落陽異伝 -邂逅
夢小説設定
落陽異伝(らくよういでん)本作品の夢主は「終焉なき」本編と異なる”可能性”を辿った同一人物であり、英国出身です。
カタカナでの名前を推奨しております。
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
***
敦はヨコハマの街に出ていた。高層ビルの立ち並ぶ一等地とは少し離れた、マンションの多い土地だ。とはいえ観光ではなく、周囲には見慣れた黒服のポートマフィア構成員達がいる。この組織に来て半年が経ったが、やはり彼らが纏う重く硬質な雰囲気は身が竦むほど恐ろしかった。自分もマフィアの一員だというのに、これではまるで蛇の群れの中に放り込まれた蛙だ。自分も蛇だということを忘れ、いつ食われるのかと怯えている。
「敦君」
落ち着いた老年の声にハッと我に返る。気付かないうちに押さえていた外套の首元のファーから手を離して、敦はそろりとそちらを見た。
「……広津さん」
「君がこの組織に入ってからまだ日が浅いのは承知しているが……」
「す、すみません」
即座に謝り頭を下げる。武闘派組織「黒蜥蜴」の広津とは日々の稽古も含めて何度か世話になっている。それも、首領——敦を引き入れた太宰の指示によるものだ。広津自身の意思ではない。なぜか虎に変身できる力を持ってはいるものの、敦はやはり臆病で弱い人間でしかなかった。広津を始め黒蜥蜴の皆に見下されていることはよくわかっている。
「君も大変だな」
咥えた煙草に火を付けながら広津は敦の横に立った。
「このような世界、君には合っていないだろうに」
「……僕も、そう思います。けど」
ぐ、と首元を握り込む。その下にある首輪の痛みを認識する。
「……ここだけが、太宰さんだけが、僕に居場所をくれたから」
「君は孤児院の出だと聞いた」
「……親だけでなくその施設にすら見捨てられましたけどね」
自虐を込めて笑う。
「まあ、見捨てられていなかったとしても今と大して変わらない生活ではありました。正直思い出したくもありません」
広津は静かに煙を吐き出した。それ以外にすることがないようだった。他人の不幸話など、聞いても困るだけであることは敦にもわかっている。敦とて理解されたくて話しているわけではないし、自分よりも遥かに恵まれた人から同情されたいわけでもない。
話の途切れた沈黙が二人の間に漂った。
「広津様」
黒服の構成員が駆け寄ってくる。
「警戒態勢整いました」
「ご苦労。……敦君」
「はい」
こくりと頷く。それでも、膝は細かく震え続けている。
敦と黒蜥蜴のメンバーは砂色の外壁を持つホテル周辺へと来ていた。とあるポートマフィア構成員が住んでいるというホテルだ。表通りから僅かに外れたそこには似たような外見の建築物がいくつも並び、小規模な公園があるというのに賑わいはない。昼間であることを忘れさせるような、静寂の区画。耳鳴りすらしそうなそれはポートマフィアを初めとする裏社会に親しいものがある。
路地から通りへと出、敦は目の前のホテルを見上げた。
――このホテルを前借りしていた情報員の名は、坂口安吾。
どの幹部派閥にも属さず、首領の命令で機密性の高い情報を他組織とやりとりする、いわば情報の運び屋だ。その構成員が突然、消息を絶った。広津はその捜索の命を首領から受け、見習い同然の敦を連れてこのホテルに来ていたのであった。
「このホテルはポートマフィアの息がかかっている。行方不明になった構成員は腕の立つ情報員でな、拷問したのなら黄金よりも貴重なマフィアの情報が手に入るような男だ」
「それで、太宰さ……ボスが直々に命を」
「ボスも何度か顔を合わせている構成員だ、そういう意味でも心配なのだろう」
――君に欲しいものを与えよう。君にそれを受け入れる覚悟があるのなら。
月下で見た黒い姿を思い出す。その周囲には誰も従えていなかった。だというのに身は竦んで、その背後に見えない部下を数十引き連れているような気さえしたのを思い出す。
あの人が、気に掛ける相手。
一体どのような人なのだろう。想像がつかなかった。
敦は広津と共にホテルの中へ足を踏み入れた。支配人から鍵を受け取り、彼が借りていた部屋に向かう。支配人曰く、彼は半年程前からその部屋に住み始めたものの、部屋に戻ってくることは滅多にないのだという。情報員だったというのだから仕方のないことだろう。誰かを部屋に引き入れることもなかったようだ。
部屋もまた、彼の性格を表すように清潔で整然としていた。
清掃が行き届いた部屋、小さな本棚に入った郷土資料と古い小説、しわ一つないシングルベッド。
敦はベットへと向かった。枕元の読書灯の下にあった本の表紙を眺める。名前だけは聞いたことのある、数学者についての伝記だった。
「……真面目な人だったんですね」
「そのようだな」
広津と共に部屋を見回る。彼の失踪に関する何かを見つけるためだった。日記か何か、残っていたなら手がかりになる。見回した敦はしかし、窓の外に光の反射を見つけて固まった。
見えた。
目の端、一瞬のみ。けれど確実に、それは見えた。そちらを改めて見る気力もなく、震える体をその場に留めておくだけで精一杯だった。どくりと首に食い込む首輪が、その内側に備わった鉤爪が、眠りを妨げるように敦へ痛みを与えてくる。
少しだけ、そちらへと目を向ける。窓の外を捉えた目はやがて虎の異能を得て視界を広げ、そして一点を拡大する。
遥かに離れたビルの一室、その窓――陽光を反射したのは、狙撃銃の照準装置だ。
狙撃。
この部屋は、狙われている。
「……広津、さん」
かろうじて名前を呼ぶ。
「敵襲、が」
広津は動じなかった。ゆったりと部屋の中を見回りながら、その後ろ手に回した手に力を入れることもない。
「方向は」
けれどその声は先程より低く鋭利だ。緊迫感のあるそれに、敦は喉をも凍り付かせる。何度か唇を舐めて、ようやく声を出した。言うべきことはわかっている、こういう時どのような言い方をすれば他の構成員が行動しやすくなるか、それはこの広津という男から教えられていた。
「窓の外……九時の方向、一キロ程度先の灰色のビルの……十二階に、狙撃手が一人です」
「了解した」
広津はやはりゆったりとした動きで部屋の中を移動した。狙撃銃が見えた窓から遠ざかり、台所の奥へとさり気なく覗き込む仕草をする。敦の視界から広津の顔が壁に隠れた。
「私だ。九時の方向、一キロ程度先の灰色のビルの十二階に狙撃手を一名発見、一班はそちらへ移動し狙撃手を捕縛せよ。二班は待機」
通信機へと送り込まれる声が聞こえなくなった後、広津は台所から顔を背けて敦の方を見遣る。
「何か見つかったかね」
それは情報員捜索についての話だった。は、と敦は短く息を吐き出す。狙撃手の姿を目の端に捉えながら、何も気付いていない素振りで部屋を見回した。
「と、特には……」
情報員の部屋は一通り見渡すだけで十分なほどに物が少なかった。日記のようなものもない。彼の交友関係どころか趣味すらもわからなかった。こうして他人が部屋を漁りに来るとわかっていたのではないかと疑うほどの質素さだ。おかげで勝手に部屋に入り込んでいる罪悪感が少なく済んでいて助かるが。
ふと、視界の端に捉えていた反射光が消えた。狙撃手が狙撃銃を下げたのだ。ドッと全身から力が抜ける。黒蜥蜴のメンバーが狙撃手の捕獲に動き出したらしい。首領に言われた通りあらかじめ警戒態勢を敷いていたが、まさかその言葉通りに狙撃手が現れるとは。まるで予言だ。
首領は――あの人は一体、何者なのだろう。
膝の震えが消える。と同時にカクリと膝が緩んだ。耐えきれず座り込む。
「敦君」
「すみませ……何だか、力が、抜けちゃって……」
どうにか立ち上がろうと床に手をつく。けれど自分の手は腕ごとガタガタと震えていた。
今の時間、一瞬とは呼べないような長い時間。
自分は、殺されかけていた。
何かを間違えば、死んでいた。
――死んで、いた。
「……ッ、う、あ」
怖かった。
ものすごく、怖かった。
首元を引っ掴む。首を隠す外套をファーごと掴み、その下につけた首輪の痛みを感じ取る。それだけが敦の思考を混乱から引きはがし現実に引き留めていた。虎の異能により治癒能力が施されたこの身では死に直結しない、首に深く食い込む杭。
まだ死んでいないことを教えてくれる、痛み。
「……少し休憩するか」
広津が言い、そしてため息をついて台所へと向かった。そのため息が出来損ないの自身への呆れであり失望であることなど、とうの昔から――孤児院にいた頃から、わかっている。
僕は邪魔にしかならない存在だ。異能もろくに扱えないし、死ぬのが怖くてしかたがない。なのに、なぜ。
――君をポートマフィアに勧誘したい。
太宰さんは、僕をマフィアになんて引き入れたのだろう。