落陽異伝 -邂逅
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落陽異伝(らくよういでん)本作品の夢主は「終焉なき」本編と異なる”可能性”を辿った同一人物であり、英国出身です。
カタカナでの名前を推奨しております。
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中也は苛立っていた。時は朝、日は高く外は明るい。けれどビルの中は照明に照らされ一律の明るさを均一に保っていた。外と一線を画した高層建築物内の世界。半年前から溜まり淀んだ空気がそこにあるかのような気さえする。
半年前——ある青年がこの組織の長となった時から。
足取りを荒くしたまま中也はエレベーターへと乗り込んだ。ガラス張りのそれから眺める景色は段々と平坦になっていく。目に映る全ての高層ビルの高さが一律になり、やがてそれらは玩具の街並みのように小さく低くなっていく。やがてコンパスで描けるほどの形の良い弧を地平線が描くようになった頃、ようやくエレベーターは停止した。扉が開く。眺め慣れた街並みからそちらへと顔を向け、中也はエレベーターから足を踏み出した。
毛の長いカーペットが敷かれた廊下は先ほどまでいた階層とは大きく様相を変えている。そこに銃器を備えた見張りがいなければ、高級ホテルの廊下と勘違いできるだろう。とても裏社会の武装組織の根城だとは思えない荘厳さがここにはある。
ポートマフィアビル最上階、執務室が鎮座する階層。
黒い背広姿の見張りは中也を見るなり敬礼した。それは、中也が彼に名を告げずとも奥へと進むことのできる階級であることを暗に示している。そしてそれが許されているのは、この先にいるポートマフィア首領と近しい者——幹部級の者だけだ。
それでも中也は両開きの扉の前で一度立ち止まった。背広を整え、帽子を被り直す。背筋を伸ばして扉の前に改めて立ち、中也は声を掛けた。
「ボス、中原です」
返事はない。けれど相手がこの扉の向こうにいることは知っている。
「入ります」
ドアを開く。広い一室は黒かった。壁も床も、天井も黒い。壁のうちの一つは全面窓であるはずだが、通電を絶っているためただのガラス製の壁と化している。黒一色の部屋の中、飾り燭台と執務机だけが、無駄に広いこの空間に居住という任務を与えている。
「やあ、中也」
中也がドアを開けて初めて、中にいたそれは口を開いた。その声は幼く、愉快そうに笑みを潜ませている。それでもこの部屋と同じほどの重苦しさを感じずにはいられない、静かな声ではあった。
「お帰り」
「……ただ今帰還いたしました、ボス」
「君にボスと呼ばれる日が来るとはね」
何かを求めるように声は笑った。執務室の奥、執務机の向こうにそれはいる。黒い部屋に溶け込んだ黒い男——黒い蓬髪に黒い外套、黒い眼差し。その片目を覆う包帯だけが白い。彼こそがこの暗黒の部屋の主であり、この漆黒の組織の長であり、そして中也と同い年にして元最年少幹部、太宰治なのであった。
「ボスだって、ボス。聞いた中也? 君の口が私をボスと呼んだのだよ。うふふ、なかなか良いねえ。何かの罰ゲームのようだ」
太宰の口調はその階級を疑うほどに幼い。からかうようなそれがわざと発されていることも、その口調が中也に反論を期待していることも、中也にはわかっていた。
しかし。
「ポートマフィアの首領である以上、相手が誰であろうと俺はそれをボスと呼び膝を折ります。それがこの組織の構成員としてすべきことですから」
中也は言い、帽子を取って胸に当て、軽く頭を垂れる。
「我らがポートマフィアの規律ある行いに何かご不満ですか、ボス」
「……いいや」
太宰は答えた。その口元に笑みはない。
「十分だ。そうあるべきなのだからね」
その声からは幼さをも失せていた。冷えた無感情がそこにある。人の心臓に突き刺せそうなその声は、太宰を中年にも壮年にも思わせた。
「ところで中也、報告は既に受けていたのだけれど……昨晩、武器庫が襲われたって?」
「はい。俺が向かった昨晩の密輸品受け渡し現場への襲撃情報はこれの陽動だったと推測されます。構成員を十一名失いました。面目もございません」
「いや、中也のせいじゃない。最高幹部だからといって何でも背負うことはないよ。と言っても君のことだ、間接的ではあるけれども一応この組織の構成員は皆君の部下なわけで、君は呆れるほどに部下思いなわけで……全く理解に苦しむね、なぜ君はとうに死んだ構成員に対してそこまで気をかけるのかな」
「手前には一生わからねえよ」
中也は一言吐き捨てた。その言葉に、口調に、太宰はきょとんと目を丸くする。
「そうか」
そして楽しげににこりと笑った。
「そうだね」
報告を続けて、と太宰が指示を出す。己の上司たる首領の言葉に中也は従った。
「武器庫警備の者六名、援軍要請を受けて現場に向かった者のうち五名の計十一名が死亡。死亡者は全員、九ミリを十発から二十発受けていました。うち三名に関しては弾が全て貫通していたと報告が上がっています」
「短機関銃で近距離からか」
「そう思われます。相手はかなりの手練れかと」
「武器庫の武器は」
「数点盗まれました。自動小銃が四十挺、拳銃が五十五挺です」
ふと、太宰が明らかに動揺した。それはおそらく、中也にしか見えないものだった。指をぴくりとも動かさないまま、太宰の周囲の空気だけが揺れる。
「……他には?」
「何も……持ち出されている最中援軍が到着し、トラックを一台逃したものの敵を壊滅させそれ以上の盗難を防いだと報告が」
援軍、と太宰は呟いた。まるであるはずのないものを目の前にして驚きに硬直したかのようだった。
「……それは予想しなかったな」
彼が何に驚き何に納得したのかは中也にはわからない。
「彼らをより多く動員させるために警備の数を増やしたけれど、盗まれる武器まで減るとは思わなかった。けどいずれにしろ収穫だ、敵の頭数を確実に減らせたしね」
「敵の頭数……?」
その言葉は奇妙だ。武器庫の襲撃がどこの誰によるものかはまだわかっていない。組織であるかさえも定かではない。少しばかり実力のある、浮浪者だったかもしれないのだ。なのになぜ今、敵の人数に関して言及する必要がある? まるで今後も彼らと衝突することがあると言わんばかりだ。
この男は中也の知る事実よりも多くの真実を知っているのだろうか。
それは珍しいことではない。太宰は常に誰よりも先を見通した思考を行っていた。陽動により取引現場へポートマフィアの戦力を集めその隙に武器庫を狙ってきた敵、その全貌を既に把握していたとしても疑問はない。これはそういう奴だ。
けれど。
中也は口を閉ざし、目の前の男を睨む。
黒い髪、黒い服、黒い眼差し。黒い部屋の執務室に座る黒き王。
その顔が、何かを知るように笑んでいる。
「……手前」
中也の声が木霊しないまま黒い部屋に吸い込まれていく。
「知ってやがったな? 俺が昨夜向かった現場が陽動だったことも、武器庫が襲われることも」
「敵の数は?」
「太宰」
「壊滅させた敵の数は何人だった? 中原幹部」
階級と共に呼ばれた己の名に中也は黙する。一呼吸分の時間を置いた後、大きくため息をついた。
「……十四名です、ボス。十二名が武器庫を襲撃、その援護としてトラックを率いていた者二名は殺害できたものの、二名を逃しトラックの逃走を許したと」
「悪くない数字だ」
「——おい、それはどういう意味」
「敵は海外から流入してきた軍人崩れだ」
中也に最後まで言わせず、唐突に太宰は告げた。
「彼らの名はミミック。聞いたことがあるだろう?」
中也は息を呑んだ。聞いたことはある。けれど噂話程度のものだった。外部から突如現れた正体不明の放浪者、軍隊じみた動きで次々と裏社会組織を圧し壊滅させるボロの外套を羽織った軍隊。けれどヨコハマに定住し縄張りを広げる様子はなく、ひたすらに犯罪組織の構成員を一人残らず殺していくその不可解な躊躇いのなさから「放浪する断罪人」とまで呼ばれている。
元宗教団体の組織《聖天錫杖》は壊滅前、彼らをこう評した。
――彼らは神仏から遣わされた、この混沌と化したヨコハマの地に秩序を取り戻させるための”裁き人”だ。
その血濡れた清らかな手が、ポートマフィアに伸ばされた。
「……マジかよ」
中也の呟きに太宰は楽しげに目を細めて執務机に肘をついた。
「彼らは二週間前から活動を盛んにしている。関東各地の犯罪組織を狙って縄張りを奪い、この裏社会を荒らしているんだ。とうとう高瀬會とKK商会も壊滅した。龍頭抗争後も辛うじて残っていたのだけれどもね。もはやミミックは関東の半分ほどを支配しつつある。彼らがポートマフィアの武器庫を狙うのは時間の問題だったわけだ」
「そこまでわかっていてなぜ何もしなかった」
「勿論、策は講じていたよ。その結果がこれだ」
太宰の言葉は不明瞭でわかりにくい。
「とにかく、ミミックについてはまだわかっていないことが多い。一番は敵の本拠地だ。そこを叩けば早いうちに勝機を見出せる。彼らとは長期戦をしたくはない」
「昨夜の取引現場にいた奴らについては数名捕虜を地下牢に送ってある。姐さんの拷問班が奴らに情報を吐かせるのを待つだけだが」
「武器庫の方は」
「全員死んだ。捕虜を捕らえる余裕すらなかったらしい」
「激戦だったわけだ」
ふうん、と太宰はつまらなそうな相槌を打った。策略を得意とする彼には、奇襲されたとはいえ援軍まで来ていたのに捕虜の一人も捕らえられない部下達に不満があるのだろう。
「まあ良いよ、後で姐さんとも話をしよう。縄張り全域の警戒を強化した方が良いね、契約会社や商店街の警備人員も増やそう。顧客を狙われるとさしものポートマフィアも存続が難しくなる」
「わかった」
「それと中也、広津さんを呼んでもらえる?」
「構わねえが……」
言外に理由を問う。しかし太宰はそれ以上口を開かなかった。話すつもりはない、ということか。普段なら意地でも聞き出そうとするか一人先へ思考を飛ばす太宰に舌打ちをしているところだが、と中也は軽く帽子に手を当てて頭を下げるだけに留める。その返しに太宰は沈黙した。意外だと言わんばかりだった。
「……訊かないの?」
「ボスの命令には従います。そして、ボスの思考を知りたがるのは俺達がすることではありませんから」
「……中也」
太宰の呼び声は呟きに近かった。それは首領の声というよりも、共に戦場を駆けた同年代の知人の声といった方が似ていた。太宰らしくない声でもあった。けれど中也は何も返さず、背を向ける。数歩歩き、両開きのドアの取手を掴んで開ける。
何も言わない方が太宰のためになると、わかっていた。
「……首領なんて良いものじゃないね」
歩みを止めない背中にその呟きは聞こえてくる。追うように、引き留めるように。
「中也までそちら側になってしまうのだもの」
ドアが中也の背後で閉まる。執務室と廊下が隔てられ、太宰と中也の間も物理的に隔てられた。