。
「たあッ!」
背の上に跳躍していた少女の踵が上方から虎の背を叩き潰したのだ。
「グアァッ!」
背を逸らして虎が吠える。弾丸すらも通らないはずの虎が、骨を砕かれた痛みに吠える。
少女は虎の背を蹴ってくるりと回転、少し離れた床に着地、しかし虎眼がその姿を捉えるまえに少女の姿は掻き消える。半瞬後、虎の体がくの字に折れ曲がる。腹部を蹴り飛ばされたのだと虎が理解する間はない。
瞬間的な移動。骨のない腹を蹴られた虎が呻く。内臓を直接蹴られたかのような衝撃が虎の五感を狂わせていた。くるりと前方に回転して少女が虎の胴下から鼻下へと移動し、ようやく虎がの視界にその姿が現れる。
白霧を纏う淡い金色の長髪、輪郭を朧としながらもその紅蓮の花に似た色合いの眼差しの強さは変わらず、虎を不躾に射貫いている。
怒りが虎の黄金色に宿る。
「グルアアァアァア!」
咆哮、上半身を反らせた後、牙と爪が一気に眼前の少女へ襲いかかる。それが触れられるほどの距離へ近付いて来る様を見つめ、少女は微笑んだ。
「君ではわたしを殺せない」
その予言が虎の耳に届くことはなかった。
残像を残さない勢いで突っ込んできた虎の顔面を紙一重で避け、半身を翻した動きのまま地を蹴り虎の首もとの毛を引っ掴む。少女を振り落とそうと頭を振り回したそれの動きに合わせて、少女は意図的に虎の上方へと吹き飛んだ。天井に両足をつけ、蹴り出す。少女の小柄な体が宙で旋回する。少女の踵にきらりと鋼色の輝きが宿る。
隠しナイフを踵に忍ばせたまま、少女は横ざまに足を薙ぎ、それを虎の顔――眼球へと突き立てた。
「グゥオォオォオオォオ!」
痛みから逃げるように顔を上方へ逸らした虎の片目から血飛沫が上がる。しかしそれはすぐさま止まり、だらりと目の周辺の毛を赤く染めただけに留まった。
――虎の超再生。
しかしそれを知っていたかのように、踵の刃を眼球から引き抜くや否や少女は次の攻撃の準備へと移行していた。視界の片側を失い上体を反らせた虎の真正面へと降り立ち、血に汚れて切れ味を失ったナイフを引き抜いて放り、少女はすぐさま虎目がけて跳び上がる。上体を宙で不規則に旋回、上体の捻りによって為されたそれによって彼女の左足が大きく弧を描き、鞭のように振り込まれた蹴りが虎の顎下へと叩き込まれる。
「はあああああッ!」
ドオォッ!
砲弾のような衝撃波が虎の顎下から頭上へと突き抜ける。虎と少女を中心に霧が一斉に吹き飛ぶ。
「――!」
電気が走ったかのような痙攣――脳震盪――巨体を走った衝撃に、虎の一切の動きが掻き消える。
宙に浮いていた虎の体は、受け身を取ろうとする動きもなくそのまま腹から床に落下した。
「うわあ……ッ」
虎の真下にいた少女は、虎もろとも石畳みの上に倒れ込んだ。石畳みと虎の間に挟まれた彼女はどうにか肘を立てて上体を起こそうとしつつ「重い」と感想を漏らす。緊張感のない少女の不満に応えるように、虎の姿が変化した。
手足は細く、爪を失い、胴が人間の形へと戻っていく。みるみる小さくなっていくその体はやがて一人の少年の姿へと落ち着いた。白髪に、首元まで覆う黒い外套。少女の腹部に顔を預けるように伏した少年は、片目の周辺に固結した血をつけたまま、気を失っている。
「……間に合ったあ」
大きく安堵のため息をついてから、少女はそっとその頭部を撫でた。小動物にするような、毛並みを楽しむ仕草だった。
「さすがに敦さんに対して攻撃を入れるのは重労働だなあ……毒なんかを使ってもすぐに解毒されちゃうんだろうし」
そう苦笑する眼差しは既に花色を失い、凪いだ湖面を思わせるほどに青い。
しばらくそうして少年の頭を撫でていた少女は、駆けつけてくる足音に顔を上げた。地下室の騒ぎを聞きつけてか、誰かが来るようだ。少年を動かさず、少女は座り込んだままそちらへと首を回す。
「おい、どうした!」
駆けつけたのは少数の構成員だった。先頭を切って特別収監房に入ってきた人影は、血肉と死体の散らばる光景を見、凍り付く。
「……これは」
そしてようやく、帽子を被った背広の彼は床に座る少女とそれへと倒れ伏した少年へと目を向けた。
「……何があった」
「虎が暴れました」
簡潔に少女は答える。
「捕虜の一人が早く目覚めて……銃を奪い仲間を撃ち殺した後、襲ってきたようです。それに混乱した彼が虎に変身してしまって。何とか制圧したのですが、こちら側の被害は食い止められませんでした。申し訳ございません」
「……手前」
報告を聞き流し、彼は――最高幹部の中原中也は、敦を抱えた少女へと目を細める。
「見ねえ顔だな」
「最近加入しましたので」
「所属は」
「未だどこにも」
「名は」
「クリスと申します」
少女は場に似合わない笑みを碧眼に浮かべた。
「――クリス・マーロウです」