落陽異伝 -邂逅
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落陽異伝(らくよういでん)本作品の夢主は「終焉なき」本編と異なる”可能性”を辿った同一人物であり、英国出身です。
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『襲撃された武器庫の解錠が、坂口安吾の持つ暗証番号によって為されたことが判明した』
敦の件を報告した中也に、太宰はそう告げてきた。側には秘書役の銀、そして紅葉が集っている中での言葉だった。
坂口安吾。奴はどうやら先代首領が引き入れた情報員らしい。首領の座を太宰が引き継いでからも同じ役回りで情報の受け渡しをしていたが、それがあの武器庫襲撃とほぼ同時刻、ふつりと連絡が取れなくなった。敦を連れた黒蜥蜴が捜索したところ、坂口の借りているホテルの天井裏からミミックのエンブレムである旧式拳銃が発見された。そして現在、坂口に割り当てられていた暗証番号を使って武器庫が襲撃されたことが判明している。
ここまで来れば事実は明確だろう。
――坂口安吾が、ポートマフィアを裏切った。
もしくは裏切るつもりでポートマフィアに潜入していた、ミミックの諜報員だった。
誰が考えてもそういう筋書きしか考えつかないはずだ。だというのに。
『安吾はシロだ』
太宰は執務机に肘をついて両手の指を組み、悠然と言ったのだ。
『根拠は明白、今現在私の元にミミックが襲撃してきていない。安吾が私を裏切ってミミックに下ったのなら、まず真っ先に首領の首を取りに来る。それも早い段階、私達が安吾の裏切りに気付いて警戒態勢を強化する前にね』
あの余裕綽々とした顔を思い出すたびに、苛立ちが血潮のように逆上せ上がってくる。奴はすでにそのことをわかっていたのだ。そして、その上で中也を煽るように安吾がどうとかと深刻な顔で話し出した。事態の深刻さを逆手にとった嫌がらせだ。あいつのそういうところが気にくわない。
「あんにゃろ……」
自身の部屋の机を苛立たしげに指先でトントンと叩き、中也は嘆息する。ポートマフィア幹部には一人一つ、執務部屋が割り当てられていた。書類業務などはこの部屋で行う。とはいえ最近はあまりこちらの仕事に手をつけていなかった。おかげで部屋の本棚や足元は書類やファイルで山積みだ、窓を開けたのならその瞬間、束ねていない紙切れ達が宙を舞うだろう。整頓したいところだがミミックの件で外に出ることが多く、なかなか手を付けられない。
体重のかけ方を変えた肘が、机の上で少しずれる。それに押し出されるように机の端に寄せていた書類の山がずるりと移動し、何枚かが足元にはらりと落ちてしまった。舌打ちし、椅子の上から腰をかがめてそれを拾う。
紙を掴んで上体を上げた中也の眼前に、カチャリと白いティーカップが置かれた。中身は空だ。
「もしよろしければ、いかがですか」
顔を上げる。自分より年下の少女が陶磁のポットを手に対人用の微笑みを浮かべていた。
「カップを調べていただいても良いですよ。ポットも。必要なら毒味もしますし」
「要らねえよ。毒入れてねえんだろ」
「ですが今の状況を考えると仲間を信用しすぎるのは良くないと思います。ましてや中原幹部とわたしは今日顔を合わせたばかり。ここぞとばかりに毒を盛り、ポートマフィアを内部から崩壊させようとするかもしれませんよ」
「すんのか」
中也は机の向かいに立つ少女を睨み上げた。その変わらない微笑みを、その青い目に映らない本心を、見据える。
「仮に手前が俺達の敵だったとして、そうすんのか」
中也の背後から斜めに差し込む日差しが少女の腰元へと光を注ぐ。そこに提げられた銃が黒く照る。
「いいえ、しません」
クリスは当然のように答えた。
「わたしだったら五度程お茶をして相手の警戒心を解いた頃を見計らって、少しずつ盛ります。体調不良と勘違いするほどの量です。そして相手が薬を求めるようになってからは薬と毒をすり替えて段々と量を増やしながら飲ませます。その方が犯行がばれるまで時間があるので、その間に行動できます。即死を狙うのなら毒なんてものより寝所に誘っていただいて奇襲、が手っ取り早いですね」
「……その手の工作員か」
「知識があるだけですよ」
中也の言葉なき指示を酌み取り、クリスはカップを手に取りポットを傾けて茶を注ぐ。紳士のような手際の良さによってポットから現れたのは、琥珀色の紅茶だった。香ばしい香りが湯気と共に部屋に昇っていく。その間にも、クリスの笑顔に変化はない。敦と同い年のはずだが、声の幼さとは裏腹に行動全てがだいぶ大人びている。
「ここに来る前は小さな組織にいました。親が関係者で。そこで、子供ということを利用してそういった小細工を」
「組織の名は」
クリスが告げたのは一度だけ聞いたことのある地下組織の名だった。このヨコハマに数え切れないほどある、ポートマフィアなどの巨大組織の傘下に入ってようやく存続できるような程度の組織の一つだ。ヨコハマ租界の近くに拠点を構えていた気がする。
「潰れましたけどね。理由はよくわからないんですけど、わたし以外全員死んでしまって。どうしようかと思っていたらポートマフィアの人に見つかって、あの手この手で逃げていたら逆に評価されてしまってスカウトされました」
裏社会の大手であるポートマフィアの追撃を十五程度の女の子供が躱していたのなら、それは確かに高評価だろう。殺すには惜しい人材だ。なるほど、と中也は顎に手を当てる。
あの地下室での行動も、彼女の過去を聞いていれば腑に落ちるものであるような気がしてくる。その年のわりに経験があるのだ。けれどそれならばなおさら、この異常なまでの純粋さは何なのだろう。
人の死を、裏切りを、抗争を、目の当たりにしてそれでも日の下ではしゃぐ子供と同じ心を保っていられるというのなら、それはもはや人としての心を失っているということになるのではないだろうか。
「どうぞ」
クリスが改めてティーカップを差し出してくる。ああ、と頷き、中也はその揺れる琥珀色の液体を見つめた。紅茶など久し振りかもしれない。飲むとしたら珈琲だ、さらに言うならば酒だ。紅茶などという洒落たものは激務の中ではなかなか淹れようと思えない。
白い取っ手を摘み持ち、口に近付ける。一瞬毒の話を思い出したが、振り切るように口を付けた。クリスがミミックかどこかの組織の人間だったのなら、先程彼女が言ったようにまだ毒は盛ってこない。この紅茶は安全だ。
「美味いな」
「ありがとうございます」
中也の簡単な賛辞にクリスは胸元に手を添えて軽く膝を折った。その仕草は英国淑女を思わせる。ドレスを着ていたならさぞかし映えたことだろう。地下組織の育ちにしては品が良いようだ。
「わたしがお話できるような身の上話はこの程度ですが……まだ何かお尋ねしたいことはありますか?」
「あー……そうだな」
正直、と中也はカップに口を付けて紅茶を味わう素振りで考え込む。
正直、太宰が気にしたのはクリスの出自だったのだ。中也は彼女の実力が経験に裏打ちされたものなのだと納得したし、話してみたところ嘘をつかれているような違和感もない。むしろ、所属もなく下級構成員として下働きをさせておくには惜しい人材のようにも思う。
――その清廉なる異常ささえなければ、の話だが。
「じゃあ、一つ良いか」
「はい」
「この紅茶、茶葉は何だ?」
そこで初めてクリスは表情を変化させた。形ばかりの笑みが消え、目を丸くする。きょとんとした表情、というやつだった。口元から力が抜け、少しばかり間抜けたような顔つきになる。こんな表情もできたのか。
ふ、とその目元が緩む。
「……ふふッ」
そして彼女は口元に手を当てた。
「あははッ」
その清らかな白さに似合う、透き通った笑い声だった。
途端、中也の胸に安堵が広がった。そうしてようやく、自分がずっと緊張を保ち続けていたことに気付く。全身が強張っていた。見える位置に置いた両手も、いつでも椅子を蹴って机の反対側へと飛びかかれるようにと踏ん張っていた両足も、全て目の前の年下の少女を警戒しての癖だったのだと今更気付く。
「茶葉、ですか。そうですね、その説明をすべきでした」
笑みを頬に残したままクリスは中也へと向き直った。細められた目が嬉しそうに中也を見据える。
そこにあった色合いは――ただの青ではない。
水面。微かに風を受けて揺らめく湖面、青空を映した反射鏡。そこに映り込む水辺に茂る深緑の木々、その緑が湖面に映り込み、青を際だたせている。
湖畔の眼差し。
自然が生み出した美、それが今、目の前にある。
――穢れなき少女に、宿っている。
息を呑んだのは、見えるはずのない湖畔の景色を垣間見たからか。
「春摘みのダージリンです。日本でも一般的な茶葉だと思います。すっきりとして香り高いので、ストレートがおすすめです。飲みやすいものをと思い薄めにしてみましたが、お口に合いましたか?」
クリスの声が部屋を木霊し、余韻が中也の耳に届く。尻上がりになったその響きを耳が認識して初めて、何かを問われたのだと気が付いた。慌てて記憶を辿って訊かれた内容を思い出す。
「……ああ。悪くない」
「それは良かった」
返事の遅さを気にした風もなくクリスは安心したように微笑んだ。
「お疲れのようでしたので、珈琲ではなく紅茶を淹れさせていただきました。少し残っていますので、もし良かったらあたたかいうちに二杯目をどうぞ」
彼女はそう言い、執務机の隅にポットを添える。そして改めて机の前に立って中也を見据え、胸元に片手を当てて軽く頭を下げた。今度は英国紳士のような仕草だった。
「それでは、わたしはこれにて。また何かご用がございましたらお呼び下さい。幹部のお声がけとあらばどこにいようと駆けつけます」
「……ああ」
気の抜けたような声が自分の喉から出た。それを返答と受け取ってか、クリスは顔を上げてくるりと背を向ける。体の軸のぶれない、毅然とした動きだった。その動きに半瞬遅れて髪がふわりと広がる。透き通る亜麻色がベストに覆われた背を隠す。
少女の背が部屋の扉を開けてその向こうへと出て行く。閉じた扉のパタンという音が、部屋の中に一人きりであることを中也に告げた。
は、と息を吐く。椅子にぐったりともたれかかり、そしてずるりと肩を滑らせた。後頭部と背もたれが擦れ、帽子の鍔を押し上げる。脱げかけたそれを手で押さえ、しかしずるりと額へとずり下げて顔を覆い隠した。
「……何なんだよ、ありゃ」
その言葉に答えてくれる声はない。
「どうして……こっち側にいやがる」
帽子の下で目を閉じる。何かが網膜に焼き付き、瞼の裏で踊っていた。人型の残像だ。それが、暗闇の中で歪みながらゆらゆらと目の前をたゆたっている。
眩しかった。ただ、それだけだった。
彼女は――あの少女は、闇の中にいるべきではない。血と裏切りがひしめく無秩序の中にいて良い存在ではない。
あれは光だ。
闇とは正反対の、闇を知らない光の世界で輝くべき純白の光そのものなのだ。